1-5
五月の終わりにさしかかると、汗ばむことも増えた。日が落ちると今度は肌寒くなるものだから、部活に入ってる人は大変だなぁなどと他人事に考える。
「ただいまー」
放課後、帰宅した結芽は脱いだ靴を揃えることもなく玄関から自宅にあがると、喉の渇きを覚えながらもまずは二階の自室へと向かった。
「お父さん、お母さん、ただいま」
鞄を置いて、机の上の写真立てに笑顔で話しかける。写真の中の両親は仲睦まじく肩を抱き合い、自分に向かって微笑んでいた。しかし、この笑顔がおかえりと返してくることは二度とない。結芽はわずかにこみ上げる寂しさを振り切るように数秒だけ目を閉じてから、再び一階へと降りてリビングを経由し、キッチンのドアを開けた。洗い場の前で、マロンブラウンの髪がふんわりと
「結芽ちゃんおかえりなさい。すみません、気付かなくて」
「ただいま、いいのよ。十岐、冷たいお茶ある?」
「ありますよ。でもその前に靴を揃えて、手洗いとうがいをしてきてくださいね」
食器棚の戸に手をかけようとした結芽を、十岐がにっこりと制した。結芽が苦笑いでちろっと舌を出す。
「ばれたかー……」
「そんなことだろうと思いました。お茶は私が用意しておきますので」
「はぁーい」
唇をとがらせて、渋々玄関へと
二度と家の中で聞くことはないと思っていた「おかえり」も、靴や手洗いに関する注意も、また聞くことができている。みんなが気をつかってくれていることが、ありがたかった。おかげで今こうして再び笑っていられる。
思わず微笑みながら靴に手をのばしたそのとき、がちゃりと音がして玄関が開けられた。顔を上げた結芽は、珍しい来客にきょとんとしてしまう。肩より少し短いアシンメトリーな髪に、シルバーのメッシュが入っている。その長い前髪の間から切れ長の目が覗いていた。
「おや」
来客が結芽の姿を認めて、僅かに目を見開いた。
「ずいぶん元気になりましたねぇ。いやはや安心しました」
笑顔を浮かべるその男性の様子に、結芽は苦い顔で返した。
「べつに心配してなかったくせに……いらっしゃい氷雨さん」
「失礼ですね、心配くらいしてましたよぉ。ちょこっと、ほんのちょこっとだけね」
「……そーですか」
「そーなんです。お邪魔しますねー」
くすくすと笑いながら靴を脱いであがる氷雨を横目で見送りながら、自分は洗面台で手洗いとうがいを済ませる。
「あ、それ私のお茶」
リビングに戻ると、十岐が用意してくれていたお茶を氷雨が飲んでいた。
「いただきました。喉がかわいてたので」
「結芽ちゃんごめんなさいね、私がどうぞって言ったんです」
「別にいいんだけど……氷雨さん、あまり十岐を困らせないように」
「わかってますってー」
少しも悪びれないところが氷雨らしい、すっかりペースを乱されてしまった。彼相手に主導権を握れる人など、亡き両親以外では結芽は知らない。そして、戦闘の実力も。結芽や利津だって彼には勝てはしないのだ。
敵にまわすと厄介な人物ではあるが、香椎派のことをとても大事に考えてくれている。だからこそ気をつかうこともなかった。
「で、なにか用事があって来たよのね」
十岐が新しく用意してくれたお茶が入ったグラスに口をつけて、ソファに座る。お茶菓子に手を伸ばしていた氷雨が、思い出したように頷いた。
「ああ、そうでした。先日加入したとかいう男の子、特訓中だという話を利津くんから聞いたので。ちょいと手伝おうかと思いましてね」
「それは助かるわね、ありがと。私がさっき帰ってきたところだから、もうしばらくしたら来るんじゃないかな」
学校から駅までは一緒だが、そこからは達規の家は結芽と反対方向だ。それでも彼はいつも一度帰宅して着替えてから香椎家に特訓を受けに来る。壁時計を見上げ、まだ時間に余裕があることを確認してから結芽はソファから腰をあげた。そういえば、自分はまだ制服のままだったのだ。
「私、着替えてくる。氷雨さんはゆっくりしてて」
「はーい。いやあ、楽しみですねぇ」
□
さすがに一ヶ月で特訓に慣れることは難しいらしい。課せられた自主練も欠かさず行っているためわずかに筋肉がついてきたような気はするが、ほぼ毎日行われる特訓はどれも容赦なく厳しいもので、毎回終わることにはくたくたになっている。
だが、今日はいままでの比ではなかった。
「……情けないや」
達規は今日何回目かわからない溜息をつく。
隣で結芽が苦笑した。
「まあ、しょうがないわよ今日は」
いつも通り特訓を受けるために香椎家にあがった達規を待ち構えていたのは、初めて会う男性だった。なんともいえないミステリアスな雰囲気(ついでに年齢も見た目ではよくわからなかった)を持った彼は、氷雨という名前らしい。どうやら香椎派で一番の実力者らしく、自分の特訓のために来てくれたようだった。
特訓はいつも通り、香椎家の地下にある訓練場で行われた。一見普通の家屋である香椎家だが、やはり派閥の人たちが訓練を行うための施設があったのだ。
最初は体術の指導と組手。それからナイフを想定した短い棒きれを使ったり、射撃場で銃の扱いを教えてもらったり。ここまではいつもとたいして変わらなかった。
「ふむ、少しは形になってきていますね」
ひと通りの特訓を終えたあと。氷雨は納得するようにそう言ってから、あごに手をあてて何やら考え込んだ。そして、唐突に質問をしてきた。
「……君は、本気の殺気というものを向けられたことがありますか?」
「殺気?」
あの二人組に襲われたときの、ぞわりとした感覚のことだろうか。その考えを見抜いてが、氷雨は首を横に振る。
「あ、下っ端のものは除いてください。結芽くんとか、利津くんたちの殺気に直面したことはありませんか」
「たぶん……ないと、思います」
「そうですか、では……」
達規の回答に、氷雨は僅かに目を細めた。
「少し、体験しておいたほうがいいかもしれませんね」
その言葉を聞いてからの記憶は、途絶えている。
気がつけば派閥に巻き込まれたあの日に使われた部屋のベッドに寝かされていて、目を覚ました達規はまずデジャヴかと思った。ふらつきながらリビングまで行くとなぜか結芽が氷雨を叱っているところだったため、そこでなんとなく状況を察することができた。
どうやら達規は氷雨の殺気にあてられ、卒倒したらしい。氷雨いわく「戦いの場で気絶されたら困るじゃないですかー、慣れておいたほうがいいと思うんですよねぇ」とのことで、確かにそれは納得できる理由ではあるができれば事前に言ってほしかった。
「とにかく、そういうのはせめて段階的にやってあげてちょうだい。毎回倒れて後頭部ぶつけてたら、達規が馬鹿になっちゃうわよ」
そう叱る結芽の言い方もどうかと思うけれど、確かにこれ以上は頭に支障をきたしそうだ。達規は自分の後頭部にできたたんこぶをそっと撫でながら苦笑した。
その後、体調が心配だから送るという結芽の申し出を断りきれず、今に至る。
(女の子に送ってもらうって……)
倒れたとかそういうことはともかく、今の状況が情けないのだった。外は薄暗く、たまに仕事帰りのサラリーマンとすれ違うものの、通行人はほとんど見かけない。女の子をひとりで帰すような時間ではない。
そんな達規の心境など知る由もなく、結芽は倒れたことに対する心配ばかりをしていた。しょうがないことではあるが。達規はおまけとばかりに、こっそりと息を吐く。
そのとき、ふいに耳鳴りがした。普段なら気にかけることもないが、今回はなぜか引っかかった。
「……?」
首を傾げていると、隣で小さく呟く声が聞こえた。
「……人払い」
その言葉で、一気に緊張が全身を支配する。次の瞬間、前方を塞ぐ影があった。
先月、達規を騙して派閥に巻き込んだ、あの二人組だった。
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