クマに頭突きしたらヤバいことになった

ゆむ

大一升 田村

第1話 田村、クマになる

 五月十八日 二十時五十三分


 H海道S幌市。静かな住宅街。男が歩いている。

 彼の名は田村博道、四十二歳独身、中小企業勤務の冴えないオッさんだ。田村は勤務を終えて帰宅の途をいつものように歩いていた。


 その彼の前方二十メートルほどの角の向こうで獣がゴミを漁っている。恐らくはキタキツネ。観光客に人気のこの動物は、地元住民には好かれていない。基本的に人間に直接危害を加えることは無いが、ゴミを荒す上に、恐ろしい寄生虫の感染源となる。エキノコクス以外にもどんな病気を保有しているか分からない野生動物から少しでも遠ざかりたいのだろう、田村は道路の反対側に寄って通り過ぎようとした。

 足を早めつつ音の方向を見ていると、それが姿を見せた。茶褐色の毛に覆われた体長一・六メートルほどの巨大な体。エゾヒグマ。恐るべき猛獣である。


 それを見た田村は凍りつく。悲鳴をあげて逃げるようなアホではないらしい。

 田村は数歩後ずさりをして、クマを睨みつつ手足を広げる。教科書通りのクマ遭遇時の威嚇のポーズだ。


「あっち行け。」


 力強く低い声で言う。だが、クマは田村を睨んだまま動かない。


「向こうに行ってください。お願いします。」


 田村は丁寧に言い直すが、野生のエゾヒグマが人の言葉など分かろうはずもない。田村を睨んだまま前足で地面を叩いている。こちらも威嚇体勢だ。


「行けって言ってんだよ!」


 田村は泣きそうな声を出す。無理もない。素手の人間とヒグマの戦闘力の差は歴然としている。正面からぶつかって勝てるはずがないのだから。クマの方はバンバンと地面を叩きながら唸り声を上げている。


「クマだ! クマァァァァ!」


 田村は堪えきれずに大声を上げた。それに反応して、クマが田村に向かって突進する。田村は慌てて後ずさる。もう泣きそうどころじゃない。いや、既に泣いている。

 追い打ちを掛けるように、クマが咆える。田村はもう失禁寸前だ。

 田村が後ろに下がって距離を取ろうとすると、クマが前に出てくる。これでは逃げられない。絶体絶命のピンチというやつである。


「我が正義の拳を受けよ!」


 突如ヤケクソ気味に叫んで田村はクマに向かって走る。クマも半歩引いて頭を低く下げて構える。

 そして、田村のダイビングヘッドバットがヒグマの脳天に炸裂した。拳と言いながらまさかの頭突きである。両者仲良くダウンし、アスファルトに突っ伏す。

 カウント8でクマが飛び起きて、キョロキョロと何かを探す。後ろ足で立ち、変なポーズを取りながら、慎重に辺りを窺っている。そして足元に転がる人間に前足を伸ばし。


「なんじゃこりゃああああ!」


 突如、クマが素っ頓狂な声を上げた。興奮した鳴き声を上げながら自分の前足を見ていたかと思うと、前足を伸ばして足元の人間を転がす。

 クマが天を仰いで咆哮する。その姿は強敵を倒して勝利の雄叫びを上げているように見えなくもない。

 と思ったら、呆けた顔をしてその場にへたり込んだ。そのまま数分の時が流れ、突如クマが我に返ったように動き出した。クマは地面に横たわる田村の頭めがけて、頭突き繰り出した。


「戻れええええぇぇ!」


 クマが叫びながら頭突きを繰り返している。田村の顔は血まみれである。


「何でだよ!何でクマなんかになっちまうんだよ。」


 なんと、田村とクマの精神が入れ替わっていたのだ。慟哭するクマ。もとい、田村。

 その横で田村の体が起き上がる。どうやら、クマの精神が目覚めたようだ。田村の体は、クマの体を見て大きく咆え、警戒体勢に入る。が、バランスを崩して倒れ込む。慣れない人間の身体を上手くコントロールできていないようだ。何度か転んで、田村の体は傷だらけになっていく。


「やめろー! やめてくれ!」


 クマが叫び、田村の身体を抱きかかえる。抵抗してもがく田村。しかし、所詮人間の腕力ではクマのパワーには敵うはずもなく、逃げ出すことはできず、ただ咆えるしかできない。



 そのころ、クマ出没の通報を受けてパトカーが急行していた。誰だって自宅前でクマが吼えまくっていれば通報するだろう。銃を持たない周辺住民は恐怖のどん底に違いない。田村がクマに遭遇してから約十七分程度で二台のパトカーが田村の前に到着した。

 だが、ライフルも狩猟技術も持たないただの警察官は野生のヒグマを前にパトカーを降りることはない。日本の警察官が拳銃でエゾヒグマを射殺するなんてことはできない。できることと言えば、スピーカーで周辺住民に家から出ないよう呼び掛け、光と音で脅して山に追い返すくらいである。

 しかし、現状ではほぼ何もできることが無かった。

 クマが泣き喚く男性を抱きかかえているのだ。下手な刺激をすれば、男性が殺されてしまう。警察官はそう判断したのだろう。

 クマと警察の睨み合いが続く。


 徐に、クマが被害者男性を抱えたまま立ち上がり、二足歩行でパトカーに向かって歩き出した。

 この動きは想定外だったのだろう。警察官達が慌てだす。クラクションを鳴らしたり、ヘッドライトを明滅させて脅そうとしている。

 しかし、その、クマは田村なのである。人間の精神を持つクマにそんなことは通じない。

「お巡りさん、助けてくれ……」

 クマがそう言いながら、パトカーのフロントガラスを叩く。


「うわあああああ! 逃げろーーーー!」

「落ち着けー!落ち着けー!落ち着けえぇぇえ!」


 大パニックを起こしながら、バックで急発進して、逃げ出すパトカー。田村がもう一台に向き直ると、それも逃げて行った。


「どうすりゃ良いんだよ……」


 クマの田村がボヤく。抱えられた田村の身体は疲れたのかおとなしくなっている。

 田村は檻の中のクマのように、ぐるぐる歩き回る。檻など無いのだから自由に動き回れば良いはずである。同じ場所をぐるぐる歩き回るのはクマの習性ではないはず。いや、動くに動けないのだろうか。クマの精神が入った身体を置いて行けば、何をするか分からないし、クマの身体で行くところなど無いだろう。田村は精神の檻の中に入れられてしまったといったところであろうか。


 複数のサイレン音が近づいてくる。田村は立ち上がり、音の方向を見ている。表情からは何を考えているのか見て取れない。

 十台を超えるパトカーが田村の前で停まる。

 数台のパトカーを盾にするようにして、奥の車両からライフルを所持した一人の高齢の男が降りる。熊退治に来た猟師だろう。


「ちょっと待て。話を聞いてくれ。」


 クマが言う。

 猟師がライフルに弾を込め、安全装置を外す。


「撃たないでくれ! 命だけは助けてくれ!」


 クマが叫ぶ。


「クマが一丁前に口利いてるんじゃねえ!」


 猟師は叫び、ライフルを構える。


「俺はクマじゃない。人間だ!田村博道だ!」

「嘘を吐くな。騙されんぞ!」


 この男はクマが喋ることに疑問を持たないのだろうか。


「やめろ! 撃つな! 話せばわかる! ちょっとお巡りさん、そいつ止めて! 撃つなって! 本当に! マジで!」


 田村は必死に命乞いをしている。


「おあああいおおあ!はあおあ!はあううあおあ!」


 突然田村の身体が叫び声を上げた。


「クマはこいつだ! 体が入れ替わったんだ! 助けてくれ!」


 泣きながら叫ぶクマ。

 何が起きているのか分からず、パトカーから何人か降り、そのうちの一人がクマに向かって声を上げる。


「お前は喋れるのか?」

「喋れます。私はクマではありません。人間です。田村博道、四十二歳、勤務先は四ツ橋工業です!」


 クマが応える。ついでに抱えている男が吼える。


「そんな恰好で何をしてるんだ。その人を離しなさい。」


 警察官が顔を顰めて言う。きっとこの警察官は、クマに抱えられた男は怯えて暴れているとでも思っているのだろう。


「この人はクマです。私と体が入れ替わったんです。」

「そんなバカなことがあるか! 良いから離しなさい。」


 何故この人達は自分が知らないことについて、相手が嘘を吐いていると決めつけるのだろうか。


「証拠なら、あります。」


 田村は冷静に言う。


「こいつは言葉を喋ることができません。そんな奴がどうしてスーツを着て歩いているですか。試しにこいつに何か聞いてみてください。」


 それはクマと人間の体が入れ替わったという証拠にはならないが、田村の体が正気を持っていないという証拠にはなりそうだ。警察に人間の体の安全を確保してもらうことは出来そうだ。


「そこの鞄の外ポケットに社員証と名刺が入っています。四ツ橋工業の田村博道です。技術部長の高橋と話をすれば、私が本人であることが分かるはずです。」


 警察官がパトカーに戻り、何やら話し込んでいる。あまりにも想定からかけ離れた事態に対応を決め兼ねているのだろう。

 十五分ほど経った頃、対応が決まったのだろうか警察が動き出した。

 パトカーが三台を残して帰っていく。ライフルを持った猟師はその場に残り、田村を睨みつけている。


「クマは人を騙す。そいつの言うことを信じるな。」


 まだ言っている。このボケたお爺ちゃんに銃を持たせて大丈夫なのだろうか。そのうち、クマが化けているなどと言って人間を撃ち殺しそうだ。

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