第3話 出会いに乾杯
「お、お邪魔します……」
「はい、どうぞ」
ベランダでのやり取り後、私は徒歩三秒のミカゲさん宅へやって来ていた。ミカゲさんはドアを開けて待っていてくれた。そこで初めて、ミカゲさんの全体像を知る。
背は思ったより高い。雰囲気が優男っぽかったからもっとひょろひょろしていると思っていたのに、体つきは結構がっちりしている。
やっぱり早まったかな、と思いつつ。空腹には勝てず、促されるまま家にお邪魔する。当たり前だけど、うちと同じ間取りだな、と思った。でも、部屋の様子は全然違う。物に溢れて荒れ放題の我が家とは違い、物自体が少ない。生活に必要最低限な家具と、あとは大きな本棚はあるけれど、部屋は綺麗なものだった。男の人の家より汚い我が家ってどうよ。引け目を感じつつ、前を歩くミカゲさんの背中をチラリと見た。
このアパート単身用だし、こんな風に私を気軽に家に入れるということは、独身、なのだろうか。見たところ、30代だよね。
「何か飲みます? チューハイ、ビール、焼酎ありますが」
「えっ、あっ、はい! チューハイで」
「はい。やきとりはもうテーブルに出ているので、座って寛いでください」
テーブルを指さして、ミカゲさんは言った。確かにお皿に大量のやきとりが置いてある。一人で食べるために買ったとしたら相当の大食いだ。
「それねぇ、職場の方に頂いたんですけど、食べきれなくて困ってたんですよ」
「……そうなんですか」
この人こそ、何の仕事をしている人なのだろう、と思ったけど、ズケズケと聞くのはどうなんだろう、と躊躇って聞けなかった。
「グラスがないので、缶のままですみません」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
ミカゲさんからチューハイの缶を受け取った。ミカゲさんはもう自分のビールのプルタブを開けていたので、私もそれにならってプシュ、と小さく音を立てる。
「じゃ、今日の出会いに乾杯と言うことで」
コツン、と缶同士を合わせた。ミカゲさんは美味しそうに喉を鳴らしてビールを飲んだ。机の上には既に空いた缶が二本ほど置いてある。
またぐぅ、と腹の虫が鳴ったので、とりあえずやきとりに手を伸ばした。炭火で焼かれたのか、美味しそうな焦げ目もある。口に含むと濃厚なタレの味が口の中に広がった。美味しい……。
あっという間に一本食べ終わり、遠慮も忘れて二本目に手を伸ばした。久々の食事ということもあって、勢いよくぱくぱくと食べてしまう。そのやきとりを、チューハイで流し込む。お酒を飲みながらやきとりを食べるなんて、こんな贅沢いつぶりか。夢中になって食べていると、ミカゲさんが頬杖をつきながらニコニコと私のことを見ていることに気がついた。
「……すみません、私ってばつい夢中で……」
「いいんですよ。そんなふうに美味しく食べていただければニワトリも浮かばれます」
そう言いながら、ミカゲさんはようやく私が来てからの最初の一本に手を伸ばして、パクリ、と口に含んだ。
「僕だけじゃ食べきれないので、好きなだけ食べてください」
「……では、遠慮なく」
許可も得たので、私は何本目かのやきとりを口に含んだ。久しぶりのまともな食事に、手が止まらない。私たちはやきとりを食べながら、お互いに身の上話をしたり、私は私でさっきの出来事の愚痴をこぼしたりした。そこで私はミカゲさんが大学の講師をしていて、このやきとりは農学部からのおすそ分けだと言うことを知った。
ミカゲさんは、私のどうでもいいような話でさえ、しっかり目を見て、一つ一つうんうんと相槌を打ちながら聞いてくれる。それが非常に心地よかった。ここ最近、パソコン画面としか向き合ってなくて、人との会話もまるでなかったから。
よく考えたら、不思議な光景だと思う。初対面のお隣さんの家でこうして会話をしながらやきとりを食らっているんだから。
結局お皿にあった殆どのやきとりを私が平らげてしまったのに、ミカゲさんは嫌な顔せずに、むしろありがとうございますと言った。
飲むペースが少し早かったかもしれない。いい具合にお酒も回ってきた。
「少し、顔色が良くなりましたね」
「え?」
「さっきまでは、ひどい顔色をしていましたから」
でも確かに、ついさっきまで世界のどん底に居たような気持ちだったのに、今はそうでもない。それは、思う存分美味しいやきとりと美味しいお酒を堪能したから、ということもあるんだろうけど、何よりミカゲさんが、私の愚痴を聞いて、たくさん労ってくれて、私の心を軽くしてくれたからなんだろう。
あぁ私、このひとのこと、なんか好きだなぁ。
酔いが回った頭で、ぼんやりと思った。うまく言葉に出来ないけど、そう思ったのだ。さっきベランダで、私の頭を撫でてくれた手を見つめる。もう一度、ああしてくれないかな。そうしたら、明日からもまた頑張れる気がするのに。
ミカゲさんはまた頬杖をついて私のことを見ている。すると、不意に私の口元に手を伸ばした。
──え。
キスされる、と思った。でも、ミカゲさんは、ぐい、と親指で私の口元を拭って、にこりと笑った。
「タレが、付いてました」
そう言われて、我に返る。当たり前じゃないか何を期待してるんだ私は! 勘違いをしてしまったことが恥ずかしくて、顔に熱が一気に集まる。
「……どうしました?」
「あっいえ、違うんです。キス、してくれるのかと、思って」
って、何を正直に白状しているんだ。テンパりすぎだ。はやく訂正しないと、おかしい人だと思われる! いや、しかしどうやって!?
考えあぐねていると、ミカゲさんはポンポン、と私の頭を撫でてから、するり、と指で頬をなぞった。その触り方がすこしだけ、艶めかしさをはらんでいる気がして。私は思わず肩を竦めた。
「します?」
「え」
予想外の言葉に顔を上げる。ミカゲさんは私がそうすることを分かっていたかのように、その瞬間に唇を奪った。キスなんてかなり久しぶりだったから、どうしていいのか分からなくて。
「んっ、ふ……」
差し込まれたミカゲさんの舌も、うまく受け入れることができなくて──つつ、とどちらのか分からない唾液が口元を伝った。いつの間にか後ろに回されたミカゲさんの手に、逃げ道を塞がれる。
「鈴木さん」
「は、……」
「下の名前を伺っても?」
「ふぁ……あ、絢、です」
「じゃあ、アヤちゃんですね」
人の良さそうな笑みだ、と思っていたのに。この時の笑みは、意地悪っぽくて、妖艶で。
「アヤちゃん、ベッドに行きましょうか」
こんなのは、よくない。頭ではそう思っていたはずなのに、心も体もそうしたいと望んでしまっていた。耳元で優しく囁かれた言葉を、拒否することなんてできなかった。
久々のセックスでガチガチになっていた私を、本当に溶けてなくなってしまうんではないかと思うくらいふにゃふにゃにしたミカゲさん。荒んで乾いてどうしようもなかった私の心と体を、潤してくれた。ミカゲさんは、ことを終えて私をその腕の中に抱いている間も、ずっと私の頭を撫でてくれていた。その優しい手に安心しきって、私はいつの間にか深い眠りについてしまっていた。
* * *
久しぶりにこんなによく眠れた。よく眠れたからか、頭も冴えている。起きた時、私はミカゲさんに抱かれたままだった。その寝姿から、ずっと頭を撫でてくれていたことが見て取れる。もぞ、と体を動かすと、それに気づいたミカゲさんも目を覚ました。
「……おはようございます、アヤちゃん」
「……おはようございます」
初対面の男の人と、しかもお隣さんとなんて、随分と大胆なことをしでかした、と思う。
ミカゲさんは大きな欠伸をしながら私に尋ねた。
「今日は何か予定があるんですか?」
「今日も、明日も、漫画描きます。……あと、ついでにバイトも探します」
やっぱり、実力不足を突きつけられても、漫画家としてやっていきたい。昨日のことは流石にちょっとへこんだけれど、ミカゲさんのおかげで頑張れそうだから。当面は、バイトもしなくちゃいけないと思うけど。
「アヤちゃんは頑張り屋さんですね。でも、一人で頑張りすぎないでくださいね。僕にできることがあれば協力しますから」
私の返事を聞くと、ミカゲさんは眠そうな瞳をふにゃりとさせて笑った。そしてまた優しく、私の頭を撫でてくれたのだった。
* * *
その日から、ミカゲさんは何かと私のことを気にかけてくれるようになった。あの時、ミカゲさんが手(……正確には、やきとり)を差し伸べてくれなかったら、私はどうなっていただろう。がむしゃらに頑張って頑張って、いつか心を壊していたかも。それか、漫画を描くこと自体を諦めてしまっていたかも。そうならなくてよかった、と心から思う。
お決まりのリズムでチャイムが鳴る。昔のことを思い出していたせいで集中力は切れていたので、作業をすぐ中断して玄関までダッシュする。
今日は職場でドーナツを貰ってきたのだ、と、箱を片手にミカゲさんは笑った。
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