第2話 空飛ぶやきとり

 ミカゲさんと知り合った時、私は心も体も部屋も(いや、部屋は今と大して変わらないかもしれないけど)、とにかく全部が荒んでいた。


 遡ること、三ヵ月前。

 その時、隔月商業誌一本しか仕事がなく、どうにかして漫画家としてやっていきたい私は必死だった。手当たり次第に自分を売り込み、ようやく(今連載を貰っている所とは別の)Web漫画サービスの担当さんの目に止まり、週一での連載話を持ちかけられた。具体的に原稿料の話もされて、その話によれば、連載を続ければ生活もそれなりに安定する金額だったし、週一連載を今後もしていくならバイトを続ける必要も無いと、その時やっていた短期のバイトを辞めた。それから、プロットを急いで作り上げて送り、OKが出たのでそれ用のネームを寝食を忘れてひたすらに書いた。

 最高の出来だった。自分が今まで書いたどんなものよりも。だから私は、これから漫画家として、ようやく大きな一歩を踏み出すことが出来ると、期待に胸を膨らませていたのだ。

 数週間かけて書き上げた超大作のネームを担当さんに送った後、数日ぶりにシャワーを浴びて、それから受信メールをチェックした。思っていたよりも早く担当さんからメールが返ってきていて、もうネームをチェックしてくれたのか、と嬉々としてメールを開いて──私は言葉を失った。


「……は?」


 脳が処理しきれていない。もう一度件名から読み返す。


 作品の連載につきまして。

 ご連絡が遅くなって大変申し訳ございません。実は、本日の社内会議にて、絢本先生の連載を取りやめることが決定いたしました。以前から連載をして下さっていた先生の次回作の方向性が絢本先生の作品とジャンルと内容が酷似していたため、やむを得ずこのような結果となりました。別の作品での連載も提案したのですが、絢本先生の描かれるジャンルは当社では飽和状態にあるとの事で、今回は連載をして頂くお話自体を白紙に戻させていただくこととなりました。私の力不足で大変申し訳ございません。


 何回読み直しても変わらない。ええと、つまり。私の漫画は、連載取り消しになったのだ。そして、別の作品もお呼びでないと。

 私の超大作は。走り始めた物語は。こんな電子の文字の羅列だけで、なかったことにされたのだ。必死で頑張って数週間かけて作り上げたものが、たかだか数時間の会議の結果、数分間で作成されたメールで。

 なんでとかどうしてとか明日からの生活どうしようとか、頭の中がぐちゃぐちゃどろどろのミックスジュース。感情のやり場に困って、息もだんだん苦しくなってきて、私は思わずめったに開けない窓を開け放ち、ベランダへと飛び出した。


「……っ、」


 ばかやろー、と、叫べれば良かった。そうすることでこの気持ちが晴れるのなら。でもそんなこと現実的ではないし、それこそ青春漫画の主人公でもあるまいし、今は夜だし、近所迷惑になるだけだ。私はどうすることも出来ずにベランダの縁に手をかけて、浅い息を繰り返した。涙さえ、出てこない。

 悪いのは、もちろん担当さんではない。担当さんは善処してくれた。その古株の先生でもない。社内会議に参加した方々でもない。私がそっちの立場なら間違いなく同じ決定をする。

 悪いのは──悪いのは、実力のない私。他の誰かに描けるような物語しか描けない私。これは私が招いた結果で、私に一番問題がある。だから、仕方がない。悔しいけれど、悲しいけれど、憤りを感じてるけど、全部自分のせいなのだから、仕方がないことなのだ。

 こんなことでへこたれてる場合じゃない。私みたいなペーペーは、とにかく描いて描いて、実力をつけないといけない。だから、はやく、次を。はやくかいてとにかくかいてだれかにみとめてもらってそれで。

 頭の中がそればっかりになりかけた、その時だった。


「……いいにおい……?」


 すぐ近くから香ばしいような、美味しそうなにおいがした。この近くに食べ物屋さんなんてないし、一体どこから。においの元を辿って横を向く。その瞬間私の目に飛び込んできたのは、宙に浮くやきとりだった。


「……は?」


 なぜ、やきとりが空を飛ぶ。お腹がすき過ぎて幻覚でも見えてるのかと思ったけど、それにしたってにおいもある。どうするべきかと思っていると、やきとりから手と顔が生えてきた。

 ……否、やきとりを持っていた男性が、身を乗り出してひょっこりと顔を出した。


「どーもー」


 その男性はボサボサな頭を正しもせず、へらり、と笑った。人の良さそうな笑い方をする人だな、と思った。しかし、なぜこの人はこんな夜中に、やきとり片手にベランダにいたのか。


「あ、怪しい者ではないですよ。ずっと外にいた訳ではありませんし。僕、隣に住むミカゲという者です」

「……あ、はい。はじめまして……鈴木です……」


 一応お隣さんだし、挨拶をする。ミカゲ、と名乗ったその男性は、人が良さそうな朗らかな笑みを崩さぬまま頭を下げた。ミカゲ、だって。どういう漢字を書くんだろう。


「いきなり話しかけて驚きましたよね、すみません。でも、僕はずっと気になっていたんです。隣に住むあなたがどんな方か」

「え……」


 ミカゲさんは持っていたやきとりを持て余しているのか、魔法のステッキかのようにくるくると回す。滴ったタレが、ポタリと一滴、夜の闇に消えた。


「このアパート、結構壁が薄いので、隣の生活音がある程度聞こえるんですけど、あなたの部屋からはそれがなかった。換気扇を回してる様子などもないし」


 確かにここ最近は特に、トイレに行く以外は机にいた。食べ物も作ってないし(いや、そもそも食べてないし)。そう考えると、私は本当に、人間らしい生活をしていないな……。


「それで先程、窓を開ける音がしたので。もしあなたが空腹なら、あわよくばこれで釣れるかも、と思った次第です。本当に釣れるとは思いませんでしたが」

「釣るって……」


 そんな人を魚みたいに。確かにちょっと、美味しそうなにおいに釣られてしまったけど。ミカゲさんは不服そうに言った私の様子が可笑しかったのか、ふふっと笑う。なんだかこの人、よく見ると、イケメンってわけではないけど、人好きしそうな顔をしている。頭はボサボサだしひげも伸びているのに、なぜか不潔な感じはしないし。笑うと細い目がさらに糸のようになって、こちらの警戒心をふわりと取り去ってしまう。不思議なひとだ。


「何をされてる方なんですか?」

「……いちおう、漫画を描いています」


 漫画家です、とはまだ言えない。しかもさっき、貰えそうだった仕事がなくなったばかりだ。その事実を突きつけられて、またむくりと黒い感情が湧きかける。するとミカゲさんは、持っていたやきとりで空を指した。


「あぁ、なるほど。納得しました」

「……何をですか?」

「いつも夜遅くまで部屋の明かりがついているなと思っていたんです。あんな時間まで、随分頑張っていらっしゃるんですね」


 それは、かなりの不意打ちだった。

 頑張って頑張って頑張って作ったものが、ダメになった。完成した漫画が認められなければ、意味が無い。見てもらえるのは作品だけであって、私ではない。漫画というのはそういう世界で。私がどれだけ頑張っても、その頑張りを認めてもらえることは少なくて。

 だから、純粋に私の『頑張り』を見ていてくれた人がいたことが、弱った心にだいぶ効いた。そう。私、頑張ったんだ。本当に本当に、頑張ったんだよ。


「あ、あれ……」


 気づいたら、涙がボロボロ出ていた。さっき出てこなかったのが嘘のような大洪水で、私自身が戸惑っている。どうしよう。これ、どうやったら止まるんだ。涙の止め方さえ分からない。ゴシゴシと袖で乱暴に拭うと、頭に優しい感触。

 顔を上げると、ミカゲさんが、子供をあやすみたいに、ぽん、ぽん、と一定のリズムで私の撫でてくれていた。このひと、私のこといくつだと思ってるんだ。驚いたけど、振り払うわけにもいかず、しばらくはそのまま、されるがままにしておいた。すると不思議なことに、本当に気持ちが少し落ち着いてきた。

 しばらくして、ミカゲさんがポツリと言った。


「お腹減ってませんか?」

「……ふぇ?」

「やきとり、沢山あるんです。よろしければ一緒にいかがですか?」


 本当は、初対面の男の人のこんな誘いなんて、断るべきだったのだろうけど。私はすっかりミカゲさんに対して警戒心なんてなくなっていたし、何より私が返事をするより先に、ぐぅぅ、と盛大にお腹の音が鳴ってしまったので。


「決まりですね」


 ミカゲさんは、私のお腹の音に対してクスクス笑った。そうして、私は導かれるまま、ミカゲさんの家にお邪魔することになったのである。

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