病魔は氷嚢の悪夢を食らう

神取直樹

病床に伏す君には、最初、これを語ろう

 窓の外を見たくて、私は、上手く動かない体を無理に捻って、熱の籠った息を、氷の詰まった枕に吹き掛けた。喉の痛み、頭の重みは私の四肢に鈍痛を与えて、荒い息をまた熱する。


「苦しそうだね。大丈夫かい」


 病室の白い遮光布を潜って、塗りつけたような黒が、人を成したそれがやって来る。黒衣の端は広がって、それが、日本の着物という服装であるとわかった。男の声は伸びやかな青年の声で、まだ日本語が上手く耳に入らない私であっても、上手く聞き取れたし、不思議と聞きたくなるような音だった。

 光の薄い瞳が、私の顔を覗く。何となく、その柔らかくて無邪気にも思える微笑みが、本当に何となく、癪に障って、私は重い体に鞭を打ち、布団を頭まで被った。


「外が見たかったの? 良いよ、上半身を起こそうか。自分じゃあ、まだ上手く動かないだろう」


 私の態度も無視をして、男はキリキリ音を立てて、ベッドの角度を変える。押さえつける力も無かった私の手から、被っていた布団が落ちて、視界が明瞭になった。


貎襲苂芭苦苝


 私は、男の名を唱える。


「何だい、お姫様」


 この世の言葉とも取れないだろう私の言葉を、彼は拾い上げる。彼はただ微笑んでいた。外の世界に見入る私の顔を覗き込んで、外の世界と見比べた。


「芠苌銹苰闟苜芦苄苦」


 私は、外を飛ぶ鳥を見てそう言った。自然とそう口が動いてしまった。言葉を覚えるよりも早く、私はこの男を顎で使うことに慣れてしまった。

 初めて出会った時から、この男は私の願いを叶えて、まだこの体に慣れない私を手助けし、見舞いという形を取って、この社会に早く馴染むよう教育を与えてくれている。その他にも、私が望めば様々に動いてくれるし、まだ私が触れられない世界のものですら、拾って持ってきてもくれた。


「あぁ、雀は無理だなあ。法律に引っかかるんだ。これでも教師という身だからね、その辺は煩くしておかないと、後々の君の動きにも響く」


 珍しく、彼は私の申し出を断る。どうやら、この国では、あのスズメという小鳥は、捕まえてはいけないらしい。


「苡芠腁芠苌趕芢銹苰」


 ゆっくりと、私はもう一匹の、黒い鳥を指さした。


「えっとね、鳥獣保護法って言って、野生動物を捕まえるのが駄目なんだ。さっきの雀だとか、その黒い鳥……鴉だとかも、捕まえちゃ駄目なんだよ」


 手ぶり身振り、彼は苦笑いと共に、私に言葉を繋ぐ。心象、次第に私の中で不満が炙り出される。自分でも分かるほどに、眉間に皺が寄っていた。


「すまない。今度、散歩に出れるようになったら、動物園に行こう。そこに行けば、あの鳥以外のもっと色んなのが見れるよ」


 眉間の皺を、男はグニグニと無理やりに伸ばして、私にそう語った。


「あぁ……熱が上がっているね。氷嚢を替えようか」


 私の額に触れていた手を離して、彼は独り言のように呟く。薄い光の瞳に、私の髪が跳ね返って写った。


「大丈夫だよ、心配せずとも、すぐに治る。大したものじゃない。風邪くらい、そう難しい病気じゃない」


 男が、憂いの目で私を映して、優し気に私の髪を撫でた。小さい私は、手を男の大きな手に重ねる。ひんやりとしていた。温度が、人間のそれよりも、低く感じた。


「僕って冷え性だろう? 肉体派じゃなくてね」


 クスクスと男が笑う。私の機嫌と、不安定な精神を見ている。するりと、彼の細くとも成人した、生白い腕に縋った。

 頭の中で押さえつけられていた、恐怖感とも取れる不安感が、彼の撫でるのを止めた手が蓋であったように、頭から手が離れようとしたときから流れ出ていた。自分の目的を忘れそうで恐ろしかった。早く知らねばならないと思った。早く、此処から出るべきだと感じていた。


「大丈夫だよ。好奇心を持つことは、君くらいの年齢なら何もおかしくはない。此処を出れば、君は目的を達成しなければならないんだろう。その前に、君は、此処から出るよりも前に、この世界のことを知らなければならない」


 私の顔を覗く彼の表情が、一瞬強張って、私と距離を近づける。彼の拳一個分くらいの間を挟んで、彼は言った。


「その好奇心は、君の生存欲だ。君のしなければならないことへの意欲だ。恐れなくていい。知りたいと思うなら、何なりと言ってくれ。僕がそれを拾い上げよう。僕がそれを叶えよう」


 一つ置いて、彼は黒い髪、黒い瞳を湛えて笑った。


「僕は三年だけの君の奴隷だ。三年間なら、幾らでも君に忠誠を誓おう」


 彼は私の手を取って、甲に唇を落とす。私の住んだ場所の、恰好を付けた男がやることと、やっていることは同じだった。

 臭い台詞と臭い動きに、頬の筋肉が、自分でも分かるほどに緩み切っていた。せめてもの、私の緊張感を取り戻すために、私はもう一度唱える。


貎襲苂芭苦苝


 男の名を唱える。男は、私の正面をその目に映して、目を細めた。


「躄苰花苪裈迣腁觉苉芵苈芢苅」


 私が出した声を、彼は笑って受け取った。クハッと、息を漏らすような、弱く優しい笑みだ。


「そうだなあ、君を暇にさせない方法か……」


 彼は一つ、悩むような動作をした後、思いついたように、トン、と、自らの唇に、人差し指を置く。細い指が、彼の唇を這う。


「君がこれから暫くを歩む世界のことを、君に語ろう。僕が見てきた物語を、君に聞かせるよ。何、眠る前の御伽噺だと思えばいいさ。まあ、そんな子供染みた優しい物語ではないけど」


 渡り歩く、彼が体験した物語。私がこれから歩く世界の話。正直、興味以上に、必要性を感じた。私がこれから、とするなら、情報収集としても、それは聞かねばならないだろう。


「熱で動かない体で受け止めるには、丁度いい話ばかりだと思うよ。普通の君くらいの子供に聞かせるものではないけど、君と同じ境遇の子供なら、いくらでも遭遇するお話だ」


 前置きをつらと並べて、男は私の頬を撫でた。手はより一層に冷えていた。外は風が吹いたようで、ひゅうと、甲高い笛の様な音が窓からした。枯葉が生を奪う声を上げていた。


「僕の同胞の前、人間は蹂躙されるだけだ。これはそういう、蹂躙される人間の、子供の話だ」


 彼はニッと、歯を見せる。白く輝く。彼は近くにあった見舞客用の椅子を出して、私の隣に座った。

 他の言い出しを連ねる彼の声が心地良い。そんな中、急に声を張って、語り出、彼はこう言い放った。


「――――泉下の食卓、我らは神、我らは刀、我らは鬼、我らは人。どれを歩くも生は食らうことと見たり。食らい行く先こそは餓鬼道。行くも餓えるもこれ一重。ここから先、誰もいない。いては、ならない」


 語る導は詩となりて、彼の口から堕とされていく。

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