雨狐(あまきづね)

時雨ハル

前編

 彼に初めて会ったのは、小学生だった私が家の近くで道に迷ってしまった時だった。どんなに歩いても知った道に出なくて、その上雨まで降ってきて、半べそをかきながら私は神社に駆け込んだ。

 神社といっても小さなもので人がいるのは行事の時だけだったから、当然建物の中には入れなかった。一人で泣きながら賽銭箱の横に座っていた私に、突然声をかけたのが彼だった。

「どうしたの?」

 驚いて顔を上げると、いつの間にか少年が隣に座っていた。彼はつり目がちの瞳で私の顔を覗き込んでいた。真っ直ぐに見つめる瞳はとても優しくて、私はまた涙を溢れさせた。彼は暖かく大きな手で、両親が私を探しに来るまでずっと背中を撫でてくれた。

 鳶色の髪に、白い肌。甚兵衛のような服を着た彼の、何よりもその瞳が印象的だった。つり目だけどきつい印象は与えず、正面から見つめてくる瞳。

 もう一度だけ彼に会いたくて、私は何度も神社に行った。けれどなかなか彼には会えなくて、いつの間にか暇な時を神社で過ごすことが習慣になっていた。


  ***


 親友に恋人ができた。それだけのことだけど、いつも一緒に帰っていたのに彼氏と帰る姿を見て、少し寂しくなった。一人で帰り道を歩いていると、私の足はつい神社へと向かっていた。

いつものように賽銭箱の横に座る。地面に視線を落とすと、ぽつりと水滴が落ちた。空を見上げると、一粒二粒と落ちる雨粒はすぐに強い音を立て始めた。まるであの日のような状況に、いっそ泣けば彼が来てくれるかも、なんて思ってしまう。にわか雨だろうから、止むまではここにいよう。そう決めて顔を上げると、不意に横から声がした。

「どうしたの?」

 思わずそちらを向くと、記憶のままの彼の瞳が私の顔を覗き込んでいた。

「前みたいに泣いてる訳じゃないみたいだね」

 よかった、と彼は微笑んだ。つり目の瞳が細められると、まるで狐みたいだ。

「悲しいの?」

彼は笑みを消して、真っ直ぐに私を見て尋ねた。私は素直に頷く。彼は「そっか」とだけ言って、私の頭を少しだけ撫でた。

「友達に、彼氏ができたの」

 話しても良いのかな、と言ってしまってから考えた。

「うん」

「なんかね、寂しくて」

「そっか」

 彼の相槌は短いけど、冷たくはなかった。暖かな手が、また私の頭を撫でてくれる。心地良くて目を閉じると、手の暖かさと雨の音だけが世界を支配した。

「猫みたいだ」

 突然の言葉に目を開けると、彼がおかしそうに笑っていた。

「猫は、撫でられると目を閉じるでしょ?」

 そう言ってまた笑う。なんだか腹立たしくなって、頬を膨らましてみせる。

「そっちは狐みたいなくせに」

「そうかな?」

 彼は笑顔のまま首を傾げる。私より年上に見えるけれど、その仕草は妙に幼い。そういえば、彼は何歳なんだろう。そこまで考えてようやく気付いた。

 初めて会ったのは小学生の頃で、あれから三、四年は経ったはずなのに彼は少しも成長していないように見える。見た目には高校生くらいのようだけど、そうだとすれば前に会ったときは中学生くらいだったはずだ。身長だって伸びるはずなのに、目の前の彼は記憶とほとんど変わらない。私の記憶があやふやだから、なんだろうか。

 考え込む私の目の前に、彼の顔が現れた。

「何を考えてるの?」

「な、何でもない!」

 とっさに答えると、彼は怪訝そうな表情を浮かべた。私は慌てて話題を探す。

「あ、そうだ、名前なんていうの?」

 私の問いに彼はすぐには答えず、視線を外して考える素振りを見せた。

「私は、秋庭美冬っていうの」

「ミフユ?」

「うん」

「僕のことは、好きに呼んでいいよ」

「え?」

 思わず聞き返すと、彼は苦笑いして肩をすくめた。

「ミフユが決めて」

 決めて、と言われてもそう簡単に決まるものじゃない。私がつい考え込むのを見て彼は苦笑する。

「何でもいいよ。思いつかないならお前、とか君、とか呼んでくれてもいいし」

「じゃあ、コウ、とか」

 呼びやすいし、知り合いに同じ名前の人がいない、ってくらいで、特に深い理由はない。それでも彼は、とても嬉しそうに笑ってくれた。

「コウ、か」

「どうかな?」

「すごく嬉しい。僕は今日からコウだ」

 足をぱたぱた動かしてはしゃぐ様子は子供みたいで、つられて私も笑顔になる。

「ねえミフユ」

「なに?」

「また来てくれる?」

「う、うん」

 突然の言葉に驚きながらも頷く。

「駄目、かな?」

 私の驚きを違う意味にとったのか、彼が不安げな声で尋ねる。

「駄目じゃないよ! ただ、いきなりだったからびっくりしただけ」

 慌てて否定すると、不安そうだった表情が和らいだ。

「いつ来たらコウに会える?」

「うーん、雨の時、かな」

 私の問いに、彼は曖昧な答えを返す。

「雨?」

「そう。雨が降ってる時だけ」

「どうして?」

「どうしても」

 今度は即座に答えがあった。

「だから、今日はもう帰った方がいい」

 空を見上げながら彼は告げる。確かに雨はいつの間にか小振りになっていて、すぐに止みそうだった。それでも納得できずにいる私に彼は微笑んでみせる。

「雨が降ったら、またおいで。僕はここにいるから」

 渋々頷いて、私は地面に降りた。振り返って彼を見つめる。

「コウ、話聞いてくれてありがとう」

 彼は返事の代わりににこりと笑う。

「また来るね」

「うん。待っているよ」

 一度だけ振り返って手を振って、私は小雨の中を駆けて家へ向かった。


  ***


 よほどの用事がない限り、私は雨が降る度に神社へ向かった。コウは賽銭箱の横に座り、必ず私を待っていてくれた。私は嬉しいことも苦しいことも、何かあると全てコウに話した。私が喜んでいれば一緒に喜んでくれて、落ち込んでいるときは黙って頭を撫でてくれた。

 やっぱりコウは身長も、爪も髪も伸びていないみたいだった。そのことを何度か尋ねたこともあったけれど、うまくはぐらかされるだけだった。


  ***


 高校に入学してから、三ヶ月が過ぎようとしていた。

 土日は大抵音楽部の練習があるけど、テストの前にはさすがに休みになる。数学の問題を解きながらも、私はちらちらと窓の外をうかがっていた。空はどんより曇っていて、今にも雨が降り出しそうだ。

 ごちゃごちゃした式を何とか因数分解する。溜め息を一つついてから答えを見たら、見事に間違っていた。もう一つ溜め息をついて理解できない答えをノートに写す。また窓に目をやると、雨が降っている、ような気がした。シャーペンを放り投げて窓に近寄る。雨と呼べるほどのものではないけど、地面に丸く水の跡がついていた。早足で玄関へ向かう。キッチンからお母さんの声がした。

「美冬、どこか行くの?」

「うん、ちょっと出かけてくる」

 玄関の扉を開けながら短く返事して、手に持った傘は差さずに神社へ駆けた。

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