化け猫

わたなべ りえ

第1話


 雨音あまおとだけが、屋根裏に響いていた。

 ここは、山奥。

 荒れ果てたお屋敷。

 人間など、化け猫を恐れて誰も来ない。

 化け猫は、かすかに伸びをした。

 人の声など、もう何百年も聞いていない。

 なのになぜ、今更人の夢など見たのだろう?

 木の葉を打つ雨の音が、少女の声に似ていたからであろうか?

 硝子の窓に流れる雨粒は、外の世界を倒立させてキラリと輝く。

 その輝きに似た化け猫の瞳は、やがてキュンと細くなる。

 もうじき雨が止むだろう。

 やがて虹が架かるであろう。

 

 突然、化け猫は飛び起きると、壁のあたりまで一跳びし、フーッと毛を逆立てた。

 やはり、夢などではない。

 人の……それも女の気配がする。

 化け猫は、いいようのないほどの怒りを覚えた。

 何百年も、化け猫の縄張りを荒らすような、無礼な人間は現われなかった。

 それが、いったいどうしたことか?

 雨とともに、人が来る……それも、臆病なはずの女だ。

 村人たちは思い出したのだろうか?

 かつては、猫様に生贄を差し出していたことを。

 しかしなぜ? 今頃なぜ?

 化け猫の心は、奇妙に揺れた。


 

 女は引越荷物をほどいていた。

 ここに住みつくつもりらしい。しかし、その手は時々止まり、憂鬱そうに窓の外を見た。

 雨だ。雨の日の引越だ。

 曇りはじめた硝子がらすのように女の目は沈んでいて、化け猫はなぜか共感した。

 逆立てた毛をもとに戻すと、天井の梁つたいに移動した。


「そなたはなぜにここにいるのだ?」

 化け猫は、真っ赤な口を耳まで開いて詰問した。

 女は一瞬、驚いたように目を見開いたが、化け猫がいることを当然のごとく受け止めた。

「化け猫様、あなた様にミルクを差し出すために。また、キャットフードの缶を開けるために。村の人々が、私めをあなた様に捧げたのであります」

 女は口を開かずに、心の言葉でそう答えた。

 そして小鉢にミルクを注ぐと、そっと差し出し身をひいた。

 化け猫は床に飛び降りた。

 やや警戒しながらも、小鉢の中を確かめた。

 白い液体が、ゆらゆらと動く。ツーンと乳臭さが鼻をつく。

 化け猫は、ぎっと冷たい眼差しを女に向けたが、女はひたすら頭をたれたままだった。

「そなたは我に食われても本望か?」

 化け猫は、鼻で笑いながら女に尋ねた。

「もちろんでございます。化け猫様。私はあなた様に囚われた女」

 ペろりとなめるミルクの味は奇妙に甘く、化け猫は舌なめずりをして頭をあげた。

「して、そなたの名はなんと?」

雨音あまねと申します。どうぞお認めくださいまし……」

 雨音と名乗った女は頭を上げると、すがるような瞳で初めて化け猫を見つめた。

「……ふん。そなたを食らうのは、しばしの猶予を与えるぞ」

 化け猫はちらりと一瞥を雨音に投げると、ペチャペチャ音を立てながら、ミルクの皿を底までなめ尽くした。

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