エマ・トリューゼ①

 ヴァーランスの宿屋は二軒ある。庶民と商人向けの宿と、貴族と豪商向けの宿だ。




 エマ・トリューゼが泊まっているのは、貴族と豪商向けの宿屋で、あの大通りの傍らにあるという。




 馬車ではなく徒歩で向かう。供は、ヘルツとベルベットの二人だ。アナはお留守番だ。




 二人が付いてきた理由は、二人とも武術の心得があるからだった。ベルベットのは我流で、ヘルツは武術家の指南を受け、皆伝免許を取ったらしい。




 二人が付いていれば安心できる上、ヘルツがいれば冷静に対処ができる、とクルトが選んでくれたのだ。




 貴族と豪商向けの宿屋の名前は「アメラスの宿り木」という。これも神話から取った名前らしいが、アンジェリカはまだそこまで神話の本を読み進めていないので、どんな話なのか知らない。




 アメラスの宿り木は、貴族と豪商向けということもあり、とても大きくて立派な造りをしていた。石と煉瓦で作られており、警備員もいる。






「煉瓦で作られているなんて、この街では珍しいですね」




「煉瓦の家は、造るのに時間と金が掛かりますから。石の家のほうが安いのが一般的ですな」




「それで、貴族と豪商向けなんですね」






 宿の中に入るには、警備員の横を通らなければならないが、これはヘルツのおかげで、すんなりと通ることが出来た。どうやら、ヘルツは顔パスが出来るらしい。領主代理のそのまた代理をやっているのだから、顔は広く知れ渡っているのだろう。




 中は、落ち着いた感じだったが、豪華さが風景に溶け込んでいた。よく見れば、何気なく飾られている花瓶や壺は、貴族向けのヴァーランス焼きだ。ロビーの壁には、絨毯の絵がどん、と張られている。天井に飾られているのはシャンデリアと、エバンの花の絵だ。




 ロビーの椅子に座り、ヘルツが受付に行く。隣で立っているベルベットは、顔は動かさないものの、視線があっちこっちと行き来していた。






「ベルベットは、この中に入るのは初めてですか?」




「初めてですねぇ。前を通ったことはあるんですけどねぇ」




「見に行っても構いませんよ?」




「見て回るより、こっちのほうが断然楽しいですぅ」




「こっち?」




「アンジェリカ様のお側にいることですよぉ」






 そんなわけがない。基本物静かで、喋ることがあまり得意ではないことを、アンジェリカは自覚している。自分は観賞対象になるほど、見目が整っていないことも知っている。




 と、いうことは、楽しいというのは別のところにある。


 アンジェリカは、すぐ思い当たった。






「泥沼が見れるから、ですか?」




「ちょ、アナ先輩から聞いたんですかぁ!?」




「はい。あと、血の気が多い、とか」




「もう! 血の気が多いとか、先輩でも失礼ですよぉ!」






 ぷりぷり、と頬を膨らませて怒り出すベルベット。


 そこへ、ヘルツが受付から戻ってきた。






「お待たせしました」




「トリューゼ嬢は?」




「こちらにいらっしゃるそうです。もうすぐ出て来るかと」




「ありがとうございます。では、見張りましょう」






 エマ・トリューゼの顔は、二人が知っている。ヘルツに至っては顔見知りなので、彼がいれば自分のことを信じてくれるだろう。エマ・トリューゼはアンジェリカの顔を知らない。




 いきなり見知らぬ人が、自分を尋ねてきたら警戒して、本当にクルトの婚約者なのか、と疑う。ヘルツがいれば、証明するのが手っ取り早くなる。




 少しすると、階段から一組が降りてきた。




 令嬢らしき女性が一人、その傍らに侍女らしき女性が二人。後ろには、護衛らしき男性が一人いる。






「もしかして、あの人ですか?」






 隣にいるヘルツに確認すると、ヘルツが頷いた。




 エマ・トリューゼは、ウェーブがかかった黄緑色の髪をしていた。体型はややぽっちゃりとしていて、身長はアンジェリカとあまり変わらないように見えた。




 エマ・トリューゼが視線を動かし、こちらを見る。ヘルツを見ると、目を丸くした。ヘルツは恭しく一礼をする。




 次にアンジェリカを見る。視線を受けて、アンジェリカは微笑んだ。


 警戒心を露わにしながら、エマ・トリューゼがこちらに近付く。近くに来たので、アンジェリカは立ち上がった。

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