あの子

 夜。アンジェリカは一人、バルコニーで夜空を見上げていた。




 今宵は星がとても明るい。明るすぎて、目が痛くなりそうだ。




 思い出すのは、昼間の話。クルトにご執心の令嬢が来訪した、という話だ。






「エマ・トリューゼ令嬢、か」






 はたして、どういう人物なのだろうか。ストーカー気質がある、というのは明白だが、喚くほうか喚かないほうか。喚かないほうであってほしい。






(できれば、対峙はしたくないけど、避けられないような気もする……ほんとうに、面倒くさいこと)






 頬付いて、深く溜め息をつく。






(トリューゼ令嬢は、爵位目当てでクルトにただ執心しているだけなのか、本当にクルトが好きなのか……そこら辺、聞いてなかったような気がするわ……トリューゼ令嬢のことはどうでもいいけれど、屋敷の人やクルトに心労を掛けるのはいただけない)






 そこまで考えて、アンジェリカは心の中で頭を振る。






(あっちで心労をかけまくった、わたしが言っても説得力がないわね)






 あっち、というのは元いた世界のことである。




 生まれて間もない頃には、既に両親はいなかった。事故死、だったらしい。


 父方の祖父に、自分を預け、買い物しに行った時に、大型トラックと衝突し、帰らぬ人となった。




 祖母は、父が高校生の時に亡くなり、他に子供はいない。母方の親戚とは疎遠だった。祖父は、この世でたった一人の血の繋がった家族として、自分を引き取ることにした。




 だが、その数年後、自分は病院暮らしを余儀なくされた。元々身体が弱かったのも、原因の一つだった。その時の祖父の恐怖はどれほどだっただろうか。




 かなりの心労を掛けたに違いない。記憶の中の祖父は、最古と最後で見た目に落差がある。






(初恋、か)






 ふと思い出したのは、エマ・トリューゼの話が出た後の、ベルベットの会話である。




 あの時は、初恋はまだ、と答えたが、初恋というと、ある少年の姿が思い浮かぶ。




 小学校にも通えず、幼稚園にも保育所にも通ったことがない。それ故か、病室に訪れてくれる人は、とても少なかった。




 全くいなかったわけではない。祖父以外に、ある一家がよく見舞いに来てくれた。




 その一家の夫妻は、両親とは旧知の仲で、とても仲が良かったのだという。夫妻には、二人の子供がいた。




 一人は、七つ上のお兄さん。自分のことを本当の妹のように可愛がってくれた。




 もう一人は、自分と同い年の男の子。他の人達は毎日来なかったが、この子は、毎日のように病室に遊びに来てくれた。




 屈託なく、笑う子だった。


 無邪気な、子だった。


 だから、残酷だった。


 だから、救われた。


 たった一人の、お友達だった。






(今思えば、あれが初恋だったのかしら)






 あの頃は、あの子が来るのを、毎日楽しみにしていた。


 そして、今でもあの子が来るんではないか、と少しだけ待ち侘びている自分がいる。






(馬鹿ね。もう会えるわけでもないのに)






 あの子も、自分のことを忘れているだろう。交わした約束たちと、一緒に。






「あら?」






 庭を見下ろすと、一つの影が浮かび上がっていた。その影は、クルトだった。




 声を掛けようか、と思ったが、屋敷が寝静まっている中、声を上げるのは気が引ける。誰かを起こしてしまうかもしれない。




 一巡したのち、アンジェリカは上着を着て、部屋を出た。


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