第93章 救いの力
──足掻くな……無駄な事を──
ぞくり──背筋を走る悪寒。
ユーディンは思わず、背後を振り返った。
「陛下……?」
「──なんでもない。……もうよい。貴様は
誰もいない玉座を睨む皇帝をいぶかしみつつ、謁見の間を退出するデカルト。
彼の気配が消えた途端、部屋の照明が、一気に消えた。
他に明かりは無いはずなのに、ぼんやりと浮かび上がる王座。
その上には、膝を抱えて泣きじゃくる、
『痛い……苦しい……』
まるで呪詛でも吐き出すような、か細く震える、うめき声。
『誰か助けて……母上……チェーザレ……』
「逃避するのは勝手だが、目を背けても現実は何も変わらん」
修羅は眉間に皺を寄せ、忌々しそうに
「モリオンも、チェーザレも、
『そう、そうだよ』
ニヤリとその口が歪み、
『二人とも、
「……ッ!」
高温の炎の色をした目を大きく見開き、狂気の表情を浮かべ、もう一人の自分を呑み込んだ破壊神は、一気に間合いを詰め、そのまま修羅の首を締め上げる。
しかし。
一瞬呼吸が止まったが、すぐに解放され、修羅は床に崩れ落ちた。
ゲホゲホと咳き込みながら、揺れる視界の焦点を懸命に合わせ、ユーディンは前に立つ人物を見上げる。
目に入ったのは、
『おやめなさいッ! エフドッ!』
威厳のある、凛とした声が、周囲に響いた。
「……ミカ?」
『貴様
『大国の
『えぇ。
ミカは声に力をこめて──しかしながら、聖母のごとき慈愛の表情で、
『だから、私は欲しました。エフド……貴方を、
破壊神は一瞬、虚を突かれたような顔をする。
しかし、すぐに彼は、けたたましく笑いだした。
まるで、先ほどの──
ひとしきり笑ったところで、急に破壊神が静かになる。
『……救えるものなら、救ってみろ』
彼がそうつぶやくと同時、周囲の暗闇が一気に晴れて、照明の明かりがユーディンの視界を刺激した。
目が慣れ、じんわりと視界が元に戻った時には、見上げる王座に誰の姿も無い。
『陛下。大丈夫でございますか?』
ミカが穏やかな声音で、
途端、ユーディンの背筋を、ぞわりと理由の判らない悪寒が走る。
けれども。
まるで幼子を安心させようと、母のように優しくほほ笑むミカのその顔が、声が、何故か無性に
「余に近づくなッ!」
突然のユーディンの怒声と拒絶に、ミカが体を強張らせた。
「あ、いや……その……」
悲しそうに顔を歪める
が、ユーディン自身、どうしてそう感じるのか、解らない。
『きっと、彼の……貴方の中の、
悲しそうに俯き、そして、にっこりとほほ笑みながら、ユーディン影に溶けるよう、ミカは姿を消した。
──あの女を、信用してはならぬ──
ミカが姿を消したと同時に、クツクツと愉快そうに笑う破壊神の声が、ユーディンの頭の中に響いた。
◆◇◆
「にわかには、信じられませんが……」
「素直に受け取る……しか、無いじゃろうねぇ……」
片や
処刑されたはずの
そして──。
「やってくれたなこのクソ親父!」
『ひいッ! ど、どうどう! スフェーン! 落ち着いて!』
ギロリと息子に睨みつけながら、
冷静に考えるならば、
『カイヤ助けてッ!』
「……助けてって……
呆れたようなため息を吐く娘に見捨てられたジンカイトは、最後の砦とばかりに、
『神さん! 助けてつかぁさいッ!』
「ちょッ! 待って……」
怒れるスフェーンの矢面に立たされ、カイは硬直した。
顔から血の気は引いて真っ青で、紫の瞳を見開く。
「あ、あの、その……」
カイがパクパクと口を開くが、声にならない。
「なんじゃぁ?」
苛立たしげに眉を顰めるスフェーンに対し、ルクレツィアの背筋が、ぞわりと粟立つ。
地の神の血を浴びた影響なのか、彼の焦りや混乱が、脈打つ心音とともに、共鳴するよう、伝わってきた。
「……ち、違う!」
思わず踵を返して駆け出すカイの背を、ルクレツィアは慌てて追った。
「カイ!」
神殿を出て、しばらく走ったところで、カイの足がもつれて倒れた。
その衝撃で、途端に広がる、三対六枚の、巨大な翼。
しかし。
「カイ……いや……」
ルクレツィアの声が震えた。
銀色の翼の色はくすみ、艶は無く、末端が黒く染まっている。
「モルガ……か?」
ルクレツィアの問いに、地の神は頭を両手で抱えながら、ぶんぶんと強く横に降る。
「違う……違うちがうちがうちがうチガウ……」
何度も「違う」と繰り返し、それでも、徐々にその抑揚は消え、茶色の癖の強い髪は、振り乱すたびに伸びて、銀色、そして黒へと変色する。
「ウァァアアァアァアァアァアアアッ!」
見開いた紫の目から、大粒の涙がこぼれる。全身黒い鱗に覆われ、叫ぶ口からは牙がのぞき、四肢の爪は長く伸びる。
(
混乱し、呆然と佇んでいたルクレツィアに、邪神の腕が伸びた。
爪が首に当たって切ったのか、そこが熱を帯びる。
しかし。
ルクレツィアの背中が壁に叩きつけられたその瞬間、邪神の翼がはぜるようにはじけ、漆黒の翼がバラバラと床に散らばった。
「う……カイ? モルガ?」
くらくらする頭を抱えながら、ルクレツィアは立ち上がる。
近づくと、邪神──否、元の
慌てて抱え起こしたが、彼はぐったりとしたまま動かない。
「カイ! モルガ! しっかりしろ!」
ルクレツィアは、ぺちぺちと頬を叩く。
瞑った目から、一滴、涙が伝って落ちた。
「おい……モルガ! カイ! 本当にッ! 一体どうしたというのだ!」
意識が回復したわけでも、ルクレツィアの声が聞こえたわけでもないだろう。
しかし。
血の気の無い真っ青な唇から、うわごとのような小さな声が、こぼれるように漏れた。
「助けて……モルガ……」
──助けて……。
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