魔王が綴る狂想譚
和泉ユウキ
Rhapsody No.1 魔王の鏡
プロローグ
――どっ。
肉を
ぼたり、と。漆黒の大理石に、不吉な紅い音が跳ねる。
その響きを、どこか遠くに聞きながら、青年は緩慢に己を見下ろした。
そう。
己に不穏な宣告を貫いた、鈍色の刃だ。
認識するや否や、遅れて
本来なら、体中を締め上げる様な痛みを覚えるはずだが、ほとんど青年は何も感じられなかった。感覚は、とっくに果ててしまった様だ。
そこまで理解し、青年はぼんやり虚空を見つめる。
――ああ。自分は、死ぬのか。
言葉にしてみれば、たったそれだけ。
単純にして明快な事実をやけに冷静に分析し、青年はもう一度己の体を見下ろした。
否。
正しくは、自分に折れ重なる様に倒れ込んできた『勇者』を、漫然と眺める。
自分に刃を突き立てたその『勇者』は、目が覚めるほどに鮮やかな白銀の髪を宿していた。
だが、せっかくの麗しい髪はろくに手入れもされておらず、ぼさぼさだ。後ろで緩く縛るだけの仕上げはぞんざいであり、この者の人格を如実に表している。
厳格な教育の元に育ち、王としての威厳を保つため、細心の注意を払って生きてきた自分とは大違いだ。
しかし、それが――青年にとってはひどく眩しく、好ましかった。
――何を、今更。
死の間際であるのに。
どこか、懐かしく思い返している自分が妙におかしくなった。小さく笑い声を上げかけ――こふり、と真っ赤な塊を吐き出す。
――ああ。もう、笑うことさえ、ままならない。
絶望は、無い。
ただ、無念だけが涙の様に
自分の末路は、『魔王』としては、ある種当然の結果なのだろう。先代も、先々代も、前の前のそのまた前の先祖も、例外なく『勇者』に倒された。
『魔王は必ず悪に堕ち。その都度、勇者に討たれる』
幼き頃から。
いや、生まれたその瞬間から
一度として、その常套句が打ち破られた試しは歴史上どこにも存在していなかった。
だから、覚悟はしていた。歴史は繰り返される。それは、絶対不変の真理。
故に、絶望などあるはずもない。自分は、好きな様に生きた。
だが。
「……、あ、っ」
最後に触れてあげたかった愛しい名は、彼の者には届かない。
届かないどころか、名前を紡ぐことも叶わない。
だから、代わりに手を伸ばそうともがいたのに、持ち上がる気配も起こらなかった。
もう。あの子の頭を撫でてやることも、抱き上げてやることも。手をつなぐことも、共に食事をすることも。
笑って、「愛している」と告げてやることも。出来はしないのだ。
――無様な。
たった一言。
名前を呼ぶことさえ出来ぬほどに落ちぶれた自分に、悪態を吐く。歯噛みしたかったのに、もはや唇さえ言うことは
この結末に、あの子はどんな顔をするだろうか。
泣くか。怒るか。悲しむか。恨むか。憎むか。
――出来ることなら、笑って欲しい。
そして。
願わくば――。
〝もう、死んでくれよ〟
「――――――――っ」
直前にぶつけられた言葉が、祈りを断絶する。
悲痛な
呪いの様だ。まさしくその通りの効力であったことは、今、身をもって体験している。
しかし、呪いで終わらせるわけにはいかない。
絶対に。――絶対に。
〝―――、ま〟
――ああ。
愛しい声が聞こえる。
耳にするたび、幸せで
幻聴でも、最後に聞けた自分は何て果報者か。
だから、こそ。
「……、……………し、……」
枯渇しかけた生命力を振り絞り、青年は必死に指先を空中に滑らせる。
どさりと、視界が崩れ落ちていく振動に眉を
震える指。
いつもならば、繊細に
しかし。それでも。
青年は、一心不乱に描き続ける。
どうか、届いて欲しい。これが、自分の最初で最後の我がままだ。
だから。
どうか、―――――。
薄れゆく意識の中。
二度と目覚めることのないだろう漆黒の闇に沈み込む前に。
青年は
その声が、届かないことを知りながら。
それでも、命尽き果てる最後まで、青年はその名だけを繰り返し口にした――。
『ああ、神よ。どうか、力なき私をお許し下さい。
私は、罪を犯しました。
親友が誘惑に打ち勝てず、堕ちていく様を、ただただ黙って見ていることしかできませんでした。
今、彼が
民は、ただ血塗れとなって平伏し、機嫌を伺い、彼の視界に入らぬ手段を死に物狂いで模索し、日々の命を
飢えて死ねるなら、その者はどれほど幸せな終焉を迎えられることでしょう。
けれど、民はそれさえも許されません。
彼におもちゃの様に扱われ、
私は、彼の親友でありながら、無力です。
止める言葉もかけられず、命を
だから。
私は、更なる罪を犯します。
私は、力を授けましょう。
幸いにも、無駄に魔力だけはあり余っている。
ですから、この世の混沌を打ち払うだけの力を持つ優しき者に、全てを託しましょう。
他人に委ね、親友を間接的にでしか殺められぬ私は、未来永劫許されざる大罪を背負って生きていくことでしょう。
しかし、悔いはありません。
親友の目を、覚ますことができるのなら。私は喜んで、
――さあ、『勇者』よ。
臆病な私の代わりに、
どうか――』
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