2
征吾さんから初めて返信が届いて肝を潰したのは、赤石さんの家で浦上さんと会ってから十日ほどのち、曇り空ではあったがひどく蒸し暑い日のことだった。朝一番にメールを確認したわたしは、その日のアルバイトのシフトも忘れて家を飛び出した。
弟が頭を殴られて病院に担がれた――それが征吾さんから受け取った文面だった。
征吾さんに病院や容態を尋ねると、面会は可能だというので、急ぎ自転車を走らせた。
病院までの道のり、考えを巡らせる。殴られるなんて、いったい誰に? どこで殴られたのか? どれくらいの怪我なのか? どうして殴られてしまったのか? 喧嘩でもしてしまったのか、それとも誰かに狙われたのか? 狙われたとして、その人物はいまも逃げているのか? でも、高温の中でペダルを必死に漕ぐうちに、何も考えられなくなった。
病院のエントランスで涼しいエアコンの風を浴びて、少し冷静さを取り戻した。
征吾さんに教えてもらった個室のドアをノックすると、「どうぞ」と思いのほか朗らかな声で返事があった。
「やあ、遙か。来てくれて嬉しいよ」
一番に目についたのは、頭部に巻かれた包帯と絆創膏だ。心なしか、顔色も良くないように見える。笑顔を浮かべてはいるが、そこに生気は乏しい。白色を基調とした病室という空間に、彼は馴染んでいなかった。ぽつりとひとり寂しさの中に取り残されている。
ただ、痛々しくはあるが重篤な怪我を負ったわけではないだけほっとした。
「よかった、平気そうですね。人に会えるくらいですし」
「まあね。殴られた場所が場所だから何日か検査が続いたけど、一週間くらいの入院で済むそうだよ。きょうかあしたからは、警察やらも来ると思う。……征吾の奴は、僕が面会可能になるのを見計らって遙に知らせたんだろうな」
首肯。
勧められて、ベッドの脇にあった丸椅子に座る。きょうようやく落ち着いたと話していたように、病室は来たときのままの状態らしく、生活感がまるでない。唯一、サイドボードに置かれているラジオだけは彼の私物のようだ。
何があったのか尋ねると、彼は客人を迎える表情を引っ込め、神妙な面持ちになった。
「出かけていて家に帰ってきたとき、留守中に忍び込んでいた奴がいたらしくてね。使ってもいない二階から物音がしたものだから調べに行ったら、後頭部に不意打ちで食らった」
「家で襲われたんですか? 泥棒? あ、いや、この場合、強盗?」
赤石さんの洋館は、ともすれば盗みに入られやすいのかもしれない。外観からして庭付きの豪邸だし、窓から覗きこんでもあまり人が住んでいる気配がしない。独り暮らしだし、外出していることもままある。入ってみれば金目のものがないとわかるのだけれど。
赤石さんはふっと鼻で笑った。
「まあ、モノを取ろうとしたことには違いないな」
「……含みのある、変な言い方ですね」
丁寧な説明を求めると、彼のほうもわたしに、順を追って話すから心して、最後まで聞くように求めた。
最初に僕を殴った人物を発表しよう。いや、実は僕は犯人の顔を見てはいない。背後からごん、とやられたからね。でも、いま、このタイミングで僕を襲うとすればふたりしかいないだろう。
唯野か、浦上だ。
どうしてこいつらの名前が挙がるのかも、一から説明しないといけない。
こいつらは僕の家に強い関心を示している。ただし、気に入っているなんて適当な言い訳だ。本当の目的は、僕の家――というより、唯野のかつての住処に、奴らが喉から手が出るほどほしいものがあると思っているからだ。
それはね、偽札だよ。
唯野は手癖が悪くて、偽札製造ことに熱を上げていた時期がある。ラジオのインタビュー聞いただろう? 頭がおかしいのかもしれないが、言っていることには一理あるというか、正直に言って賢いと思う。
奴は、札を自分で作れないことに疑問を持っている。
あの「思想」を僕が正確に説明することはできないし、できればしたくもないけれど、曰く、カネを「芸術作品」として作って何が悪い、とのことだ。原始の社会では思い思いに物々交換ができた。たとえ宝石と木の枝でも、木の実と手作りの武器でも、利害さえ一致すればね。でも、カネが登場するとそうはいかない。誰が作ったかも知らないものを、誰もが交換手段にするようになった。しかもカネは自分で採集したり、制作したりすることが不可能だし、多くの場合、許されもしない。そんなものは、この世にほかにはない――なるほど、おかしな話といえなくもない。
その発想を持っているだけならそれで結構だった。でも、奴は偽札を本当に作りはじめた。質の悪いことに、これがまた精巧でね。凸版や透かしは再現できないようだが、それ以外は僕でも判別がつかない代物を作ってしまう。
もちろん偽札を作って人を騙せば犯罪だ。ところが唯野の場合、作っては燃やして処分していたから罪に問うのは難しかった。燃やすのも楽しかったらしい、「カネは権威でも何でもない! 所詮紙切れだ!」なんて叫んで燃やしているところを見たことがある。
気に入らない話だが、カネへの執着は経営者の適正として表れた。征吾に認められて洋館に住んでいたようにね。偽札製造はそこに住んでいるときの趣味だ、僕もそのときに知った。
ビジネスで独立してからは偽札製造を止めたようだ。奴にしてみれば安全な環境で活動しているからこその道楽だったらしい。まあ、スキャンダルのリスクは摘んでおいて正解だ。まさかいまでも続けているということはない……と思っているが。
最近になって、topSALEで偽札が流通しているという噂があっただろう? ああ、そう、金貸しの真似ごとをする奴らに紛れて、本当に偽物をつかませる連中だ。topSALEはユーザの良心に頼るフリーマーケットだから、偽札を流す奴は現れて自然かもしれない。だが、出資者として偽札の悪評を看過できなかった征吾が見つけていた――唯野が作るレベルの、精巧な贋札を。
さて、征吾はそれでどうするか?
僕に調査を依頼した。
憶えているかい? 遙、キミは征吾と初めて会ったとき、一万円札を僕に渡すよう頼まれた。あれを遙は本物だと思っていたようだけれど。でも僕なら一瞬でわかる、唯野のものだという見当もつく。そう、だから征吾は言っていたのさ……「渡せばわかる」
偽札は十中八九、唯野のもので間違いないと思う。あと一歩確証が持てないのは、過去の現物が残っていないから。
それを探すなら、一番に検めるべき場所が僕の住む洋館さ。唯野が住んでいたころに作っていた偽札を置いて行っていないか、調べてみる価値はあるだろう?
結果はね、見つからなかった。
それでどうして唯野や浦上が洋館を欲しがったか? まあ、その前に調査について続きを話そう。
僕に出せる結論は、征吾が持ってきた偽札が高い確率で唯野の「作品」であろう、というところまでだ。さすがに、出品者を特定するのは僕には無理だ。サーバにアクセスできる奴じゃないとね。
それを征吾に報告すれば調査依頼は終了。やったことは唯野の偽札だろうと当たりをつけ、洋館を調べただけだが……まあ、調査失敗ということで依頼料だけいただくところだ。
でも僕は思いついた。
征吾がクライアントだなんて、良い機会だ。これを利用しない手はない。
あれは梅雨だったから、六月か。遙が航大くんを連れてきた日。あの日、征吾はしびれを切らして僕の家を訪ね、報告を求めた。僕はそこで、ハッタリをかました。
唯野の残した偽札がこの家にある、とね。
征吾は当然それを消し去りたい。唯野のスキャンダルはビジネスに響くからね。そこで僕はこう提案した。「偽札の発見を黙っていてやってもいい。その代わり、僕にもう二度と関わるな」とね。
征吾は僕の条件を呑んだ。
計画は大成功、僕は自由を手に入れた。
でも、誤算があった。まさか、僕と征吾の取引を唯野たちに聞かれているとは思ってもみなかった――僕の家は、奴らに盗聴されていたんだ。
盗聴を思わせる素振りは浦上から見て取れた。まず、浦上はインターフォンを使わず、ドアをノックした。壊れているのを知っていたようだね、壊れたのは僕が住みはじめてからなのに。それを征吾から聞いたということもありえない。征吾にとって、赤石家にとって、僕という放蕩息子はスキャンダルの種、重大なリスクだ。それを言いふらすことはありえない。それなのに、浦上は知っていた――まして兄弟仲が悪いことまで知っているようだった。
唯野や浦上は偽札の噂に戦々恐々としていたことだろう。もし偽札が洋館に残されていて、それが露見しようものなら、せっかく成功したビジネスがダメになりかねない。何で知ったかはわからないが、征吾が偽札の調査を僕に依頼したと知って、自分たちで独自に解決しようと考えたんだろうな。その一環として、僕の家を盗聴していた可能性が高い。
ああ、もし盗聴が本当なら、唯野は僕の家に偽札があると信じて疑っていないだろうね。僕と征吾の取引――洋館から贋札を発見したというやり取りを聞いていただろうから。
そして、僕を信用していなかったようだ。黙っていると約束したが、やっぱり、僕の手元にないほうが唯野や浦上は安全に決まっている。で、穏健な手法で洋館ごと偽札を回収しようと試みた。それがあの、家を譲れという交渉だ。
だが、僕が態度を明確にしないまま長引かせたことで、強硬手段に移った。盗聴で把握した僕の留守を狙って、家に入る。偽札を見つけて持ち出そうとしたけれど、見つからない。まあ、あるはずがないからね。それで手こずっているうちに、僕と鉢合わせてしまった。凶器は確か……花瓶か何かだったらしい。
こうして、僕はここにいるわけだ。
奴らが態度を急変させた原因も大方見当が――
「ちょっと待ってください」
ああ、最後まで聞いていようと思ったのに。
思わず、わたしは赤石さんの話を遮ってしまった。
「あの、ごめんなさい。我慢できないので、怒りますね」
ああ、何という彼の間抜けな表情。
こんな顔、お金の探偵の名折れだ。わたしが見た彼の表情の中で最も滑稽だ。
「いい加減にしてください! いまの話の通りなら、赤石さんは自分で自分が襲われる理由を作ったということじゃないですか! 何が良い機会ですか。何が計画ですか。何が自由ですか。結局は、つまらない意地とプライドでしょう? 征吾さんや家族と向き合う勇気がなくて、逃げているだけですよね? 人を悪者にして、すっきりした気になっているだけですよね?」
ああ、大声を出すのってくたびれる。
こんなふうに大声を出して兄さんと喧嘩したのは、何年前が最後だったか。
「その逃げ腰が巡りめぐって、自分を危険に晒したんですよ!」
ふっと頭が空っぽになり、軽くなる。途端に、大声を出していたことが虚しく感じられるようになる。感情の熱が冷めたようだ。
「聞きましたよ。病室の手配とお金の工面、征吾さんがしたって」
「…………」
「…………」
こんなに大きな声を出して、もうすぐ人が来るだろう。
帰ります、と踵を返す。
「遙、ひとつだけ――」
わたしは振り返らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます