Case.6
ステキなおウチの重大事件
1
「ああ、これは偽札じゃないよ」
八月、夏の盛りの赤石邸。
エアコンは稼働せず、くるくると首を振る扇風機がそこら中に散らかった書類やら本のページやらをぺらぺらとめくっている。気温はゆうに三十度を超え、噴き出す汗が頬や首筋を流れている。涼を取るものといえば、扇風機の送風に、窓から吹き込む空気の流れとアイスコーヒーくらいのものだが、これが案外悪いものではなかった。
女子大生が友と遊ぶ時間やアルバイトの時間を惜しんで、街のはずれに住む貧乏性で軟派でいちいち胡散臭い元探偵を訪ねたのは、自分がふと財布に見つけた紙幣について彼に尋ねたいことがあったからだ。
「じゃあ、この文字の色が違うのはどうしてですか?」
わたしの目に留まったのは一万円札。手元にあった二枚を見比べたとき、額面の上と紙面の右下、九桁のアルファベットと数字を印字する色が異なっていることに気がついた。一方は黒色、一方はやや褐色がかっていた。
「お金の探偵」にかかればお札の真贋鑑定などお茶の子さいさい。彼はわたしからお札を受け取ると、いくらかその表面に指を滑らせて、よく見もせずにものの数秒であっさりと結論を下してしまった。
「この一万円券の場合、記番号をすべて使い切ったから、色を変えて使用済みの番号をもう一巡しているんだ。ちなみに、茶色っぽいほうが新しくて、二〇一一年から発行されている」
「番号を使い切った……ということは」
すべてのお札に異なる数字が印字されている。それが九桁。
「一巡すると一二九憶六千万通り」
「そんなに!」
その枚数を積み上げてみたらどのくらいになるのだろう。合計金額は……考えたくもない。
「まあ、驚いて無理もないね。記番号の一巡なんて、知る機会がないから。そうそう、ごく一部だけデザイン変更があったときに記番号も色が変えられたケースもある。最近だと、二〇一四年の五千円券」
わたしが小さいころにお札のデザインが変わったらしいけれど、記憶がないからお札が変更されるというのがどういうことかはよくわからない。しかし、記番号というごく小さな変更ならごく最近もあったとは、驚きだ。
お札を注視することがないもの。
ふと違うものにされていても、鈍感だ。
「それにしても、自分の札を偽札と疑うとは」赤石さんは、ふん、と鼻で笑った。彼のいやらしい笑いにも、すっかり嫌味を感じなくなった。「遙も随分、僕に毒されてきたんじゃないか?」
否定できない。
「まあ、また気になったら持ってきなよ。偽札の鑑定くらい、目を閉じていても五秒あればできる」
コーヒーで喉を潤しながら、何か皮肉でも言い返してやろうと考えていると、ラジオDJのよく通る美声がわたしの思考を邪魔して飛び込んできた。
『きょうのゲストは、topSALEの開発者としてテレビでもおなじみになってきました、
どうも、と唯野と紹介された男性が応じた。
「また唯野の奴か」
登場したゲストを知り、赤石さんは顔を歪めた。
赤石さんの家にはテレビがない。お金持ちが嫌いな彼だが、その嫌悪はテレビにすら向けられている。彼曰く、
「ああ、唯野さん。変わった人ですよね、こんな人が社長とは思いませんでした」
肩書きとしては経営者であり、開発者ともいうのだろうか。インターネットが当たり前に商売に用いられる時代、topSALEを生み出して一躍成功者となった。
当初、彼の成功談に世の注目が集まって、メディアへ露出しはじめた。芸術家気質というか、何かと変わった物言いをするというので近頃話題になっている。ビジネスを「創作活動」と喩えたり、経営者を志したきっかけを「収集癖でしょうね。お札を集めたかったので」と語ったり。奇異な発言に目を付けた業界は、彼をバラエティ番組に引き入れた。
「変わっているというか……変態だが」
「変態?」
赤石さんに変な人と言われるとは、いかほどの人なのか。
「ラジオを聞いていてもわかると思うぞ」
番組では、仮想通貨
彼はtopSALEでの成功を足掛かりに、流行りの仮想通貨事業へと乗り出し、さらなる成功を上げている。彼の名が一躍有名になったのも、topSALEの大成功に重ねて、仮想通貨でも大当たりをたたき出したからだ。
お金持ちはお金があるから、新たな事業を興してさらに大金持ちになる。
でも。
「仮想通貨って結局何なんですか? この前の、ギフトカードで買うやつですか?」
赤石さんは首を横に振った。
「電子マネーは円やドルといった通貨を電子化しただけのもの。形を変え、呼び方が変わっただけで、実態としては変換前も後も同じ。円なら円だし、ドルならドル。
これに対して、仮想通貨はもはやそれ自体が一種のカネだ。円をドルに両替するのと同じように、たとえば円をMaSTに両替したり、MaSTをドルに両替したりする。といっても、硬貨や紙幣が発行されているわけではなく、それこそインターネットという仮想空間でのみ存在することのできるカネだ」
なるほど、よくわからない。
「そんなもの、なんの役に立つんですか?」
「初期の構想では、国際的な貿易取引の清算に活用することが想定されていた。両替が不要になって、取引が迅速に行えるようになる」
へえ、意外と便利そうだ。
てっきり、ギャンブルじみた怪しげな金融商品だと思っていた。株とか債権とか、安いときに買って高いときに売るものなのかな、と。だって、仮想通貨でも相場がどうとか、取引価格がどうとか耳にするではないか。
その旨赤石さんに述べてみると、応答は引き笑いだった。
「それがそうなんだよ。通貨とは言うが、まあ所詮は民営の商品、モノとして扱われるのが妥当だ。そういうものを各国の通貨で取引することで、『相場』が生まれる。で、みんな気がついたわけだ。素直に支払い手段にするよりも、売ったり買ったりして投機の対象にしたほうが儲かるんじゃないか、と」
「はあ……貪欲な人たちがいるものですね」
「カネがあればいつか金持ちと貧乏が生まれて、金融が生まれる。財があればいつか先物取引が始まり、投機が始まる――いつの時代も、人類はカネや富に踊らされる生き物なんだよ。……む」
顎をしゃくってラジオを示した。聞いてみろということか。
『仮想通貨を構想しはじめたのは、どういうきっかけがあったんですか? そりゃあ、当然チャンスがあるから、ということが大きいでしょうが』
DJの問いに、唯野さんが答える。
『そうですねえ、でもそれ以上に、僕は若いころから仮想通貨という「何か」に興味がありまして。というのも「お金」を開発できるんですよ? どういうわけか私たち平民には作ることのできない「お金」を、です。夢があるじゃないですか』
初めて聞いたエピソードだ。
夢があるとは、なかなか経営者らしいことを言う。
しかし、少し奇妙だ。お金になるのはわかる。でも彼は、「お金」をつくることに「夢がある」と語っている。不可能を可能にするというロマンだろうか。だとしても、お金は稼ぐものであってつくりだすものではない。平民云々はどうでもよくて、どういうわけか作れないのではなく、どう考えても作れないのだ。
とはいえ、唯野さんの変わった物言いならテレビでおなじみだ。赤石さんはどうしてこれを聞かせたかったのか。視線で問うと、彼はまた嘲るような引き笑い。
「これが奴の『思想』だよ。こいつはな――」
と、何かを語りはじめようとしたとき、玄関のドアがノックされた。来客のようだ。
来客はわたしが同席することをまったく気に留めず、赤石さんの案内でリビングにやってきた。
わたしを気にしないということは征吾さんかと思ったが、外に車がないことから彼ではないと悟った。彼と話す声が女性のものであった。しかも営業とかそういう訪問者ではない。その女性を家に上げたことにも驚いた。
そして、黒のスーツで現れた長身の彼女を目にしたとき、空いた口が塞がらなくなった。
見たことのある人だ。
「失礼ですが、もしかして……
「はい」
長身と長い黒髪、怜悧な目鼻立ち。そばに立っているだけでやや気が引けてしまうような、少し威圧感のあるオーラをまとった彼女を、わたしはテレビで見て知っていた。
「あら、唯野の出ている番組ですね」
彼女がラジオから流れる唯野さんの声に気がついた。
浦上さんは、唯野さんの秘書だ。
唯野さんの露出が増えるとともに、その秘書もまた世間に顔を見せるようになって、いまでは彼女もちょっとした人気者だ。見た目のイメージに違わず、雇い主に向かって遠慮なくズバズバとモノを言うところがウケている。
「こんなところに来ていていいのか?」
「はい。唯野には別の者がついているので」
おや、この様子は。
「知り合いなんですか?」
赤石さんは首を横に振った。
「会ったのは初めてだ。だが唯野とは顔を合わせたことがあるし、唯野やこいつの会社は、征吾がカネを出しているからな」
「え、征吾さんが?」
「何だ、知らなかったのか。征吾は投資家あるいは投機家、ときに経営者と呼ばれる人間だ。いくつもの企業の経営に口を出しているし、いくつかの企業を持っている」
持っている!
お金持ちとはわかっていたけれど、想像以上の人だったようだ。オーナー様とは、わたしのような庶民には到底理解の及ばない世界にお住まいだったのか。どうりで弟の自堕落な生活について家の沽券を損なうと不快感を示していたわけだ。
「topSALEでは奴が筆頭株主、MaSTでは出資に加えてトレーダーとしての参加もしているんだったな」
「赤石様は素晴らしいパートナーです」
ふん、と赤石さんは鼻で笑った。
ところで、赤石さんはコーヒーを出そうとしない。相手は征吾さんのビジネスパートナー、つまるところ彼女を歓迎するつもりがないらしい。仕方がない、わたしがアイスコーヒーを淹れよう。浦上さんも暑い中スーツで汗を流して来てくれたのだから。
雰囲気というものに頓着しない赤石さんに加え、相手もややせっかちなきらいがあるのか、ふたりは飲み物がなくても本題を語ろうとしている。台所で支度をしながら、リビングでの会話に聞き耳を立てた。
「それで、きょうの用件は?」
「ええ、実はこの家のことでして」
家のこと?
赤石さんを訪ねる人といえば、征吾さんのようにビジネスを提案する人か、わたしや航大くんのように彼を「お金の探偵」と見込んで依頼を持ち込む人――いずれにせよ赤石さんという人物に期待を寄せてやってくる。今回は前者に近いのだろうけれど、家のこととなると、赤石さん本人にはさほど興味のない商談とみえる。
おっと、コーヒーを淹れなくては。
「物は相談なのですが、ここを譲っていただけませんか?」
「はあ?」
心底理解できない、そういう赤石さんの反応だ。
わたしもびっくりして、危うくグラスを落とすところだった。
「唯野がここをいたく気に入っていまして」浦上さんが真意を語る。「物語の世界にいるようで素晴らしい、家主と直接交渉してでも手に入れたいと」
「奴にもそんな神経があるとは知らなかった」赤石さんは驚いているのではなく、呆れているようだ。「昔住んでいた場所がいまごろになって惜しくなったのか?」
おっと、また手を滑らせた。
唯野さんがここに住んでいた、とな?
そこに驚いている奴がいるから説明してやろうか、と赤石さん。
「もとはといえば、ここは征吾が目に止めた、有能だが環境に恵まれない経営者の卵にビジネスの拠点を与えてやるための物件だ。何人でシェアさせていたかは知らないが……唯野もここでtopSALEの構想を練ったんだったか? 経営者として独り立ちしてせっかく旅立ったのに、恋しくなったか」
征吾さんが投資家という肩書を持っているとはいえ、家を貸し出すとは。かなり思い切った先行投資だ。もし結果が出なくても平気なほどの資産があったことをうかがわせる。
「言ってしまえばそういうことなのでしょう」
「まあ、感傷に浸るのは勝手だ。僕にはどうでもいい。ここを手に入れるにも相応にカネはかかったし、僕も僕で思うところあってここに住んでいる」
四軒寺の土地は決して安くない、というか都内でも相当高価だ。それを赤石さんは、探偵時代の収入を払って現金で購入している。赤石さんのような合理性志向でも、住んでいればおのずと愛着がわくはず。そう簡単には手放すまい。
ようやくアイスコーヒーの支度ができた。わたしも交渉の末席を汚させていただく。
「そうおっしゃるのも当然でしょう。こちらにも、相応の用意はあります」
と言って浦上さんが取り出した紙の束には、小洒落た家の外観やら間取りやらが記されていた。
「この家を買い取らせていただけるのなら、こちらが所有している物件を安くお譲りします。言うまでもないでしょうが、お釣りの来る額で」
物件の情報が四、五件はある。場所は関西だとか、瀬戸内だとか。海外まである。全部唯野さんの別荘なのだろうか? いったいどれだけの稼ぎがあるのやら。不動産をやると税金対策がどうとか聞いたことがある。
提示された家はいずれもこの洋館と遜色ないものばかり。ただし、赤石さんはこの洋館にも使っていない部屋があるようだから、それと同等かそれ以上となると、彼の手にもあまるような豪邸ということになろう。
「気に入らないな」
家の主人の表情が険しくなる。しかし、自分の満足できる条件を提示させようとしているのではなかった。
「そこまで僕の家が欲しいとは、どういう魂胆だ? 征吾から何か言われたか?」
目的を問われて、交渉相手は首を横に振った。
「いいえ、今回のお話は赤石様とまったく関係ありません。むしろ、揉めているお兄様から距離を取ることもできると思うのですが」
これを聞いて、家主の表情がまた変化した。眉根はより険しく、その一方で、瞳には驚きというか、呆気にとられるような色が浮かんでいる。
もしかして、気が変わった?
「なるほど……そういうことなら、考えてみようか」
その晩、征吾さんに送るメールを書いていた。
頼まれていた赤石さんの近況報告だ。赤石さんに会ったときには送るようにしてからしばらく経つけれど、征吾さんから返信が届いたことはない。たぶん、わたしがお礼は要らないと言ったから、わたしに勝手にやらせているのだろう。第一、征吾さんも忙しい。
それでも、何となく続けている。
特に、きょうの浦上さんとの交渉が今後も続いていくとすれば、赤石さんが転居することだって考えられる。その場合、征吾さんが心配して会いに行けるところとは限らないし、赤石さんが新天地を兄に黙っているようなことがあると困る。こういうときのために、わたしは報告を依頼されたのかもしれない。たまたま居合わせてよかった。
それにしても赤石さんが乗り気になるとは意外だった。浦上さんが家族と距離が取れるということを売り文句にしたのは大正解だったようだ。思うところあって住んでいる、とは言っていたけれど、それ以上に赤石家のしがらみが疎ましいのか。
結局赤石さんは、ヒグラシの声が聞こえはじめるまで浦上さんの話を聞き、「検討する時間をくれ」と言って彼女を帰らせた。浦上さんも好感を得られたところで良しとしたのか、満足げに洋館を去っていった。
赤石さんがどこに住むかはもちろん彼の自由だけれど、それにしても随分とあっさりしていた。何か魂胆があるのか、それともただ条件を気に入ったのか。
文面の確認をしていると、携帯の呼び出し音が流れた。
「あ、兄さん」
『よお、遙。空豆送ったけど、届いたか?』
夕食でいただきました。そういえば、お礼の連絡を忘れていた。
「おいしかったよ」
『そうか、よかった。いつもならすぐ連絡が来るのに、何もないからひょっとして届いていないのかと』
「何それ」
いけない、誤変換があった。スマートフォンを右から左に持ち替えて、キーボードを叩いて誤字を訂正する。
「兄さんのほうからかけてくるなら、たまには父さんか母さんにかけてみればいいのに」
『いいだろ、遙からひとこと言うだけじゃないか』
赤石家の兄弟を見ていると、青山家の兄妹と違ってうまくいかないものだな、と呆れるけれど、うちもうちで面倒があった。何年も前に家を出た長男が未だに両親との連絡を億劫がって治らない。
まあ、トラブルの深刻さとしては比べ物にならないのだけれど。
「ひとことなんて思うなら、自分で話せるでしょって言っているの」
『なんだよ、遙も親父やお袋と話しにくいのか? 喧嘩でもしたか』
「そんなことないよ、家族三人仲良くやっているよ」
ふうん、と兄さんは薄気味悪い相槌。
「何?」
『……いや、家族三人って言うから』
三人――わたしと、父さんと、母さんと。
「え? あ、ああ、兄さんを外したわけじゃなくて、東京で暮らす三人ってことだから」
『はいはい、そうだな』
兄さんに笑われ頬が熱くなるのを感じながら、メールの送信ボタンを押す。
兄の手を焼く弟に、妹の手を焼く兄。どこの家族も、そんなものか。
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