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嘘はついていない。
そういう開き直りは、何度目だろうか? 赤石さんの洋館を訪ねるたび、何かしら新しいタテマエをつくろうとしている。今回は、門倉さんの件が気になるから、赤石さんの意見を聞きたいというもの。
もしかして、本音では彼と話すのを楽しんでいる節があるのかもしれない。いや、否定しきれないというだけで、心の底からそう思っているわけではないはずだ。
そうだ、わたしはいま、門倉さんのことを表の目的としつつ、赤石兄弟の不仲の理由を知るという裏の目的に従って動いている。さっきは、兄の話になったところで弟が機嫌を損ねたものだから、泡を食ってしまったのだ。
彼の淹れる香り高いコーヒーで心を落ち着かせれば、何ということはない。
「ふむ、聞いたところ……確かに金銭絡みのケースだが、僕の扱ってきた事例とは毛色が違う気がする」
わたしの説明を聞き終えたお金の探偵は、どこか戸惑った様子だ。良くも悪くも自信家の彼がのっけからエクスキューズに近いことを口走るなんて。お金のことならどんとこい、と簡単なことでもないらしい。
門外漢と前置きすることも、専門家としての自己を高める自信の表れなのかもしれないが。
「いやさ、何を糸口にするか、ぱっと思いつかないものだから」
思考のきっかけが掴めないとは、ちょっと意外な言葉だ。
「そうですか? 金額なんかは?」
実際、わたしもそこからスタートした。
しかし、お金の探偵はかぶりを振る。
「これが案外、額面は当てにならない。社会階層に応じて同じ意味の事物に対してもまったく異なる価格がついているものだ」
こういうもののようにね、とコーヒーカップを示してみせた。
「言ってしまえば、個人の金銭感覚次第、ということになってしまう。遙は僕が収入に見合わないような、やたらと高いコーヒーを飲んでいると思っているらしい。ところが、僕は僕なりにこだわっているつもりだから、これで適正価格だ。加えて、たとえば征吾が飲んでいたら、遙はどう思うか? 印象は違うはずだ。というか、あいつはセンスが悪い、事実奴のほうが安物を飲んでいるんじゃないかな」
征吾さんを引き合いに出すのは、まだわたしを疑っているからだろうか?
「要するに、客観的に意味づけを説明するには、金額はスタートに不向きだ。領収書や出納簿があるのでなければね。極端な話、本当にお釣りが要らなかったのかもしれないだろう?」
それはごもっともなのだけれど、あまり納得できない。
「でも、妥当な金額っていうのは、場面ごとにあるじゃないですか。『きよたけ』は食堂ですから、何十万、何百万という金額がレジで登場することは、まあ、ないですよね。そうそう、冠婚葬祭とかそういう儀式的に扱うお金なら、相場というものがあります」
おお、さっきまでの自分には思いつかなかったことがスラスラ出てきたぞ。
それでもなお、赤石さんは渋い表情だ。
「じゃあ、少し検討してみようか。でも、九二五〇円だろう? それこそ大衆食堂なんだから、ツケや何かにしても金額が大きすぎやしないかい? まず以て、そういう心当たりもないんだろう? それなりにカネを持っている人みたいじゃないか、その門倉っておばさんは。
祝儀や香典というのも無茶苦茶だ。第一に、渡し方がなってない。現金をそのまま手渡すようなこと、誰がするんだい? 第二に、それこそ遙の言うような妥当な金額にあたらない。半端すぎる。一般に一万円を単位に揃えるところだ。第三に、今回のようなことをしたら、収支がおかしくなるのは自明のことじゃないか。いい大人がそんなふうに店の邪魔をするかな?
まあ、どんな場面を想定しようと、店の邪魔をするほどの意義を見出せないとね。門倉おばさんがよっぽどエキセントリックな神経でもしていない限り、そんなことをするとは思えない。店の会計に含まれるツケ云々の清算ならまだしも、それ以外は例外的すぎる。立て替えだろうと貸し借りだろうと、同じことさ」
なるほど、要するに赤石さんが最初の論点としたいポイントが見えてきた。
要するに、門倉さんの行動で最も不可解なのは、なぜレジに入れさせようとしたのか、だ。店長とのあいだで合意があったようではあるが、それなら直接会って渡せば済むはず。わざわざわたしを捕まえたことに、何か門倉さんの中で重大な意味があったのだろう。
「視点を変えるんだ……そう、門倉さんがわざわざ今回のような方法を選んだ理由を考えるんだ」
「レジに入れさせる意味でもありますよね。そういうことなら、店長と事前にお金のやり取りがあると合意されていたはずです。店としては迷惑千万なので、門倉さんは思いつきでやったのではないと思います」
大前提だ。門倉さんが言っていた「店長に言えばわかるから」も嘘ではなかろう。
先に赤石さんがいくつかの例を却下した際の論理と整合性をとるためでもある。
「遙の言う通りだろうね」赤石さんも頷いた。それから、指を二本立てて続ける。「ついでに、レジに入れさせることで得られる効果もふたつある」
それは? と促すと、赤石さんはコーヒーで喉を潤してから説明を再開する。
「ひとつ。カネを直接渡さないぶん、相手にこっそり渡すことができる。ふたつ。レジに入ったお金は店の売り上げだから、店長に確実に届けられる」
それはつまり、お金を確実に渡したいけれども、同時にそれを内緒にしておきたかったということか――随分と矛盾しているような。しかも、店長は門倉さんがそのようなことをするとわかっている、あるいは予想しているのだ。
想像以上にややこしい話になってきた。
「こっそり渡したいということは……顔を合わせて渡せないお金なんですよね? 何をそんなに秘密にしたかったんでしょう?」
「おそらく……カネを渡すこと自体を隠しておきたかったんじゃないかな」
渡すこと自体?
待った、おかしい。
「店長は門倉さんからお金を受け取ることになるだろうとわかっていたのに?」
「いや、それはそうなんだ。変なのはわかる、だって店長は知っているのに、隠してどうなるのか。でも、隠すことが必要になる場合も考えられなくはない。たとえば――店長は門倉おばさんからカネを受け取る気がなかった、とか」
店長は門倉さんからお金をもらうことになると予想していて、断るつもりでいた。他方、門倉さんは店長がお金を拒否するだろうことを予想していた。門倉さんは何としてもお金を渡したかったので、迷惑を承知のうえ、私的な金銭をレジに入れさせるに至った。
「……なら結局、お金の名目を確かめないといけませんね。店長はどうしてお金を受け取ろうとしなかったのか」
「そうだねえ……どういうカネなら要らないというのか。犯罪絡みでもなければ、もらったほうが合理的だというのに」
物騒な言葉が聞かれたが、その線はないだろう。汚いお金ならば、事情を知らないわたしを介して渡そうとはしないはずだ。
少し想像をしてみる。
友人からお金を受け取る場面というと――このとき、相手が身内ではないというのも大切な情報かもしれない。兄さんからお金をもらえるなら、あまり遠慮しないだろうから――貸し借りか立て替えというケースが多いだろう。でも、だとしたらお金を拒否することはないだろう。自分の損益を補うお金なのだから、赤石さんの言う通り受け取っておいたほうが「合理的」である。
赤石さんは二杯目のコーヒーに席を立つ。ついでに、わたしのカップも持っていった。冷めてしまったので淹れなおしてくれるそうだ。やめておこうかと思ったが、再び漂いはじめる高い香りはよい気分転換になるかもしれない、とお言葉に甘えることにした。
当初から戸惑っているようなことを言っていた通り、さっきから議論の視点が何度も移動している。金額に始まり、レジに入れさせる理由、お金を渡すことを秘密にしたい理由、そしてそもそも渡すお金の名目――確かに一度にこれらをクリアする仮説は簡単に立てられるものではないだろうけれど、はて、こんなにもややこしい話だったのだろうか。
カップが目の前に戻ってきた。素敵な香りを愉しみつつ、言葉だけ「すみません」と遠慮しておく。
ああ、もしかして。
「門倉さん、お金が要らなかったのかな」
はあ? と二杯目に口をつけようかという赤石さんが顔を歪めた。
「金持ちおばさんの金銭感覚はおかしいって話かい?」
「そうじゃなくて、ただ遠慮したんじゃないですか? そうだなあ、店長が買い物を頼んだとして、店長が門倉さんから何か――お金でもモノでも同じことですね――受け取りますよね。その代金を返そうとしたんじゃないかと」
説明が下手だったのだろうか、お金の探偵が変な顔をしている。
「喜んで損害を被る、と?」怪訝な顔、というよりも、嫌悪を露わにするような表情の赤石さん。「そうだとしたら、金持ちは本当にわからない生き物だ」
社会の成功者に向けて人と思わないような発言だ。いや、それはいいとして。
「損得勘定だけで人間動いているわけではありませんよ」赤石さんにも否定できない仮説を用意できたつもりになっていた。「いや、買い物の例だと話は合いませんでしたね。でも、ほら、門倉さんにとってはプレゼントのつもりだったとしたら」
贈り物をして、その相手から礼をされそうなときは「まあ、そんなのいいのに」と本心であれ遠慮であれ、とりあえず言っておくものだ。
「あ、それだと立場が逆ということもありますよね。店長からもらったものを門倉さんが断ろうとしていたとか、代金を支払おうとしていたとか」
たぶん、細かい説明は要らないのだ。互いにお金をやり取りすることはわかっているし、断ることもわかっている。それでも成り立たないコミュニケーションとはつまり、「遠慮」があったからなのではないか。互いの遠慮がすれ違い、わたしが巻き込まれることになったのだ。
首を傾ぐ赤石さんは、解せない、とも、そんなことわかっている、とも言いたげだ。わたしの仮説ではまだ曖昧だから、彼は頭を悩ませているのか。いや、それほど真剣に考えている様子でもない気がする。
認めたくないのかも。
少し呼び掛けてみると、うん、と彼は気の抜けた返事をした。
「いやさ、遙の言うことに確証を与えることもできなければ、反証を挙げることもできなくてね。何も思いつかない」
ぼんやりとして、自信のない言葉だ。
付き合いは浅いはずだが、らしくない、と直感的に思っていた。
「それが最初に言っていた、『毛色が違う』ということですか?」
「まあ、そうかもね。もしいまの仮説が正しかったなら、僕の扱うべきケースと違ったことは明らかだ」
「何が違ったんですか?」
そうだねえ、と呟く彼にはまたいやらしい薄ら笑いが戻っていた。
「こんなに穏やかな話は探偵時代には聞けなかったということさ」
夜、メールを確認していたら攸子からの着信があった。
人が足りずバタバタしていたとはいえ、きつい言葉をかけてしまって申し訳なかった、という謝罪の文言が並んでいた。彼女にしてはしおらしい文体だった。
営業時間が終わっていることを確認して、電話をかけた。
『ああ、遙! きょうは本当にごめん!』
「いいの、わたしが悪かったんだから攸子が謝ることはないよ」
互いに謝罪を繰り返すのはほどほどにして、昼間の門倉さんの九二五〇円について尋ねてみた。「きよたけ」ではきょうの売り上げをまだ数え終わっていなかったらしく、攸子は驚きを以て話しはじめた。
『嘘、門倉さんお金返してきたの? うわあ、親父に知らせないと。
いやね、門倉さんちの子とうちの弟が仲良しでね、この前遊園地に遊びに行ってきたんだよ。遙には言ってなかったっけ? 実はさ、商店会の福引の一等、うちの弟が引き当てちゃったんだよね――そうそう、それで商店会はてんてこ舞いってわけ――まあ、もらったものはもらったものだから、ペアチケット使って中学生ふたりで行ってきたわけ。
そしたら門倉さん、チケット代を払うって言いはじめちゃって。親父、困ってたんだよねぇ。チケットは籤で当てたものだから、うちは実質、一銭も出してないわけじゃん? それどころか商店会におごってもらうようなものだし。そりゃお金払ってくれてもいいけどさ、恥ずかしいっていうか、気まずくてしょうがない。こっちにも見栄ってものがある。
しかも九千いくらだって? 絶対チケット代より高いだろ! ちょうどでも要らないってのに何さ、あのおばさん! 一万円札を渡すほうが、会計と別に封筒で渡すより受け取ってもらいやすいと思ったんだろうな。しかも親父がいないときを狙うなんて。どんだけ払いたいんだよ、タダだってのにわざわざ! 変なところでプライド高いんだから、もう。困るなぁ、何かお返し考えないと』
攸子の口ぶりに、つい失笑がこぼれる。
一緒に働くこともあって攸子と父親との距離が近いのだろうけれど、父親の面倒くさい人付き合いを自分のことのように話し、文句を垂れている攸子がどうしても面白おかしくて、我慢ならなかった。
『笑っちゃうよね。面倒ったらありゃしない』
「そうだね。でも、悪いモノではないんじゃない?」
この街の、この商店街の、ちょっと素敵な人間臭さだ。
『というか、門倉さんのことまで遙に迷惑かけちゃったか。いや、本当に申し訳なかった』
「ううん、いいの。ほんの偶然、店長がいなかったから仕方ないでしょ」
『まあ、なんか詫びをさせてくれよ。そうだ、今度うちに夕飯食べに来る? おごるから』
少し考える。
いいよ、遠慮しておく。
あしたの講義のことを少し話して、通話を終えた。
それからすぐにベッドに入ろうかと思ったけれど、やりたいことを思い出した。文面が長くなると思い、パソコンでメールアプリを起動することにした。
先日もらったメモを取り出す。
征吾さんのアドレスだ。
『青山です。きょう、赤石さんと会ってきました』
書き出しは適当に。
簡潔に書けばいいんだよね。
一、二行できょうのことを書いておいた。
送信ボタンを押そうとして、キャンセルする。末尾に一文付け足してからにした。
『お礼は受け取らないことにします。私も赤石さんには元気でいてほしいので』
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