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英里奈の部屋を訪ねてから二週間。
あの日は午前中の妙な出会いのせいで特殊な一日であったが、以降はごくありふれた時間が流れ、アルバイトをしているか自宅で呆けているかで日々を過ごしていた。
早いもので新学期が近づき、学部からゼミに関するオリエンテーションに呼び出された。同じ学部の英里奈も当然出席することになるので、一緒に行って終わったら寄り道して帰ろうと前日に誘いの連絡を入れたのだが、妙なことに返信がなかった。まさか彼女に限って忘れているとは信じられないし、東京を離れているとしても返信くらいしてくれてもいいはずだ。そもそも里帰りや海外旅行などの予定はないということを聞いている。
今年度の後期に始まるゼミの担当教員による催眠術の如きガイダンスが終わると、学生たちがぞろぞろと講堂から流れ出ていく。休日返上で大学に駆り出された愚痴や、どこへ遊びに行こうかという楽しげな声が聞こえる。出口付近の列の中に英里奈がいないか眺めていたが、そのうち自分が最後の十人あまりになってしまい、諦めた。
携帯電話を再度確かめるが、着信はない。
試みに、こちらから電話をかけてみる。留守電だ。
ひとりで説明会に出席していた心細さが心配へと変わっていく。彼女は独り暮らしだ、何か体調に異変があったのではないか。前々から無茶をするきらいはあったが、ひょっとすると春休みで時間のあるうちに無理に働きすぎて体を壊してしまったということも考えられる。
試しに会いに行ってみればいいのか――自分の中では、ただの思いつきだということにした。講堂を出たら自転車で大学を飛び出し、先日難儀した路地を日常走り慣れた道のように急ぐ。アパートのドアを叩くまで、それほど時間はかからなかった。
「あ、遙。どうしたの、息上げて?」
扉を少し開いた英里奈の目と頬を見、吐息を感じてすぐ、彼女が熱を出していると悟った。高校の名前が刻まれた紺色のジャージを着ているあたり、どうやら一日横になって過ごしていたのだろう。
「きょうガイダンスだったの覚えてる? わたしの連絡、気が付いた?」
「ああ……うん、わかってたんだけどね」
覇気のない、緩慢な応答。わたしはじれったく感じた。
「部屋に入れて。お節介だろうけど、少し手伝わせて」
半ば押し入った部屋は、たった十四日間の変化とは思えない有様だった。
整然と並んでいた参考書が開きっぱなしで放り出されていたり、レジュメがテーブルの上に広げっぱなしだったりと、しばらく片づけをしていないことが窺える。部屋着と思しきトレーナーやスウェットがベットの上や床に転がっているのは、しばらく洗濯もせず適当に着まわしていたということだろうか。食欲すら湧かないのだろう、流し台を見ても食事をした形跡に乏しい。ごみ箱はもうすぐ溢れかえってしまいそうだ。そんな中でただひとつだけ以前のまま整然と吊るされているコンビニの制服が不気味であった。
以前の部屋は、客人のために掃除された状態だったのか。いまのような生活が普通で、あのときだけ特別に整理整頓されていたのか。いや、そんなはずはない。英里奈は数日前から体調を崩していて、生活が回らなくなっているのだ。
「英里奈、病院には行ったの?」
んん、と英里奈はうつろに唸る。ぺたりとフローリングの上に座り、か細い声。幼い子どものようだ。
「行ってない」
「じゃあ、せめてかぜ薬くらい飲んだ?」
声を出すのもだるいのか、英里奈は力なく首を横に振るだけだ。
「そのくらい飲んでおきなさいよ、直す気がないの?」
「……そうじゃなくてね」
うちにはないの。
自分はきょう、泊まってでも看病してやらなければならないと悟った。いまの英里奈を、いまのこの部屋でひとりにしておくわけにはいかない。一生かかってもよくなりそうにないとさえ思える。
「なら、おとなしく寝てなさい」いつも真面目で頑張り屋な英里奈に説教をしているわたし。自分自身に違和感。「薬と、何か受け付けやすいもの買ってくるから。ヨーグルトかスポーツドリンクか、いま何が欲しい――?」
喉を潤して落ち着いて過ごせるように、そう思っただけだった。
そう思って冷蔵庫を開いただけだった。
ケーキ、ケーキ、ケーキ、ケーキ、ケーキ、ケーキ、ケーキ、ケーキ……
冷蔵庫にはホールケーキの入ったピンク色の箱がびっしりと詰め込まれていた。
「何これ、気色悪い……!」
二週間前に一緒に食べ、手土産にももらったあのケーキ。ひなまつりのキャンペーン商品である。もう三月も半ばだから、キャンペーン自体はとっくに終わっているはず。それなのにこの量が残されている? ということは、二週間前からこれだけの量を抱えていたと? わたしも招いて減らそうとしていたのも頷ける。
一杯になっていたくずかごをよく見れば、ケーキの空箱とフィルム、紙皿ばっかりだ。もしや、彼女はここのところずっと、ケーキを食べ切ろうとしていたというのか。食事という食事を、全部甘いスポンジに置き換えて――
「これ、いったいどういうことなの? 説明して」
「いいから、別に」
英里奈が立ち上がって、わたしの肩を押した。だんだんと玄関へと押し戻されていく。
「ねえ、だからどういうことなの? ケーキを大量に持ち帰って、それだけ食べて過ごしていたっていうの?」
「遙は、気にしなくていいから」
相手は病人だというのにその剣幕に負けて、彼女を押し返すことができなかった。わたしは押し返されるがままに部屋の外へと押し出されてしまう。外へ突き飛ばされたときにはっとして部屋に戻ろうとしたが、英里奈が一歩早く、扉を押してわたしを入れまいとした。
「英里奈!」
「バイト行く時間。悪いけどきょうは帰って」
「そんな! その体で働くっていうの? お節介だったのは謝るから、ちゃんと安静にしていないと!」
「謝るのはこっちだよ。心配してくれてありがと。でも、帰って」
最後の言葉だけは、はっきりと通る澄んだ声だった。
不意の謝罪と礼に気を取られた一瞬で押し合いに負け、扉は閉ざされた。ドアノブを何度か回したが、すでにカギがかけられている。締め出されたわたしは何度かドアを叩いて中に呼び掛けたものの、一切返事はない。
ケーキばかりの食生活の末に体を壊し、それでもなおアルバイトに通っていたとしたら。たとえお金に困っていても、常軌を逸している。命を削ってまで必要なお金があるのだろうか。
諦めてこの場は引くしかないと決めたとき、メールの着信音が響く。
『せっかく来てくれたのにごめん。でも、お金貸してなんて言えないでしょ』
三月のまだ冷たい風が痛かった。
あのとき適当にしておかなければ。
半月前、英里奈の部屋からの帰り際、わたしは英里奈がなぜ複数個のホールケーキを持っているのか確かに疑問に思っていた。それなのに、わたしはその数を聞き出せなかった。彼女の「もうちょっとだけ」という言葉から、それ以上深堀りしようとはしなかった。
あのとき、あのときだ。あのときのわたしが疑問を持ちながらも、嘘を平然と聞き流してしまったから、事態が大きくなってしまった。当時のわたしが嘘を見逃さなければ、これほど深刻になる前に手を打つことができたのに!
自分で食べて減らしていったにしても相当な量のケーキだった。生活もままならないということは、アルバイト先で買わされたのかもしれない。近頃店長が横暴だと愚痴を言っていた。その店長から強制的に、多額のお金を払って、生活に何も貢献しないケーキを買い込まされたのだ。
英里奈の性格もわかっていた。真面目な彼女は、店長に命じられたら断れなかった可能性が高い。どう考えても不健全なやりとりだが、その不満も事実も心の内に押しとどめてしまう。
もしかして、わたしの対応も悪かったのだろうか。「頑張ればいつか良くなる」なんて、絶望的な状況で聞いたところでなんの救いにもならない。むしろ、真面目な性分の彼女に対しては、状況を悪くする一言だったとも考えられる。もう充分頑張っているのに、上から目線で楽観的に「頑張れ」などと言われたら。
英里奈にしてみれば、わたしは自分の努力を無視したことを平気で並べてきたのだ。
きょう追い返されたのも、わたしが余計なことを言って追い詰めていたから……?
もはやわたしひとりで解決できる問題ではなくなっている。わたしが何を言っても無駄だろうし、それどころかまたひどいことを言ってしまうかもしれない。
誰かに知恵を借りよう。彼女がどうしてあのような状態に陥ってしまったのかをはっきりさせ、そのうえであのような無理をやめさせなくてはならない。もし説得できなくても、せめて心の負担を軽くできれば。
しかし、誰から知恵を借りるのか。大学の友達はダメだ。英里奈がお金に窮していることを言いふらすようなことになる。大学の教授が頼りになっただろうに、あいにく相談できるほど親しい教授がいない。相談室は春休みだから休業中だろう。いや、そもそも自分の悩み事ではないのに、相手をしてくれるのか。
とりあえずは家族に聞いてみよう。大学とは関係のないところで話ができるし、友達のこととしても切り出しやすい。
携帯電話を取り出し、いまでは苗字が変わっている実の兄にダイヤルする。
「あ、兄さん?」
家を出て地方の大学へ通い、そこで出会った女性と学生結婚、現在はその女性の実家で農業を営んでいる兄さんは、一緒に暮らしていなくても、困ったことがあれば一番に相談できる家族だ。英里奈へのアドバイスだけでなく、わたしに何ができるかもきっと提案できるはず。
『おう、遙。あれ? 何かそっちに送ったっけか?』
「ううん、何も届いてないよ。自分からかけたの」
兄さんと連絡をとる場合に一番の話題は、兄さんから送られてくる野菜のお礼である。長男として婿入りしたことを気にしているらしく、親子同士直接連絡することが億劫で、わたしが窓口になっている。
「ちょっと相談事」
友達が生活に困っているというところから切り出し、ケーキをめぐる英里奈の異変とその経過、わたしが彼女に話したこと、彼女がわたしに話したことを、彼女の為人や性格のことも交えながら、思い出せる限り伝えた。
兄さんは神妙にわたしの話を聞いていたが、提案した解決策はごく単純なものだった。
『そんなバイト、辞めちまえばいい』
あまりに呆気ないので、少し食い下がる。
「でも、長く続けてきたのにもったいないでしょ?」
『そんなこと言ったって、ダメな職場はダメだ。売れ残りをバイトに押し付けたんだろう? そんな自分のことをひとつも尊重してくれないところでバイトを続けたって、何の得がある? 給料以上のしわ寄せがくるぞ、事実体を壊したくらいなんだから』
それはわたしだって思いつく。
「でも、辞めることが英里奈のためになるのかな? 大切な生活費のためのアルバイトだし、忙しい中でも条件が合って始めたバイトだから、辞めたらまた苦労するかもしれない」
ただでさえ生活費のかさむ四軒寺である。一時の収入の空白でさえ命取りになってはしまわないか。すでにかぜ薬を買うことにすら困っているのだ。
『それは遙の言うとおりだけど、続けることだけが頑張るってことじゃない。一度辞めてしまってから、改めて自分のためになることを探すべきときもあると、俺は思う』
「…………」
確かに、英里奈の生活はすでに破綻してしまった。いまの彼女には、いままでの努力を続けている場合ではなくて、立て直す努力も必要になっているのだ。
「そうだね、わたしの頭が固かったみたい。そう提案してみる」
それがいい、と兄さんは満足げに言って電話を切った。
メールのアプリを開いて、宛先に英里奈のアドレスを指定する。
どのような文面でバイトを辞めるよう提案すればいいのだろう?
何週間も食べ切れないほどの売れ残りを押し付けるなんてひどいバイト、辞めちゃえばいいよ。もっと自分を大切にして、別のバイトを探すべきじゃないかな。いまのうちに辞めないと、もっと辛い目に遭ってからじゃ遅いんだから。きっと大丈夫だって! お金より大切なこともあるよ――
考えれば考えるほど、自分が悪魔に思えてくる。
「わたし、何様のつもり?」
友達としてアドバイスはできるだろう。でも、いまのわたしはそれ以上のことをしようとしてはいないか。それよりずっと性質の悪い見方で英里奈を見てはいないか。
彼女は、自分自身の中で何か事情があっていまに至るのだ。それなのに、わたしはそれを傍から見ただけで、どのような想いが彼女にあったのかを知ろうともせず、解決する方法を考えている。最初から解決を目指すなんて、あまりにも強引だ。
知りたい。
どうして追い込まれてしまったのか。
何を考えていたのか、何があったのか。
どうやってそれを知ればいいのだろう? ひとつだけ、心当たりがあった。
財布の中にそれが眠っていたはずだ。
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