ステキな街のおカネの探偵
大和麻也
Case.1
冷蔵庫に詰まったケーキ事件
1
東京二三区をちょっと外れた四軒寺市。
大学、買い物、アルバイト。わたしが日常過ごすこの街は、いつも憧れの街として上位にランクされる。あいにく、隣町に生まれてずっと四軒寺が生活圏だったわたしにとっては、それほどのところとは感じられない。最近になってようやく、他所の街に住む同級生との会話や、駅前でよく見かける外国からの観光客などを通して、なるほどここは垢抜けて魅力的な街だと感じはじめた。
大型の商業施設に、それに負けない活気のある商店街。路地に逸れれば小洒落た雑貨店や古着店、輸入品店も並んでいる。その一方で、駅の南の公園に足を運べばちょっとした自然を楽しめる。高校や大学が並ぶため、平日には若者が多く、休日になれば家族連れがごった返す。都心とのアクセスも抜群に良い。地元が近いせいで鈍感なわたしでも、これほどの好条件が珍しいことくらいわかっている。そして、そのような街に住むにはお金がかかるということも。
駅周辺の中心部から少し離れれば、そこは高級住宅街。「閑静な」という決まり文句もついてくる。碁盤の目の如く立派なお家が並んでいて、政治家や有名人が住んでいる家の噂も聞くことがある。
大人になりはじめてわかったのは、四軒寺はセレブな街だということ。高級住宅街はその象徴。雰囲気を気に入った喫茶店など覗いてみると、コーヒー一杯に庶民には想像できない価格がつけられていることもある。隣町でローンを組んで暮らす小市民の家に生まれたのは幸いだったと思う。不相応に高級な世界にくたびれることなく、憧れの生活を摘まみ食いできるのだから。
ただ、悪く思っているわけではない。あくまで、生活の場に対してニュートラルな評価をしているというだけ。お金持ちの生活がいけ好かないわけではなくて、むしろ憧れる。お金を稼いでこういう街で暮らせるようになったなら幸せだろう。わたしは、身の丈に合わない贅沢をするのではなく、家族でそれなりの幸せを得られればいいのだ。
さて、思いがけず四軒寺のことを振り返ってしまった。
道に迷ったことで、普段とは違う視点で生活圏を見つめなおしたくなったのだろう。
『
うちに遊びにおいで、と招待してくれた
適当に承諾してしまったけれど、失敗だった。四軒寺の繁華街は駅の北側に集中していて、どちらかといえば住宅地や公園として利用されている南側の土地にはさほど詳しくはない。おかげで、目印の喫茶店すら見つけられていない。せめてチェーン店なら見つけやすかったが、どうやら老舗らしい。
おまけに、わたしは地図も苦手だ。
こんなことなら駅で待ち合わせにすればよかった――わたしは自転車をゆっくりと走らせながら、英里奈に連絡しようかと考えた。
「……あそこかな?」
そのときふと通りかかった、洋館風の建物。草花と庭木でささやかに飾られた小さな庭がかわいらしい。短いものの石畳の小道が玄関に続いていて、ポーチには観葉植物が並べられている。どうやら木造らしく、物語に登場するエキゾチックなお家が連想される。周囲は無機質なコンクリートの住宅ばかりだけれど、その中でこの一軒だけ、個性を放ちながら空の青と庭の緑とに馴染んでいた。
このあたりで喫茶店があるとしたら、この建物くらいしかそれらしいものはない。
周囲を見回す。英里奈は見当たらない。約束までまだ時間がある。とりあえずこの建物を調べてみようか。
お庭に失礼して、出窓から中を窺う。テーブルやカウンターは見えないだろうか、暗くてよくわからない。ガラスに手を当てて日差しを遮り、顔を近づける。
「あれ? ……汚い?」
本や紙と思しきものが散らばっていて、ソファやテーブルらしきものはあるが、とても喫茶店という様子ではなかった。
「これは珍しい、女子大生のお客さんだなんて」
ぎくり。
突然の男性の声に、恐る恐る右手を振り返る。声の主は、わたしが覗いていたところの隣の窓を開き、身を乗り出してこちらを見ていた。家の中の様子を窺っていたわたしの出方を窺っている。
家主と推定される男性の声に、怒りの色はない。しかし、彼のたたえる微笑みは、道端で昆虫を捕らえた少年のそれであり、かえって恐ろしさを覚える。何より、彼自身の風貌――最低限身だしなみは整えているが、いかにも使い古してごわごわになったようなフリースを羽織って、汚い家の中でも頓着しないのかところどころ埃をかぶっている――を見ればわかる。関わったら面倒なことになる!
恥ずかしさと不気味さを抱きながら、わたしは後ずさりする。
「す、すみません! すぐに出ていきますので……」
できるだけ相手を刺激しないよう、謝罪の意思と、故意でないという事実を素早く伝えて、さっと立ち去るのだ。
「いや、別に構わないけれど、道を聞かなくていいのかい?」
「え?」
「木田珈琲あたり探しているうちに、迷い込んだんだろう? 僕のボロ屋をあの店と間違えてくれたとしたら、ありがたい話だけど」
少し考える。道を聞くくらいならセーフ? それとも、逃げるべき?
数秒考えを巡らせたのち、教えを乞うことにした。不潔そうだし、馴れ馴れしくて軟派な雰囲気が気に入らないけれど、彼なりの親切と信じよう。
彼はメモを用意しようと言って家の奥に下がって行ったので、窓の近くまで再び歩み寄る。埃が舞っていてつい咽こんでしまう。開かれた窓から中を窺ってみて改めてわかったが、この家はとても汚い。ゴミ屋敷寸前だ。彼は二〇代半ばくらいの年頃だろうか、独り暮らしをしているのだろう。
ここで、ひとり? 大きいというほどではないけれど、立派なこの一軒家で?
彼が戻ってきた。
「はい。このメモで大丈夫だと思うよ」
「…………」
「どうしたんだい?」
軽薄な態度は好かない。埃臭いのも嫌だ。怪しい人からはすぐに離れたい。
けれども、気乗りしない会話を長引かせてでも訊いてみたいと思うことがあった。
「どうしてわたしが『道に迷っている大学生』だとわかったんですか?」
自分の家の敷地に見慣れない何者かがいたら、怒声を上げて追い払うことだってできる。しかし彼は、わたしを「女子大生」と見抜いたうえで、「道に迷っている」と踏んであえて引き留めた。わたしの顔に書かれていたわけでもないのに。
「そんなの、見ればわかる」
せっかく好奇心に基づき勇気を出して尋ねたにも拘わらず、軟派男の返答は味気ないものだった。
「考えるまでもない。二月の末の平日、昼下がり。バーゲン品で身を固めた若い女性が自転車に乗ってうろうろしている。自転車には大学に駐輪するための識別シール。それがスマートフォン片手にうろうろ。これを見て、道に迷った女子大生以外の何者だと思えばいいんだい?」
終いに彼は、ふん、と鼻で笑った。
「ああ、はい。なるほど。そうでしたか」
訊かなければよかった。つまりこの人は、わたしが家を覗くために近づいてくる前から、じろじろとわたしの行動や身なりを観察していたわけだ。明らかに問題のある人だ。ついでに、バーゲンで買い揃えて悪かったね。
再び後ずさりを始めたわたしを彼はまだ引き留めたいらしい。メモを受け取ったわたしの手に、もう一枚紙切れを渡してきた。
「僕を怪しい人間だと思っているようだから、こういう人間とだけ明かしておこう。まあ、これくらいになると、見れば相手の身分や生活がわかるものなのさ」
どうやら自画自賛をはじめたらしい。渡されたのは名刺だった。
それによれば、この男性の名は
「事務所はもう畳んでしまったけれどね。探偵は探偵でも、カネに関することだけを専門に扱っていた。さしずめ『お金の探偵』さ。僕が言うだけじゃ疑うかもしれないけれど、これがかなり繁盛していたよ。世の中にはカネを素晴らしいモノ、身を助けるモノと思い込んでいるバカがたくさんいる。カネに自分がおかしくされていることに気づいていないんだ、特にカネ持ち連中はね。
……まあ、とにかく。僕はそういう人間だから、人よりちょっと目敏いんだ」
軟派なだけならまだしも、相当な自信家らしい。こんな荒れ果てた生活を送っているのだから、要するに仕事で失敗して事務所を閉めたのだろう。それなのに、どこからそんな自信が湧いてくるのか。でたらめかもしれない。いずれにしても、気持ちが悪い。
適当に愛想笑いをして、赤石さんとやらが満足するよう名刺を財布に仕舞って見せた。連絡先も書かれていたから、警察に通報するときにでも役立つだろう。
「それじゃあ、失礼します」
「そうそう、カネの貸し借りでもなんでも、カネについて困ったら僕のところに来るといい。きょうのよしみだ、相談くらいならタダで乗るよ」
よしみなんて感じるものか。二度と来ない、こんなところ。
「とんだ災難だったね、
まもなく合流した英里奈に先刻の出来事を話したら、腹を抱えて笑われた。赤石という人がくれたメモの通りに件の喫茶店を探したところ、無事に大学の友人と落ち合うことができた。
「遙の機械音痴と方向音痴を甘く見てたね。遙に期待しないで、駅で待ち合わせすればよかったかな」
「そうだね、でもその提案は昨日のうちにしてほしかった」
英里奈に従い、喫茶店の脇の細道を進む。彼女が独り暮らしを送っている部屋はその先の学生アパートの四階にある。わたしがそこを訪ねるのは初めて――というより、学期中は英里奈が勉強とアルバイトとで忙殺されているため、そのようなチャンスは一度も訪れなかった。
前を歩く彼女は、きょうも肩より少し長いくらいの髪をひとつ結びにしている。朝時間がなくても簡単だから、と毎日この髪形だ。いつも化粧っ気がなく、コンタクトより眼鏡を愛用しているのも同じ理由だろう。それでも朝一番の授業には遅刻してしまうこともあるし、昼間の授業でも大きなあくびをしょっちゅうしている。そんな彼女がこうしてわたしを招いてくれたのは、上京して一年が経つ春休み、生活に少しゆとりができたのだろうと、内心こっそり喜んでいる。
「さ、入って。すぐ紅茶淹れるから」
「お邪魔します」
生活の場が凝縮されたワンルーム、テーブルとベッドと冷蔵庫とがほぼ等間隔に配置されている。決して広くない部屋でも、狭さを感じないような配置だ。部屋の右手のカラーボックスには、大学のレジュメや英語の参考書が整然と並べられている。反対側にはアルバイト先のコンビニの制服がハンガーで吊るされていた。
この部屋は、彼女の真面目な性格と、忙しくも充実した学生生活を物語っているのだ。
「そうだ」ティーバッグの紅茶を淹れて戻ってきた英里奈は、お茶菓子の提案をする。「ケーキがあるから、ぜひ食べて行ってよ」
もちろん、断る選択肢はない。首を縦に振った。
「え、ホールケーキ?」
彼女が冷蔵庫から取り出したのは、直径二〇センチほど、お内裏様とお雛様の砂糖菓子が飾られたホールのショートケーキだった。
「そうなの。バイト先のキャンペーンのやつなんだけど、余っちゃって」
「ああ、そういえばテレビのCMでも見たよ。限定のやつだね」
近頃のコンビニは季節の行事ごとにいろいろなキャンペーンを展開する。先月は節分に食べる恵方巻を大きく売り出していた。三月はひなまつり、ひなあられやちらし寿司では飽き足らなかったのか、ホールケーキが限定販売された。ケーキはクリスマスと誕生日の楽しみと思っていたけれど、いまでは様々な行事にかこつけて年中食べられるようになったらしい。
彼女は再び台所に立ち、わたしに背を向けた。フォークや皿を手際よく準備する様子を見ると、自分が英里奈の「城」に来ているのだと実感する。
「実はきょう遙を呼んだのもひとつこれが目的だったんだよね。ひとりじゃこんなに食べきれないからね」
「そういことならいくらでもお手伝いしようじゃないの」
「じゃあ、これくらいいけるよね?」
振り返った英里奈が持つ皿には、ホールを四分の一に等分したひとかけが乗っていた。
「そんなにたくさん?」
「楽勝でしょ。これをふたつみっついってもらうよ」
かつてホールケーキを丸々ひとつ完食してみたいという願望を持ったものだが、まさかこんなところでその達成に一歩近づくとは。
でも、紅茶とショートケーキをいただけるなんて素直に嬉しい。喫茶店でそれらを楽しむことはできるが、それを英里奈の部屋で、素朴に楽しめるというのもまた贅沢なことではないか。
まずはひとくち。
意外とおいしい。
たかがコンビニと侮っていた。
「思ったよりおいしいでしょ?」英里奈がわたしの心を見透かしたように笑みを浮かべている。「人気もそれなりなんだよ」
「うん、良い意味で期待を裏切ってると思う」英里奈の言うとおりだ。でも、そうならばひとつおかしなところがある。「売れ残るなんてもったいない」
それなんだよ、と英里奈はフォークでこちらを指し示した。
「作りすぎ、売りすぎってことだよね。それなのに現場にはノルマを課すんだからたまったものじゃないよ」
笑顔から一転、大きな嘆息。彼女がきょうわたしを誘ったもうひとつの目的がわかった。わたしにバイト先の愚痴を吐き出すためだ。
「どう考えたって売り切れない量なんだよ? それを全部売れだなんて、無茶言わないでほしいよ。それに、マニュアル通りやってるアルバイトに売り込みさせるのも、ちょっと変なんじゃないかなって思うんだ」
真面目さの裏返しなのか、英里奈は不満をため込むところがある。そんな彼女が満足するまで愚痴を聞かされるのは楽ではないけれど、友達としてストレス発散の機会を提供してあげなくてはならない。
「キャンペーンは楽しいんだろうけど、現場はてんやわんや。うちなんか店長がオーナーだからさ、売り上げを気にして荒んでくるんだよ」
さらに深く大きなため息。
「でも、英里奈この前店長さんは優しい人だって。だからバイトも長続きできてるって言ってなかった?」
ケーキを持たせてくれるくらいだ。
英里奈は来月、そのコンビニで一年働いたことになる。最初は時給の低さに目をつぶり、時間の条件と合致するために掛け持ちするバイトのひとつとしてはじめた。そのうちに別のバイトは不満があって辞めていったが、コンビニだけは人間関係に恵まれ、続けていくことができた。いまでは相当信頼を寄せられているようだ。
継続は力、という言葉が英里奈には似合うと思っている。
しかし、事情は変わってしまったらしい。苦学生の言葉には弱音が混ざりはじめている。
「いや、それが年末すぐ近くに別の店舗ができて、競争する格好になったの。そのせいで、店長は神経尖らせてさ、バイトに当たり散らすことさえあるんだよ。大学生のアルバイトは何人かいたけど、みんな辞めちゃった。前よりずっと、辛くなったよ」
でも、彼女の場合「辞める」という選択はあまりに惜しい。長く続けてきた経験と、それによって得た信用や役割は、時給以上の価値を持っているに違いない。
だから、励ましてほしいのだろう。時々ガス抜きをしたいのだろう。
「きっと、たまたまいまの時期が悪いだけだよ。長くやってきたから良いときと悪いときとがよくわかるようになったんだって。いま頑張ればまた良いことがあるって」
そういうことなんだろうね――そう呟いた眼鏡の奥の瞳は、笑っていただろうか。
「そうだ、遙」
夕方になりお暇しようというとき、英里奈がわたしを引き留めた。
「売れ残り、処分手伝ってくれない?」
つまり、ケーキを持って帰らないか、という提案らしい。
「もらえるなら嬉しいからいいけど、いったいこの家にいくつケーキがあるの? しかもホール」
「まあ、もうちょっとだけ」
「じゃあ、いただきます。きょうはありがとう」
「うん、またね」
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