私は罪に生かされる

久里

前編*その日、罪を犯した

「そういえば、さっき、今年の分が届いたのよ」


 読んでいた本から顔をあげて、母が樫のテーブルの上に置いたガラスの小瓶を見つめた。


 中に詰められた七色に輝く液体は、淡い燐光を発しながらたゆたっている。


 二本分。

 弟のリュカと、私の分だ。


「……そう」


 憮然とした顔つきのまま、もう一度、本に視線を落とした。


 母も、そんな冷めた私の態度にすっかり慣れきっていて、特に驚きもしない。買い物バッグを手に取りながら、何の疑問も持たずに口にする。


「リュカの分と一緒にここに置いておくから、今日の内に飲んでおいてね」

「ん」

「じゃあ、買い物に行ってくるわね」

「ねえ、母さん」


 リビングから出て行こうとした母さんが、振り返る。


 染み一つない、白い顔。澄んだ大きな瞳が、私を見つめてきょとんとしばたいた。今日は、張りのあるプロポーションを際立たせる白いTシャツにジーンズというラフな格好をしている。もう見飽きてしまったけれど、いつ見ても、本当によく似合っていることはたしかだ。

 

 双子のように瓜二つな私たちは、しばし、見つめあった。


 母さんと私は、容姿だけでいえば見分けがつかないぐらい似ている。


 強いて違いをあげるならば、母さんは豊かな黒い髪をサイドにゆるくまとめていて、私は結ばずにおろしていることぐらいだろう。同じ果実を切り分けたように、似通っている。不自然なぐらいに。


 彼女は、きっと気づいていない。


 私が、その瑞々しく若い姿を見つめる時、どうにも苦しくやるせない気持ちになることを。


「シオン、どうしたの?」 


 母さんが微笑んだ時、動揺して少し息が浅くなった。私にそっくりで無垢な瞳が、この胸を追い立てる。頭の中をまるっと見透かされてしまう気がして、顔が強張った。


 今からでも、遅くない。


 笑って誤魔化せば、まだ、なかったことにできる。今までだって、何度も似たような気持ちになってきたけれど、いつもそうやって揉み消してきたじゃないか。


 母さんは、間違っていない。時折、こんなことを考えてしまう私の方がおかしいんだ。それに、多分、私は少しばかり考えすぎているだけだ。なにも、こんな一時の気の迷いで、母さんを無為に心配させることはない。


 だから。

 今日も、こんな狂気じみた考えは早々に殺して、なかったことにすべきだった。


 それなのに、今日に限って何故だか、それができなかった。


 掻き消そうとした暗い衝動が私を覆いつくして、自分でもどうにも制御できなくなった。


 そして、うっかり口を滑らせた。


「母さんは……もし、私が飲みたくないって言ったら、どうする?」


 呆然と目を見開いて固まってしまった母さんが視界に入った瞬間、後悔の荒波に蹂躙されて、割れるような頭痛がした。心臓は、このまま破裂してしまうのではないかと不安になるぐらいに高鳴っている。


 言葉は、時に非情に思えるほどに、厳格だ。一度放ってしまった言葉は、どんなに泣き叫んでも取り消せない。零か百かしかない。言うつもりがあったかどうかは、一寸も考慮されない。


 一体、どんなに叱られて、罵倒されるだろう。


 舌の根が、ひりひりと渇く。

 喉が締め付けられたようにすぼまっていって、息苦しい。


 裁きを待つ囚人のような気持ちで、恐々と、母さんを見つめ返した。


 身体を縮こめてぎゅっと全身の筋肉をこわばらせたけれど、母さんはただ、うん? と首を傾げて、柔らかく口元を綻ばせただけだった。それから彼女がくすくすと笑いはじめた時、無性に不安な気持ちに囚われた。


 母さんは、私を宥めるように言った。


「何を馬鹿なことを言っているの? シオン、あなた疲れているんじゃない」 


 その時、全身をつんざくような痛みが駆け抜けた。


 だって、その微笑は、この感情への徹底的な拒絶だった。


 やっぱり母さんは、そんな風に考える人間がいることを、想定すらしていなかった。共感はおろか、理解しようという意志すらもなかった。

 

「そろそろ、行ってくるわね」

 

 呆然とする私を取り残し、母さんはリビングを出て行った。


 部屋に独り取り残された私は、もう一度、テーブルの上に残されたガラス瓶を見つめた。


 さざめく虹色の液体。


 この気味の悪い液体を目にするたびに、いつも、あれから一年が経ったのかと感慨もなく思う。


 未だに、心臓は脈打っている。

 静かな部屋を満たすのは、高ぶる鼓動の音と、壁時計が針を刻む音だけ。

 

 恐々と、震える手で、ガラス瓶を手に取った。 


 毎年、この液体を摂取するたびに、薄汚い澱が心の奥底に沈殿していくのだ。


 最初は気のせいだと思っていた。


 だって、皆はこれがまるで、この世で最も美味しい飲み物であるかのように、有難がってこれを呑む。だから、私も今までずっとそういうものなのだと自分に言い聞かせて、これを喉に流し込んできた。その度に、えずきそうになりながら。


 でも、もう、誤魔化しきれない。

 到底、気のせいだなんて思えそうになかった。


 本当はずっと前から芽吹いていたこの感情をまた摘み取ってしまったら、今度こそおかしくなって、発狂してしまいそうだ。


 一度発露して膨らみあがってしまったこの感情は、今やすっかり、私を支配した。

  

 のっそりと立ち上がって、よく手入れの施された清潔な流し台の前に立つ。


 母さん、父さん、リュカ。


 ごめん。


 瓶のコルクをはずす。きゅぽっと間抜けな音が、部屋に響き渡った。

 それから、ぎゅっと目を瞑って、瓶の中の液体を思いっきりシンクにぶちまける。


 ねっとりとしたグロテスクな液体が虹色の燐光を発しながらシンクに這った。

 頭の中で思い描いていた時よりも、ずっとずっと、背徳的な眺めだった。

 でも、心震えてしまうような絶景だった。


 こうして、いつまでもじっと眺めているわけにはいかない。


 蛇口をひねって、透明な水で跡形もなくそれを押し流す。奇妙な色の残骸があっけなく排水溝に吸い込まれていった時、自然と口元が綻んだ。

 

 たった今、私は、大罪を犯した。


 もう、後戻りはできない。

 

 誰にも、リュカにすら言えない、私だけの秘密だ。


 口にしてみたところで、狂人の烙印を押されるだけだと分かっているから言わない。それに、こんなにも重たい秘密を、私以外の誰にも背負わせたくない。


 それでも、後悔は一切していなかった。

 罪を犯したというのに、心は、浄化されたように軽くなっていた。


 深々と息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 今、これまでの人生で初めて、こんなにも息を吸うことをおいしく感じる。

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