コップの中の漣
東雲 彼方
約束の青
カランコロン。
私は梅ジュースと氷の入ったグラスを回して音を出す。初夏の飲み物といえば梅ジュース、私はそんな気がしている。5月6月くらいから店頭に青梅が並び始めると果実酒のシーズンが始まる。昔から母がつくってくれていたこともあり、これを飲まないと私の夏はやってこない。
『今年は例年より一段と早く梅雨が明けた為、海の家が大変な事になっています…』
毎年7月半ばくらいに梅雨明けだった気がするけれど、今年は6月中に明けてしまった。超ハイスピードな梅雨だったわ。娘の成長くらい早い。いつの間に高校生になったのやら…。
そういえば今年はまだ海に行ってなかった。梅雨も明けたしそろそろ行ってもいいかしらね。
私はテレビ台の上に置いてある、20年前に作った思い出のキャンドルを見ながらふとそんな事を考えていた。
*****
「海だー!」
ちょっと、小学生じゃないんだから(笑)はしゃぎすぎて海に落ちたりしないでよ?やんちゃすぎるけれど、落ち着きもある少し骨ばった背中を見てそんなことを思った。
「そんなにはしゃぐなよ、とか思ってるだろ…」
「えっ、うん(笑)…落ちないでよ?」
「流石にガキじゃあるまいし…善処します(笑)ていうか、お互い仕事忙しくて最近会えてなかったんだからはしゃぐのは自然の摂理。仕方ない」
それもそうか…。お互い出会ってから8年、付き合い始めてから5・6年が経って、25歳になった。もう子供ではいられない、もうオトナ、ちゃんと社会人だ。
でも時々子供のようにはしゃぎたくなるときもある。それで私が「今度の休みに海行きたい!」と懇願したのだった。
「江ノ島とか学生以来だよ」
「え?大学の時?」
「あーうん、そう」
…初耳なんですけど?私の眉間に皺が寄ってたのに気づいたのか、
「言っとくけど女子とじゃないからな?!
「あー、そんなこともあったね。同じゼミの仲良し男子三人組男旅、だっけ?」
同じゼミの仲良し男子三人組…懐かしい(笑)篤史くんと拓海くんと青空の三人は仲が良すぎてこんな風に言われていた。一部には三角関係じゃないか…だなんて噂されていたみたいだけど(…青空と付き合ってるの私なんですけど?おかしいな)。
「ちょっ、今改めて言われると結構黒歴史だからやめて!つか
「なんか言った?」
「ナンデモナイデス…」
そんな風にじゃれあいながら海沿いを歩いていく。本当は海に入りたかったけど、残念ながらまだ海開きはしていない。というか夏はもっと忙しいから会うことも出来るかどうか…まだ分からない。学生時代は毎日のように会ってたのにね。ちょっと寂しい。
「あーもー、せっかく二人でいるのになんでそんな顔すんの!鬼みたいな顔して…あ、でもこんなカワイイ鬼なら大歓迎かもな…」
「誰が鬼よ…可愛い言うなし。ていうか本当最近全然会えてないよね」
「まぁ予期はしていたよな。お互い職種全然違う訳だし。…俺的には葉菜に会うことのレア度が上がって嬉しい限りですけどね」
なんでこんなにデレデレなんですかね、こっちまで恥ずかしくなるじゃん!普段はクールぶってる癖に二人になったとたんコレですよ。可愛いからいいけどね(笑)
「あー、海入りたかったなー、葉菜の水着見たかったなー」
…それが本当の目的ですか?やめてくれ。水着着れる体型じゃないから今(笑)
「…水族館行く?」
「晴れてるからもったいない!それだったら江ノ島うろついてから鎌倉行こうよ」
「じゃあそうしよう」
江ノ電の通る駅からずっと続く橋を渡った先の商店街の方に向かう。この辺りは色んな雑貨屋とかもあってTHE・観光客向けな感じ。ちょっと煩いくらい(笑)今日も相変わらず海外の人と思われる団体で溢れかえっている。
「あっ、たこせん!食べようよ」
「あとで昼飯食えなくなるまで食べないならいいよ」
「分かった、大丈夫」
二人で顔より大きいんじゃないか、っていうくらい大きなたこせんを買って食べる。懐かしい、この味!小さい頃食べてたな。
「…俺そういえばたこせん食べたの初めてかも」
「はぁ?!マジで言ってんの?!」
そんな人種が神奈川県内に存在するなんて…!
「いや、葉菜は地元だから食ったことあるかもだけどさぁ。俺の実家から江ノ島とか同じ県内でも結構遠いんだからな!」
「さすが田舎民…」
「海老名は田舎じゃねえ!」
高校は横浜だったから学校近くに住む祖父母の家から通っていたみたいだけど、実家は海老名らしい。
…まぁだから青空が横浜の高校選んでなかったら高校の時に塾で会ってなかったんだよね。私は限りなく横浜に近い鎌倉市出身。だから江ノ島も割と馴染みが深い。鎌倉駅までは10分弱、江ノ島までは20分かからずに行ける。だから小さい頃に家族で来ることも多かった。
だからこそ、たこせん食べたことないなんて信じられなかった。
「青空ってほんとに神奈川県民なの?ていうか海老名ってSAのメロンパン以外に何かあるの?」
「おっまえ…海老名の民を敵にまわしたな…?!つかららぽーととかもあるし別にそこまで田舎じゃないだろ。よっぽどお前の実家のあたりの方が田舎だろ」
「確かに(笑)近所飲み屋街だけどね」
そんな話をしながら商店街を練り歩き、疲れたのと暑いので、たまたま目に入ったソフトクリームをたべることに。何にしようかなぁ…やっぱ抹茶が無難?いや、王道のミルク?
「ここはしらすソフト一択だろ」
「エ”ッ、あのゲテモノ挑戦すんの…勇気あんね」
「食ってみなきゃ分かんない」
迷った末に私は結局抹茶に。青空はもちろんしらすソフト…なんであんなの食べようと思えるのか分かんないよ。
「おっ、結構いけるってコレ。あまじょっぱい感じ」
「へぇ、一口ちょうだい」
はいよ、と一口もらったけど、
「何かビミョーに生臭い。私はダメだわ」
「そうかぁ?案外いけるけどなー」
そうだった、コイツ、食えるならなんでもいいってタイプだった…!!んんん、抹茶の奥の方からほんのりとしらすの香りが…なまぐっさ!やっぱダメだわー!!そんなこんなで葛藤していると、青空はすでに食べ終わってゴミまで捨ててきていた。
「そろそろ鎌倉言って昼飯さがす?」
「先に目星つけといた方がいいと思うよ、小町通りなんてめっちゃ混んでるからね」
「ほうほう。じゃあ俺食い終わったから調べとくね」
「ありがとー」
あっ抹茶落ちる!暑いから溶けるの早いんだよね。最高気温31度だってさ。そりゃソフトクリームなんて瞬殺だよね。
「よし、葉菜も食べ終わったことだし行きますか!」
「うう…江ノ電乗るまでがしんどいー」
「海に、行きたいと、言ったのは?」
―私ですね。ハイ。
頑張るよ、頑張るけどさ…7月ってこんなに暑かったっけ?
*****
ガタンゴトン、と電車に揺られ、民家の間を通っていく。江ノ電は路地裏とも言えそうな民家と民家の間を通って行くから慣れるまでは結構怖いのだ。目の前に座っていた小学生の男の子と青空が同じように「うぉぉ…!」なんて言うくらいには。しかもかなり狭いところをそこそこのスピードで進むから下手なジェットコースターより怖いかもしれない。…地元民にとっちゃ生活の一部だけど。私はこっちの方の高校に通っていたからまさに生活の一部、って感じだった。だから怖い、ってより懐かしい。
江ノ電、というと普通緑とクリーム色のあの電車を思い浮かべるだろうが、結構青い車両もある。観光客の中には「緑じゃない!!」と驚く人もいるみたいだけれど(もちろん鉄オタはその限りではない。地元民ですら知らない知識を持ってたりするからこっちが驚かされる。すごいよね)。今回はそっちの青い方の車両だった。
「そういえば俺江ノ電に乗るのも初かもしれない」
「マジで?!三人旅の時は車だったの?」
「いや、モノレールで行った」
あー、そしたら江ノ電乗らないか。っていうか、あんまりメジャーじゃない方選んだのね。
一般的に、『電車で江ノ島・鎌倉に行く』となった時に、想像するのは江ノ電だろう。けれど、地元民は結構「どっちで行こうかな」となる。江ノ電orモノレール。ちなみに、どこから乗るかによるだろうけれど、私の実家の方から行こうとするならモノレールの方が早い。そして値段が安い!…まぁスタートの場所によるけどね。
「…モノレールの方が怖くない?あっち上から吊るされる系のモノレールだしガッタンガッタン揺れるし…しかも結構傾斜あるじゃん」
「あっちの方がジェットコースター感ない?江ノ電の方が民家に突っ込んで行きそうで怖いよ」
「えー、私はあの揺れの方が怖いかな。前近所で止まって動かなくなったことあったから」
「うえっ、マジで?!そしたらあっちの方が怖いかもな…うおっ!」
小学生も揃ってうおっ!ってなってる(笑)兄弟か。
『次はー、鎌倉ー鎌倉〜』
鼻が詰まったような車内アナウンスが響く。なんで車掌さんの8割くらいは鼻声なんだろうね。イメージ?それかスピーカーが限界超えてんのかなぁ、なんて。
鎌倉駅に着くと、私の予想通り。外国人観光客でごった返していた。あとバスツアーと思われるおばちゃん一行。お土産を手に取っては「あら、これいいわね」なんて言ってる。私も将来あんなんになっちゃうのかな、と思うと少し寒気がする。老けたくはないなぁ。
さっき私がソフトクリームを食べていた間に青空が予約していてくれたみたいで、お店にはすんなり入れた。
しらす丼激推しな感じのお店。嫌いじゃないよ、こういうの。
メニューを見ていて今更ながら気づいたことがある。青空、おすすめに弱いよね?さっきもしらすソフトおすすめって書いてあったし、今も数あるランチの中からおすすめのしらす丼Aランチを選ぼうとしてる。ほんとにおすすめ好きだねー。
「決まった?」
「私生しらす丼で。青空はしらす丼Aセットでしょー」
「んなっ、なんで分かったんだよ?!もしかして、エスパー?」
「いやいやいや、気づいてるか分かんないけどさ。青空っておすすめに弱いでしょ。ずっとそこに視線向いてたよ」
他人から自分でさえ気づいていない癖を指摘されるのは恥ずかしかったのか、青空は顔を赤くして、ずっと「マジで?」と繰り返している。可愛いなぁ。
「何ニヤニヤしてんだよ」
「いーやー?可愛いなぁと思って」
「俺は可愛くなくていい!可愛いのは葉菜で十分なのに…」
「さらっと恥ずかしいこと言わないで」
こういうところが天然タラシなんだよなぁ、好きだけど。
結局私は食べ歩きで食べ過ぎたせいで丼ぶり一杯食べきることもできなかった。勿論怒られましたけど何か?反省はしてない!全部美味しかった!…次は気をつけますよ。
*****
「んー、そろそろ帰りますか、明日も仕事でしょ?」
鎌倉も結局色々見てまわったしね。明日からはいつもの日常に戻ってしまう。本当は帰りたくないけれど、社会人としてそうはいかない。帰って明日の準備して、明日は朝から普通に出社なのだ。学生の頃に戻りたい。とはいえ学生の頃も講義サボったりはしてないけれど。
「んー、まだ一緒にいたい!しかもまだ海入ってないじゃん…」
「え、まだ海入る気でいたの?!」
「そりゃあ、ね。足だけならいいでしょ。もっかい行こうよ」
「分かったよ…でも江ノ島はさっき行ったから七里ガ浜あたりでいい?」
そして本日三度目の江ノ電に乗って、私たちは七里ガ浜海岸に向かった。
*****
海岸についた頃にはちょうどオレンジ色の夕陽に海が照らされて綺麗だった。年中無休そうなサーファーもちらほらいる中、二人で靴を脱いで足だけ海に入った。
「ひっさびさの海だよ!本当に…何年前に行ったっきりだろ」
「…」
「どしたの?」
「いや、何でもない。ごめん、ぼーっとしてた(笑)」
時々勝手に脳内トリップしちゃう癖、良くないぞー。せっかく会えたのに一度こうなるとしばらくは戻ってこない。でもそんな彼の隣に黙って座ってるのも悪くはない。むしろ居心地はいい。
「ねぇ、」「なぁ、」
あ、かぶった。
「いいよ、そっちから」
「…いや、いいや」
「そうなの…?あのさ、近くに雑貨屋があって、そこでキャンドル作りが出来るんだけど、そこ寄ってから帰るんでもいい?」
「いいよ」
何故こんなことを知ってたかというと、その雑貨屋は叔母のお店だからである。叔母さんに「江ノ島・鎌倉方面で何かいいところない?」と聞いた時に、さっき行った商店街のお店とかをいくつか教えてもらった。その時最後に、「彼氏とデートなら最後に思い出になるキャンドル作りやって言ってよ。是非ともウチの店の売上に貢献して(笑)」と言われていたのをさっき思い出した。幸いここからの方が近い。
叔母さんのお店は海岸から数百メートル歩いたところにある、お洒落なお店だった。
「いらっしゃいませ…って葉菜ちゃんじゃない!こないだぶりね~」
「一応約束果たしにきたよ(笑)」
「そんな律儀に…冗談で言ったのに(笑)じゃあせっかくだから、キャンドル作りしていく?」
「うん」
叔母さんはあんな風に私にはからかってくるけど、青空の方に絡んだりはしない。ウチの母だったら従兄弟だろうが私の友達だろうが、彼氏・彼女がいたらすごくグイグイと絡んでくるだろう、すごく嫌だ。叔母さんはしない。そんなところも私が叔母さんと仲の良い所以だろう。
「どういうイメージで作りたいの?」
そうだなぁ…。
「さっきの海、とかは?」
「青空ナイス!!」
「さっきの、ってことはオレンジとかかな」
「でも昼間見た江ノ島の海も入れたいから青もね」
そして材料を持ってきた叔母さんに教えてもらいながらキャンドルを作っていく。叔母さんが言うには、不器用な私に反して青空は丁寧ですごく綺麗なものが完成した。完成品は家に帰ってから見ろってさ。
「…なんでおんなじの使ってるのにこんなに差が出るのかな」
「それは葉菜ちゃんには丁寧さが欠落してるからでしょう(笑)彼氏くんにあってよかったじゃない、支えてもらえて」
「感謝してくれてもいいよ?」
「…大人になってからこんなに不器用をいじられと思わなかった」
叔母さんは出来上がったキャンドルを可愛いラッピングをして袋に入れてくれた。本当にセンスあるよなー、不器用な私にはこんな可愛いの出来ないよ。
「叔母さん、これいくら?」
「お代はいい、いらない」
「えっ、でも…」
「葉菜ちゃんが幸せそうなの見れたからいいわ。いい男つかまえたね(笑)」
何度も渡そうとしたけれど結局断られてしまった。
*****
叔母さんに別れを告げ、私たちは帰路につく。夕陽ももう沈み、濃い青の空が広がっている。波風の音が心地良い。
「今日はありがとね」
「こちらこそ。本当はもっと…毎日でも会いたいけど」
「本当に…」
波の音が私の揺れる心に響く。お互いに忙しいオトナだから言えない。言えないけど、本当は帰りたくない。そのままさらって行って欲しい。でも明日も仕事。そんな甘ったれたこと言えない。だって青空の方が何倍も忙しいから。
「あのさ、さっき言いかけてて言えなかったことなんだけど」
「何…?」
…ここに来て別れよう、とかじゃないよね?それは嫌だよ?やめてね?今日一日の楽しかった出来事が夜空のように真っ黒に、真っ青に染められていく。どす黒い靄が心に広がっていくようで。
「もう少し俺の生活とか収入とか安定してきたら一緒に住みません?」
「へ?」
勝手に別れ話なんかを想像していた私は一気に力が抜けてその場に倒れ込んでしまいそうになる。なんとかギリギリのところで青空の腕を掴んで転ぶことは避けられた。
「だ、大丈夫…?!」
「よかったぁ、別れ話とかだったらどうしようって思ったから…」
「別れ話なんてこっちからするつもりは全く無いんだけど…俺が捨てられる可能性はあっても俺がふるは無いでしょ。というかこの際だから言うけど、もっと財力あったら一生葉菜の手離すつもりないからな」
「それはプロポーズと受け取っても…?」
言ってから気づいたのか、青空はしまった、という顔をしていた。もう遅いよ(笑)ちゃんと聞いたからね。こんな言葉を聞いたら普通の女子なら泣いて訳わからない、というような反応をするんだろうけど、私は別れ話じゃなかった安心感の方が上回っていたので比較的落ち着いていたと思う。
「いつか、葉菜が待っててくれるなら…ちゃんとするから。今のは覚悟!選手宣誓みたいなもん!」
「分かった、そういうことにしておく。いつまでも待ってる。…でもできるだけ早くしてね?私待てないの知ってるでしょう?」
「だから怖いんだよ…つなぎ止めるにはどうしたらいい?」
青空の場合は本当に鎖とかで繋ぎそうだから怖い(笑)それでもいいかな。
「じゃあさ、これ持っててよ。私が作ったやつ。歪だけどね。一緒に住む時に、一緒に並べて飾ろう。人質みたいなもんだよ」
「この場合は人質っていうのも変な感じするけど…(笑)分かった。そしたら葉菜は俺が作った方を持ってて。婚約指輪を買うお金はまだ無いから代わりに、ってことで」
「そんなん言われたら一生待ち続けるわ…」
「流石にジジイとババアになる前には迎えに行くよ…とりあえず30代を目標にします」
思わぬ約束に胸が踊った。これならまたしばらくは頑張れる。
「じゃあ、こんな話、こんなところでしちゃったけど…明日早いからさ、帰ろう」
「本当よ…それならあの海岸でしてほしかったわ(笑)駅に向かって歩きながらとか最低よ」
「ごめんって」
「その代わり、30代じゃなくて、30歳で迎えに来て。待ってるから。信じて頑張るから」
スルッと出た本心に自分でも驚く。多分、これがきっと私たちにとっての最適解。長くお互いのことを知っているからこそ、本心を語り合うことが減っていた。しかも私はどうしたって頑固だから素直に本音を伝えることが苦手。そんな私からスルッと出てきたんだから彼にも伝わっているはず。
「分かった、28くらいまでに同居出来るように頑張るね。とりあえずは昇進目指さなきゃだな(笑)」
「私も貯金しなきゃ!その為にも早く帰って明日の準備しなきゃじゃない?」
「そうだなー、帰ろう。数年後の為にね。今はまだ準備期間だと思えば頑張れる」
不思議と今まで以上に前を向ける言葉だった。青空はいつも私が求めている言葉をくれる気がする。今まで風に煽られて少し荒れかけていた海も、本来の落ち着きを取り戻して深い青に染まっている。
*****
今日は珍しく私の家まで送ってくれた。いつもは仕事帰りにお互いに帰りやすい駅で集合してご飯食べて帰るだけだからかなり珍しい。それはやっぱり少しの関係の変化からか。
「じゃあね。また今度。昇進は負けないからね」
「おっ、言ったな?次のデートまでに昇進してやる」
「じゃあ次は来月かなぁ?」
来月ならお互いまだ今のままじゃないかな。そしたらまた頑張れるじゃない?
「早すぎて昇進できないだろとか思ってるだろうけど、俺んとこ発表来週だからな?」
「ウソ?!」
「ほんとほんと。しかも俺優秀なんで?」
うわムカつく。こっちも頑張らないとね。あ、
「じゃあ私は家事頑張っておけばいいんじゃない?」
「それ昇進関係ねえだろ…」
「花嫁修業」
「うわ…なんで最後にそんな可愛いかなぁ。俺もっと頑張っちゃうじゃん(笑)あ、でも葉菜不器用だからな、怪我はしないように」
ちょっと、見くびりすぎじゃなくて?!やるときはやるんだからね。見てろよー!
「じゃあ、ね」
「おう。待っててくれよ?」
「30までだからね(笑)」
「任せろ!じゃあな」
そう言って手を振りながら帰っていく、細く骨ばっているけれど、どこか頼りがいのある背中が見えなくなるまで見送ってから私は家に帰った。
*****
結局、次のデートの時には青空は昇進していた。でも私だってお弁当作れるくらいには成長したんだから(叔母さんとこで修業したけど)!春のお花見だったね。でも私はせっかく持っていったお弁当をかなり台無しにした。何故って?桜の花びらで滑って転びかけたから中身グチャグチャになっちゃったの。今でも忘れない。ホント、大変だったしすごく悲しかったのに青空はずっと笑うんだもん…覚えてろ…。
そして、あのキャンドルは二つとも今手元にある。彼のお迎えが来ることはなかったけど。先に天からのお迎えが来ちゃったもんね、悲しいことに。なんでお花見したすぐあとに病気が見つかったの?なんで青空だったの?今でも許せないよ。でもこれはきっと私に対する試練だったんだと思う。青空の手を煩わせずに、一人で娘を育てろ、っていう。そんな試練もあと少し。高校を卒業したら
ところで、娘の名前を『春』にしたのはあの桜だけが理由じゃない。
そうそう、あのキャンドル一つ不思議だったの。私の作ったのはオレンジと青のだったけれど、青空が作ったのは限りなく黒に近い青、濃紺だった。透き通るような青さに目が離せなくなるの。
―なんで、濃い青だけにしたの?もうすでにあの時には『約束』をするって決めてたの…?あの日は私の…、誕生日だったから?
ふふっ、こんな質問野暮でしょう?きっと答えてくれないだろうし、質問の意図が貴方にはわからないんじゃないかしら?だから答えは求めてないよ。
それに、あの後から塗り始めた私のネイルの色も理由、知ろうとしてないでしょう。
最後の手紙にあったよね、ネイルの色好きだって。
あの色は、貴方の作ったキャンドルで、あの日約束をした海の色。忘れずに頑張るための、
選手宣誓。
貴方のことを信じて待ち続けます。
春のことをずっと応援します。
あの日約束した海のことは忘れません。
―誓いますか?
―誓うに決まってんでしょうが!!!!
私の心の叫びに驚くかのように、すっかり氷の溶けてしまった梅ジュースがコップの中で小さく波を立てる。まるであの日の帰りに見た海の漣のように。
さ、春が帰ってきたら一緒に海に行ってみようかな。そろそろあの子が気にしていたネイルの色の
─まだあの海は、青いですか?
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