カウント 8

 わたしは一体何について怒っていたのか分からなかった。


 初めてできたともだちの命がないがしろにされて怒っていた――なんてほどわたしはいい人間じゃない。


 きっと、自分が同じような目に合うのが怖くて、そんな世界が許せなくて、その世界を作り出している元凶さえ無くしてしまえば怖いものがなくなるとそう信じていただけで。


 でも――


 やっぱりわたしにも守りたいものがあったみたいだった。




「……なんなの……これは……」


 背筋が凍る、なんて程ではありませんでした。身の毛がよだつ、というよりも、体中に恐怖が駆け巡って、体が少しも言うことをきかなくなって、自分のものではなくなるような――


(いけない!)


 私は我に返りました。思わず幽体離脱しそうなほどの恐怖というか、絶望のようなものをそれから感じました。


「コトちゃん。あれは――」


「そう――ね。とうとう、現れてしまったみたいね」


 赤黒いシルエットが空に空いた穴から姿を現しました。


 それは人の形をしていましたが、存在そのものがあやふやで、シルエットが動いているようなそんな印象を受けます。


「『まだ見ぬ絶望ロスト』」


 まだ見ぬ絶望ロストは魔法天使の後方に降り立とうとしています。


「魔法天使!うしろうしろ!」


「分かっている!」


「本当にボケキャラになり果てちゃいましたね」


 こんな状況でもボケられるセラちゃんに私は呆れてしまいます。


「あれが世界を滅ぼす存在か。思ったよりもしょぼいものだ」


 振り向いてまだ見ぬ絶望ロストを睨んだ幹が言います。


 幹の顔は凍り付いていました。言葉ほど殊勝な状況ではなさそうです。


 そして――全ては一瞬でした。


 瞬間移動というよりもまるで空間をそこだけ切り取ってしまったかのようにまだ見ぬ絶望ロストは幹の目の前に現れました。何の挙動も見せずにまだ見ぬ絶望ロストが現れたので幹は目を大きく見開いたまま動くことができませんでした。


 まだ見ぬ絶望ロストは何気ない様子で右腕を引くとそのままぐっと穴に手を入れるかのように腕を差し込みます。


 ぐちゃり。


 ぷしゅう。


 冗談のように湿った音が響き渡りました。辺りはまだワームとの戦闘が続いていて騒がしいというのに、不気味な音だけはやけにはっきり耳に聞こえてきます。


 そう――それは生命の散るときの音――


「大丈夫ザウルスか?」


 幹をかばい、まだ見ぬ絶望ロストの腕に体を貫かれた雷が首を後ろに傾け、幹に尋ねていました。


「一体――どうして――」


 幹の開いた口から呼吸をするように自然と言葉が漏れていました。


「どうしてパフか!どうしてパフィーを助けるパフ!ライはパフィーを貶めようとしていたんじゃないパフか!なのに、なんで!なんで!パフィーをかばって――!」


「そんなの――当たり前ザウルス。ライはパフィーの――」


 ぐちゃぐちゃぐちゃ。


 ぷしゃぁ。


 まだ見ぬ絶望ロストは雷から腕を引き抜きました。


 肉の抉られる音と、血液が体から噴き出す音が聞こえます。


『心臓ですか』


 まだ見ぬ絶望ロストの手の中には一つの心臓が載せられていました。恐らく、いえ、確実にその心臓は雷のものです。


「というか、しゃべった……」


「どうかしたの?フキちゃん」


 凍り付いた表情で、ピクリともまだ見ぬ絶望ロストから目を離さずにコトちゃんは尋ねました。


「いえ。さっきまだ見ぬ絶望ロストがしゃべったような――」


「……」


 少しの間の沈黙の後、コトちゃんは言いました。


「私たちには聞こえなかったわ」


「!?」


 まだ見ぬ絶望ロストの肩が一瞬で切れました。


 でも、その傷口は人間が切られてけがをしたというものよりも紙をハサミで切ったような感じでした。


 血の一滴も滴り落ちてはいません。


『ふーん。なかなかに面白いことをしているようですね』


 まだ見ぬ絶望ロストは目下の一人の少女に目を向けます。


 そこには一対の剣を持った少女が一人立っていました。


「わたくしは未だ答えが出せませんわ」


 ホームラン宣言をするように魔法少女リナはまだ見ぬ絶望ロストに左の剣の先を向けます。


「でも――」


 リナさんはまだ見ぬ絶望ロストと戦うつもりであるのだと感じました。きっと、まだ見ぬ絶望ロストの肩を切ったのも彼女です。でも――


「リナさん!ダメです!」


 どうしても私はリナさんが勝てるような気がしなかったのです。


 リナさんの周りに陽炎のようなものが現れます。そして、肩のパーツが少し開きます。


 セラちゃんの時と同じ、戦鬼を発動するのでしょう。


 そして、世界は凍りつきました。


 時間が止まり、この世界で動けるのはリナさんと私と、そしてもう一人――


「理屈なんてもう、どうでもいいのですわ!自分がどう思っていたとかなんて、そんなちっぽけなこと!」


 リナさんは真っ直ぐにまだ見ぬ絶望ロストへ剣を突き立てます。そして――


 まだ見ぬ絶望ロストは手で剣の刃を握りしめました。


「どうして動けますの!時は止まっているはずなのに!」


『どうやら、根本的な間違いをしているようですね』


 まだ見ぬ絶望ロストには表情がありません。なのに、私にはまだ見ぬ絶望ロストが笑ったように見えました。


『この能力はその他の全てを凍り付かせるわけではありませんよ。むしろその逆で、あなたの周囲に結界を張り、その世界とこの世界を断絶しているだけなのです。つまりは――あなたが高速で動いているだけであって、こちらも同じ原理で光の速さで動けばいいという、それだけ』


 まだ見ぬ絶望ロストはさっと体を動かしました。


 突如として遠くから轟音が響きます。音が聞こえるということは時間が元に戻ったということでしょう。


 そして、気がついたときにはもう、まだ見ぬ絶望ロストの目の前にはリナさんはいませんでした。


『蹴り飛ばした時に首にクリティカルヒットしましたからねぇ。生きているかどうか』


 まだ見ぬ絶望ロストは手のひらに載ったままだった雷の心臓を口がありそうな辺りに持って行きます。


 雷の心臓は主の体から離れてもなお、まだ不気味に艶めかしく動いていました。


 まだ見ぬ絶望ロストは口を開けます。


 口なんてなかったシルエットから突如、円形の穴が開きます。あの穴の周りには牙のようなものがびっしりと生えていました。


 じゅちゅ。ぐちゅぐちゅ。


 まるでみずみずしい果物を味わうかのようにまだ見ぬ絶望ロストは雷の心臓を食らいました。


『やっぱり、模造品は質が悪いです。はっきり言ってマズいですよ、これ。やっぱり養殖よりも天然ものですよね。あぁ、さっきの子を蹴り飛ばしたのは間違いでしたね。首を蹴り飛ばしたんだから、首の骨が折れているでしょうし、下手をすれば体と頭が離れてどこかに転がっているかもしれません』


 私はただただ純粋に恐怖を感じました。


 人を殺すことを何にも思わないなどと思っている人はその実、凄く気にしていたりするというのが現実です。


 けれども、目の前の怪物はそういうものではありませんでした。




 人間を自分と同列であるとさえ思っていない。




 まるで食事だと考えている。




『ところであなた』


 目のない顔と私との視線がぶつかります。


『私の声が聞こえていますね。そのくせ、何もしていない。時間を止めることだってできる。それほどまでのはざーどれべるを有しているにも関わらず、あなたは何もしなかった』


 まだ見ぬ絶望ロストは吐き捨てるように言いました。


『気に入らない』

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