第26話 失恋

「道に出るところにあるブロック塀の上に、ないちゃーの男の子がずっと座ってるのよ、30分ほど前から」

「あー……わかった、ちょっと待ってて。また折り返し電話するから」


 さゆりの姉の多恵は、母である初枝からの電話で、それが誰なのか、大体の予想はついていた。さゆりに届いた梅次からの手紙に、8月末頃に沖縄へ家族旅行へ行くと書いてあったからだ。ないちゃーか、うちなーんちゅかは、見ればだいたい分かる。

 多恵はしばらく思案し、おもむろに受話器をとった。


 沖縄二日目の朝も、梅次はふたたび、さゆりの家へやって来た。

 昨日は、家を訪ねて秀峰に帰るように言われたので、今日はさゆりの家が見えるところで、さゆり本人が外出する機会を窺おうと考えた。

 さゆりの家から大通りに出る道の角のところに、建築途中の家のブロック塀があった。さゆりの家から20mほど離れていて見渡しやすかったので、そこに座って、さゆりが出てくるかどうか分からないが、その瞬間を待つことにした。

 さゆりの家の上に広がる沖縄の空は、相変わらず蒼く美しかった。

 さゆりがいるのかどうかすら分からない。無意味に長時間待つかもしれない。もしそうであっても、それは梅次には苦痛ではなかった。さゆりと対面する場面しか思い描いていなかった。

 もう一時間近く経ったであろうか、少し空腹感をおぼえ始めたその時、さゆりの家の玄関扉が開いた。その瞬間がきたのかと、梅次は色めき立った。

 ゆっくりと開いた扉から見えた姿は、さゆりの母の初枝であった。梅次は初見であったが、初枝の顔も、テレビ出演の時に見ていたので、すぐにわかった。

 初枝は、まっすぐに梅次の方を見ていた。そして、梅次に向かって手招きをしているように見えた。梅次は、一瞬、それが自分に対して行われているのか理解するのに時間を要したが、周囲には誰もいない。間違いなく、自分に対してだと判断し、ブロック塀から飛び降りて、初枝の方へ小走りで駆け寄った。その間、これはもしかして、さゆりと会うことが許されるのか、などとポジティブなことしか頭に浮かんでおらず、昨日のように、迷惑だから帰ってくれ、と言われるなんて想定もしていないところが、梅次をここまで辿り着かせた要因であったのかもしれない。

 開かれた扉の前までやって来た梅次に、初枝は「これ」と言い、電話の受話器を差し出した。梅次は意味がわからなかった。しかし、受話器を渡されたということは、誰かと電話で話せということだろうと思い、受話口を耳にあて、送話口に「もしもし」と言葉を発した。


「あんた、なにしてるの! みなさんに、ご迷惑おかけしてるやないの、早く戻って来なさい」


 怒れるも悲しげな、母、英子の声であった。

 梅次は、なにが起こっているのか分からず、頭の中でパニックになった。血圧が下がり、顔が青白くなるのを感じた。

 受話器から聞こえる声の主は、間違いなく母の英子であり、自分は怒られ、諭されているということが現実として起こっている。なぜ、英子がさゆりの家に電話をかけてきてるのだ? 初枝から英子に電話したのか? でも、我々家族が、どこに宿泊しているかなんて知らせてないはずなのに──そんな疑問が、発売されたばかりの初代Macintosh並みの計算速度で、梅次の頭の中で処理されてゆく。しかし、計算結果が出ることなく、梅次は自動的に、送話口に向かって力なく答えていた。


「うん、わかった……」


 警察によって田舎から呼び寄せられた母親に説得される、銀行強盗のような心境だった。

 梅次は電話をきり、初枝に受話器を返した。


「すいません……でした」


 そう言って、恥ずかしさでその場から立ち去ろうとした梅次に、初枝は優しく言った。


「どうぞ、家にあがって。もうすぐ多恵もくるから」


 初枝に促されるまま、梅次はさゆりの家にあげてもらった。

 程なくして、多恵夫婦もやってきた。

 

「すいません……ご迷惑、おかけしました」

「お母さんから、家の前に男の子が座ってるって聞いて、あぁ、それ真山くんだなって思って、宿泊してるホテルを探したの」


 多恵は、目ぼしいホテルに一軒ずつ電話をかけて、宿泊先が万座ホテルであることを突き止め、梅次の母親に電話口に出てもらうようにお願いしたのだ。

 多恵と話しているうち、梅次は少し冷静さを取り戻して、気になっていたことを聞いた。


「さゆりさん、体調いかがですか」

「体の具合はいいんだけどね。部屋の中から出てこなくて、ずっと髪を弄ってて、なんか気持ちわるいのー」


 多恵はそう言って、部屋の奥の扉の方に目線を送った。


「あの扉の向こうに……さゆりちゃん、いるんですか」

「うん、いるよ」


 本当にいるのかと疑ってしまうほど、多恵はあっさりと答えた。

 その扉1枚の向こうに、さゆりちゃんがいる。

 もう、起きているのだろうか。パジャマ姿でいるのだろうか。どんな姿で寝ているのだろうか。着替えて普段着でいるのだろうか。自分がここにいることを知っているのだろうか。この会話は、彼女に聞こえてるのだろうか。聞こえているとしたら、どういう思いで聞いているのだろうか。僕が突然立ち上がり、その扉を開いて、さゆりちゃんに会おうとしたらどうなるだろうか────いや、そういうことをしないと信用されているからこそ、家にあげてくださったのだ。その信用を裏切るようなことはできないし、自分の家族に対しても申し訳ない。梅次はそう思った。

 さゆりの部屋の扉を見つめながら、梅次の頭に浮かぶ、数多の想い。しかし、自分のさゆりに対しての想いだけは伝えておこうと、梅次は思い切って、初枝と多恵に対して、そして、部屋にいるであろう、さゆりに対して、口を開いた。


「僕、さゆりさんと結婚したいと思っているんです。さゆりさんに好きになってもらえるかどうかは、これから頑張るとして。でも、ご家族に結婚を許してもらえるには、それなりに生活力が必要だと思ってますので、僕は、父の後を継いで、歯科医師になろうと思っています。だから、来年、大学の歯学部を受験します」


 初枝は、梅次の言葉を、穏やかな笑顔で聞いていてくれた。そして、やおら右手のひらを直角に曲げて頭の上に、左手を水平にお腹のあたりにあて、梅次の顔を見ながら、柔らかな口調で言った。


「さゆりのことを想ってくれて、ありがとう。でもね、あなた方がこの辺りだとしたら、私たちは、このあたりなのよ」


 社会的な地位のことを言ってるのだと、梅次は悟った。それは17歳になったばかりの多感で真っ直ぐな梅次は、納得がいかなかった。

 え? 世の中は平等じゃないの? 身分に差なんてあっていいの?

 しかし、梅次は若かった。あまりにも世間知らずのお坊ちゃんだった。自分の親に言われたのなら、食ってかかることもできるが、さゆりの家族の方から言われると、返す言葉が見つからなかった。反論したところで、なに不自由もなく、好き勝手言って育ってきた17歳の言葉は、虚しく空回るだけだ。しかも、まだ何も成し遂げていない男の言葉に、なんの説得力があろうか。


〝そのうち、わかるわよ〟────それで終わる。


 梅次、さゆりへの恋に破れた瞬間だった。

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