第36話 信仰は『愛』だと教えられたのに
――――ウェイトリー一家はかつて巨万の富を手にする裕福な家庭であった。
長男であるアルバート・ウェイトリーは父の会社を引き継ぎ、経営は大成功、瞬く間に億万長者となっていった。
多額の金と名誉を手にした彼は徐々に目が眩んでいき、やがて酒と女、そして賭博とあらゆる俗物に手を染めるようになっていく。
毎晩記憶を失うまでに飲み明かし、代わる代わる出会った女たちを抱き、形勢逆転を信じてありったけの金を博打につぎ込んでいく。如何に大成功した社長であろうとこのような、堕落し腐った生活を続けていればどん底へと落ちていくのは誰の目にも明らかだった。
当然の結末とでも言うべきか、グラスに注がれていた高級酒は全て安いビール瓶に変わり、腕にあった女の温もりは冷たく吹き荒れる風へと変わり、尽きるはずなどあり得なかった大金は全て多額の借金へと変わった。
会社は当然ながら倒産し、慕っていた部下全員から見捨てられ、美味しい食事と安らぎを与えるベッドがあったはずの家すらも失ってしまい、彼は絶望に暮れて、長い後悔と悲しみの末に心を入れ替えた。
それから彼は自らの過ちを認め省みり人生をやり直すべく、教会にも通うようになる。そこで、一人のシスターに出会った。
名を、パトリシア・マクベイン。亜麻色の髪に澄んだ青い瞳を持つ美しい女性であった。
ひょんなことから二人は接していくようになり、やがてアルバートは彼女に自らの過ちを懺悔する。それを聞いたパトリシアは怒ることなく、共にやり直していこうと彼を赦したのであった。
それから二人は惹かれ合い、永遠の愛を誓い合い、そして一人の娘を身篭った。
彼女にも神の祝福のあらんことを。そう願い、パトリシアは大きく膨らんだお腹の中で眠る赤子に名前を授ける。
セシリア・ウェイトリー、と。
※※※※
セシリアは母と同じく慈悲深く信仰心の高い少女として育っていった。
毎日教会に通い、熱心に聖書を読み上げ、神に祈りを捧げる。従順で思いやりのある彼女は周囲から好かれるようになっていった。
彼女がここまで信仰深くなったのは母の言葉によるものである。
「この世界にはつらいこと、苦しいことがいっぱいある。でもね、神様は全部見てくれるんだよ。だから神様を信じなさい。祈りなさい。そうすれば、いつか必ず神様が助けてくれる。神様を信じることが、私たちの『愛』なのよ」
パトリシアの言葉はまだ幼いセシリアにとって難しいことばかりであったが、目を輝かせて聞いていた。
絵本と聖書でよく聞かされた『愛』という言葉。子供である彼女はもちろん抱いたことのない感情だが、その素敵な響きを持つ感情に強い憧れを持っていた。神を信じ続ければ愛に目覚め、自らも救われるようになる。なんて素晴らしいことなのだろう。
セシリアの顔は希望で満ち溢れていた。母の言う通り、信じていれば必ず愛と救いが訪れる。きっと、この境遇も変わるはずなのだ、と。
そう信じて疑わず、セシリアは教会の誰よりも信仰深くなっていった。
アルバートが結婚し、家庭を築いたところで付けられた傷跡はそう簡単に消えない。
生活は貧しく、借金は未だ多く抱えたまま、そして落ちぶれ者の烙印は押されたままであった。
当然ながら被害は家族にも及んでいく。
セシリアが一日の中で最も苦痛を強いられた時間。
それは、学校に通っている時だった。
クラスメイトからは容赦ない罵声を浴びせられ、私物を奪われ汚され壊され、時には暴力を受けることもあった。彼女がいじめを受けていることを知りながら教師たちは無視をするどころか、当然の報いだと言っているかのように冷たい目つきを向けるだけ。
両親が各方面に助けを求めても聞き入ってもらえず、それどころか共に虐げられる。
いつまで経っても返済されないことに怒り狂った借金取りが家に押しかけてきたことは一生忘れないだろう。
父は殴り殺され、母も強姦された末に殺された。セシリアは、彼らに殴られながらその光景を見ることしかできなかった。何度も泣いた。叫んだ。痛かった。苦しかった。怖かった。つらかった。
それから、事が終わって全身に痣と傷を負いぼろ雑巾のように捨てられたセシリアはふらふらと教会へと向かい、匿われた。
この出来事からセシリアはさらに宗教にのめり込むようになっていた。食事をしていようが、学校で授業を受けていようがひたすら祈り続けた。それしかできなかった。それしか知らなかった。祈れば必ず救われる。信仰は神様への『愛』なのだと、そう信じて。
学校のクラスメイトはそんな彼女に嫌悪を抱きますますいじめは苛烈していった。教会の信徒たちも彼女を疎むようになっていた。あのアルバートの娘がおかしなことになっていると、噂を聞きつけ彼女をいたぶり面白がる人たちも出てきた。
傷つかれるたびに心が悲鳴を上げていた。神へ祈るたびに疑問を抱くようになっていた。笑われるたびに死にたくなった。生きているのが惨めで恥ずかしくなった。
それでも、彼女は祈り続けた。必ず救われる。奇跡は起こる。もう彼女にはそれしか残されていなかったのだ。
そんな日が続き、彼女が15歳になったときのこと。
彼女の通っていた教会が燃やされ、跡形もなく失った。
放火魔は彼女のクラスメイト。
動機は、ただの嫌がらせだった。
ぱきり、と。
こころがおれるおとがした。
「もういやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
がくり、と膝を付き顔を手で覆ってセシリアが泣き叫ぶ。
救いなんてなかった。信仰は愛ではなく、ただの現実逃避に過ぎなかった。奇跡なんてない。善意ある人間は悪意ある人間にいたぶられるだけ。
地震が信じていたもの全てに裏切られ、がらりと世界が崩れるようなそんなどうしようもない絶望に見舞われる。
「どうして!? どうしてどうしてどうして!? どうして私ばかりなの!? 私が何をしたっていうの!! ねえ私何か悪いことした!? 痛いのも苦しいのも怖いのもつらいのも全部我慢したじゃない!! 神様だってずっと信じていたじゃない!! 何でこんな目に遭わなくちゃいけないのっ!! どうして、どうしてっ、どうして誰も私を助けてくれないのよお!!!!」
理不尽。
ただ一人落ちぶれた人間のもとで生まれたというだけで、この仕打ち。納得なんてできるはずがない。こんなの認められるわけがない。
だからと言って、セシリアには両親を憎むこともできなかった。確かに父は過去に大きな過ちを犯した。それでも猛省して少しでも償おうと努力していたし、家族に愛情を注いでいたのは確かだった。彼を咎めなかった母も、信仰によって救われるという考えは間違いではなかったはずだ。
どうしてこうなったのだろう。どうして神様は私を助けてくれなかったのだろう。
絶望の中でセシリアは考えて、はたとその『声』が頭の中で響いてきた。
「…………くひっ」
ああ、そうか。
今まで信仰していた『神』は偽物だったのだ。
人の手で作り上げた偽りの神に奇跡を起こす力など当然存在しない。今まで夢中になって信じていた自分はなんて愚かで滑稽だったのだろう。
「くひっ、くひひひひひひひ!!」
おかしい、おかしくって笑いが止まらない。
今の私には『神』がいる。『神』の声を聞くことができる。ああ、なんて素晴らしいことなのだろう!
ならば今すぐ伝えなければ。今すぐ本物の『神』の声を聞かせねば。『神』による救いの手を迷いの子羊たちに差し伸べるのだ。
それでもなお、偽りの神を信じ聞く耳を持たぬ異教徒たちがいるのなら天罰を下してやろう。
「くひっ、そうです。まずは学校にいた生徒たちに『神』のお声を聞かせてもらいましょうか。くひっ、彼らだって人間です。私がしっかりとお教えすれば信じてくれるでしょう。くひっ、くひひひひひひ!」
これから起こる素晴らしい未来にセシリアは思いを馳せ、立ち上がって。
「やっほー✩ 随分と機嫌が良いみたいね」
と、目と鼻の先に燃えるような赤髪に血のように赤黒い瞳を持つ少女が立っていた。
※※※※
セシリアの左胸をひと思いに貫く。
手応えはあった。彼女の肉体から魂が抜け落ちるような、そんな命を奪う感触が確かにあった。
彼女に勝った。殺せたのだ。ぞくぞくと背筋が震え、思わず頬がつり上がって。
「くひ」
と、セシリアが口を開いて笑った。
「!?」
「くひぃ……そう、です。『神』、咲良様のぉ……声を届けなければ…………」
「なっ、まだ動け――――!?」
がしり、と肩を両腕で掴まれる。
しまった、と思ったときにはもう遅い。動揺している隙に身動きを取れなくなってしまい、刀を取ることができない。
殺さなければ、と焦燥感に囚われたままセシリアの瞳と目が合う。
「……たすけて」
泣いていた。
それまでの狂った笑顔はどこにもなく、ただのどこにでもいる少女が浮かべるようなか弱い表情だった。
「もう、痛いのも苦しいのもやだ。疲れた。信じるのは、もう疲れたの」
「…………」
「だから、お願い。たすけて」
懇願。
肩を揺さぶり、彼女は決死の表情でわたしに訴えかける。
もしかしたら。もしかしたら彼女はわたしのように望まない衝動に飲まれて狂っていたのかもしれない。
いくつもの傷を心に負って、それに耐え切れなくなって彼女の中の大事な何かが壊れてしまったのかもしれない。
そんな、痛いほどに気持ちが良く分かるセシリアをじっと見つめて。
わたしは彼女の訴えに答える。
「うん、分かった」
「…………! ありが
「さようなら」
ぱぁん、と乾いた銃声が響く。
背後でジリアンがわたしの頭ごと撃ち抜き、セシリアの額を貫く。
信じていた最後の砦が崩されたかのような表情。きっと、彼女の人生は裏切られてばかりだったのだろう。
だがそこまで推測した所でわたしは特に何の感慨も浮かぶことはなかった。リコ以外の人間の死に様なんてどうでもいい。
わたし自身の手でとどめを刺せなかったことは不満だが、いい加減彼女のしつこさにうんざりしていた所なので清々した気分だ。
目を見開き、放心したような顔でセシリアの口が開く。
「どうし、――――」
それが、最後だった。
どさり、とセシリアの体が倒れる。
体はもう動くことはなかった。
あっけなく、セシリア・ウェイトリーはこの日ようやく死んだ。
――――結局、最期までセシリアは誰かを信じていた。
彼女には、それしかできなかったのだ。
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