トラ

ギア

トラ

 私はその虎をただ「トラ」と呼んでいた。


 最初は母さんが買ってきてくれたぬいぐるみだと思っていた。トラの様子を伝えるたびに母も「可愛いね」「良かったね」と微笑んでくれていた。

 それが私にしか見えないのだとようやく信じる気になったのは、トラの話をするたびに母がひどく嫌がるようになったからだ。特に人前でトラの話をすると、家に戻ってから手ひどい折檻を受けた。

 私はそれでもトラを忌避することはできなかった。部屋で1人、声を殺して泣いている私の横で、トラは鼻を鳴らしながらアザになった腕をなめてくれていた。

 私は母のためにもトラのことを口に出さなくなり、初めは態度を変えた私に懐疑的だった母も徐々に穏やかな本来の様子に戻っていった。近所からの通報で自宅に訪れた児童相談所の職員も、娘への暴力行為を素直に認めつつそれを反省している母とすっかり傷の癒えた私を見たことで、一時保護には至らずに安全確認の段階で調査は打ち切られた。


 トラは私の成長に合わせてすくすくと育っていった。私が小学校に上がる頃には大きな猫程度に、私が中学生になる頃には大型犬程度に、高校生になる頃には大人がまたがれるほどの大きさになっていた。

 その大きさになっても他の人の目には映っていない様子だった。

 トラは猫科特有のしなやかな身のこなしで器用に人との接触を避けていた。その頃には私もトラが自分の想像の産物であること、そして現実との一貫性を保つために無意識にトラをそう動かしているのだろうと素直に受け入れていた。

 エレベーターやエスカレーターは、空いているときは一緒に足元に寄り添ってくれたが、混んでいるときは私1人を先に行かせるといつの間にか次の階でのんびりと寝そべっていた。電車に乗るときは、混んでくるとするりと網棚へ、そこも荷物が増えてくると私をちらりと見て許可を求めると私が少し開けた窓から屋根の上へと抜け出した。バスに乗るときはよほど空いているときを除いては道路をのびやかに並走していた。道路が渋滞しているときは乗用車の屋根の上を飛び回り、停車中に丸く寝そべっている姿は、家でも学校でも孤独だった私にとって数少ない心安らぐ風景だった。

 それでもたまにトラが床にこぼれた食べ物や飲み物を大きな舌でなめとっているのを眺めるときは、これは他の人からはどう見えているのだろうと不思議ではあった。おそらくは私が無意識に自分で拾い集めたり、拭き取ったりしていたのだろう。妄想の中で自身の行動すら把握しきれずにいる恐怖よりも、現実と日常を視界の外に追いやることの出来るトラの美しさが勝った。


 内容についていけずに息苦しい思いをしていた授業時間も、階下から父と母が言い争う声が聞こえてくる時間も、足元に寝そべるトラを見ると耐えることが出来た。人の頭が入りそうなほどの大きい口であくびしたり、グローブのように大きな手で顔を洗ったりしているトラを見ているあいだは、他のことを目にも耳にも入れずにいられた。

 それでも、まだトラも私も小さかった頃は乗り切れないことも多かった。もう私が寝ているものと信じていた父が布団の中の私の肌に指を這わせている時間は、心の中でトラを呼ぶことしか出来かった。父にばれないように薄目を開けて見た床では、トラがなすすべもなく悲しそうな目で右往左往しているのが見えた。トラにつらい思いをさせている。それが悲しかった。


 中学の頃、母が父の行いに気づき始めた。それが原因で両親の仲が険悪なものとなっていったのがとてもつらかった。高校に入る前に両親が離婚したときは、自分のことよりも両親がこれでもう夜中まで言い争うこともなくなるのが嬉しかった。

 私は母に引き取られた。父の希望の元で行われた面会交流のときは、家庭裁判所の調査官の方が付き添ってくれたが、それよりも横で大きくなったトラがいてくれたことが心強かった。トラの尻尾を緩く握っているあいだは、目の前の風景も会話も、何一つ私の心に跡を残すことはなかった。

 その私の落ち着いた様子から、受け入れられていると感じたのか、父からの接触が増え始めた。帰り道、電車の中でトラの背中をなでながら、またこれで誰かがつらい思いをするのではないか、と恐れた。その私の不安定な思いに呼応したのか、トラがいなくなった。私は体調を崩し、しばらく寝込んだ。看病してくれる母の前で、私はうわごとでもトラの名を呼ばぬよう、歯を食いしばるようにして耐えた。

 しばらくしてトラは何事もなかったかのように私の傍に戻ってきた。そして不思議なことにそれ以降ぷっつりと父からの連絡も途絶えた。今も私は父がどこで何をしているのか全く知らないままだ。


 大学を卒業し、都内のあるメーカーに就職した。

 総務部に配属された私は、教育係となった親切な先輩の元で業務を学んだ。結婚されて子供もいるという先輩のご家族の話を聞くのは楽しかった。自席の足元でまどろむトラも、尻尾をゆっくりと振りながら一緒に話を聞いていた。

 職場の女性の先輩から、何度か物陰に呼ばれることがあった。教育係の先輩について、何か忠告じみた言葉を聞かされたが、あまり覚えていない。楽しい話ではなかった気がする。体を擦りつけて来るトラの背中を撫でながら聞いていた私の耳に、それらはほとんど残らなかったからだ。

 教育係の先輩からは、周囲の目は気にしないほうがいいと言われた。

 よく意味が分からなかった。座って仕事しているときは、パソコンの画面か足元で揺れるトラの尻尾ばかりを見ていた。先輩の言葉を聞いたときに、顔を上げて周囲を見回してみた。とっさに目をそらす人が何人かいた。好ましくないものを見る目をしている人もいた。

 だから私はまたパソコンの画面とトラの尻尾を見る毎日戻った。それで何も困ることはなかったし、トラの毛並みは変わらずに美しかった。


 任せられる仕事も増えてきて、そんなある夜、残業のために職場で先輩と2人きりになった。そのときの私は知らなかったが、私が席を外しているあいだに他の同僚へ先に帰って良いと伝えていたそうだ。

 頼まれた仕事がようやく終えることが出来たときは、すでに外も真っ暗だった。最後のチェックをしてもらうため、書類を先輩の自席へと持っていくと、帰る準備を始めているように言われた。私はいつものように私物のマグカップを持って給湯室へ向かった。それを洗うことが帰る前の日課だったからだ。

 マグカップを洗い始めたかどうかも分からないほどすぐに、私に続いて先輩が入ってきた。何か、もうミスが見つかったのだろうか。少し不安な気持ちで相手を見やった私に、先輩は口元に笑みを浮かべつつ近寄ってきた。目は緊張と興奮に満ちていた。私はその目に見覚えがあった。

 そういえば職場のフロアには情報漏出や窃盗の対策のためにセキュリティカメラが設置されているが、この給湯室にはそれがない。そんなことを思い出したときには両手首をつかまれ、全身を押し付けるように壁に追い詰められた。

 呼吸が浅く、早くなるのを必死に抑える。抵抗の意志と思われるような声も行動もとれなかった。階下にいる母に気づかれたくない。私のせいでまた両親が争う姿を見たくない。どこにいるのか、今がいつなのか、誰といるのか。分からないままに、緊張と恐怖が全身を硬く引きつらせる。


 あのときと全く同じように荒い息を発しながら私の肌に手を這わせる男、その肩越しに見えたのは。

 しかし。

 あのときよりも大きく美しく、そして遥かに雄々しく育った肢体だった。

 ああ、そうか。

 つらい思いをさせてきてごめんね。

 でも、もう、お願いしてもいいんだね。

 お願い。


 助けて。


 --- --- --- --- --- --- 


「綺麗な人でしたね、先輩」

「何を見てんだよ、お前は……容疑者だぞ、まだ」

「でもあり得なくないっすか? 監視カメラの映像、どうみてもあのおっさんが自分で窓から飛び降りてますよ?」

「だがなんで給湯室から飛び出してきた? あの女に怯えてか? それに背中の裂傷はどう説明する?」

「あれは窓から落ちたとき、枝に引っかかったって話じゃなかったでしたっけ」

「血痕は見つかってない。それに給湯室が出て来たときにすでに傷ついていた可能性はまだある。角度が悪くて映像に残ってないのが面倒だがな」

「いやいや、給湯室にあった刃物って100均のハサミだけですよね? あの傷を刃物なしでつけるの無理でしょ。熊でもなきゃ……」

「虎だ」

「はい?」

「虎だそうだ。爪跡と見なすなら、という前提だがな。専門家の見立てによれば虎の爪跡に酷似しているそうだ」

「ほら、やっぱりあの人なわけないじゃないっすか」

「……でだ。これをどう思う」

「なんすか、この紙?」

「あの女の父親の死亡診断書だ」

「……ちょっと待ってくださいよ……なんなんすか、これ」

「離婚した父親らしい。母親は知っているが、娘には伝えなかったらしい。見ての通り死因は……」

「えーと、人気のない路地裏で倒れているところを発見されたとき、背中には死因と思われる大きな裂傷があり、専門家の見立てによると……え?」

「虎の爪跡に酷似だそうだ」

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