第二章 使えない公民館

第二章 使えない公民館

その汚い音から逃れて、紀夫は公民館に飛び込んだ。

原田公民館はさほど大きな公民館ではなく、住宅街にこじんまりと立っている集会所と言った感じだ。確か、一階の多目的室という部屋で練習すると言っていたが、紀夫が想像していたほど、広い部屋ではなさそうだ。入り口は引き戸になっているが、二人の人間が並んで入ったら、もう同時に入れないと思われるほど狭い扉だった。のぞかせてもらえないかと思ったが、まだ施錠されていた。他にも部屋はあったけど、その部屋以上に広い部屋はなさそうだ。それにしっかりと防音されているかどうかも不安になってしまう。二階にはホールがあって、本番はここで行われるというが、果たして開催できるんだろうかと思われるほど、狭い公民館であった。

練習開始の二十分くらい前になると、一台のタクシーが公民館にやってきて、何人かの男性が降りてきた。

「あ、どうも、小屋敷先生。ずいぶんお早いおつきでしたな。もしかして、迷ったりしないかなと思って、岳南原田駅までやっぱり迎えをよこしたほうがいいかなと思ってました。」

声のキーから判断すると、たぶんこの人が、電話で依頼してきた代表だなとわかった。

「代表の松岡です。よろしくどうぞ。」

「はい、こちらこそ。」

改めて、名刺を松岡さんにも渡す。

「まあ、よろしくお願いします。今部屋の鍵を開けますから、お待ちくださいませ。そのうち、他の団員さんも来ると思いますよ。駐車場が少ないので、皆さん相乗りしてくることが多いのです。」

「ああ、わかりました。今日はどうぞよろしくです。えーと、今日は何の曲を練習すればいいのですかな?」

「はい、とりあえず、来月に慰問演奏が入っておりまして、その時に歌う故郷の四季をやっております。」

「あの唱歌メドレーの?」

「そうです。それを。」

これを話している間に、他のメンバーさんが部屋の鍵を開けてくれた。

「しかし、よく間に合いましたな。この辺りは、あまり電車もたくさん走っていないので、まあ、遅れても仕方ないかなと思っておりました。」

メンバーさんが声をかける。本当は、非常に長くかかったのだと言いたかったが、それは言わないでおいた。

そのうち、何台か別のタクシーだったり、所有しているワゴン車とかセダンとかに乗り合わせて、女性のメンバーさんもやってきた。松岡さんが、珍しく、男性と女性の比率は同じくらいであると説明した。普通、アマチュアの合唱団というと、どうしても女性が圧倒的に多いことは知っていたので、それは確かに珍しいなと思った。一応、会の代表は松岡さんが担っているが、音楽的な実権は、稲葉さんという女性のピアニストが担っているとも言った。一応、紀夫も知っている音楽大学の出だから、まあそれなりに実力はあるだろうなと思った。年齢はまるでバラバラで、八十代もいれば、四十代くらいの若いメンバーさんもいる。特に男性のメンバーさんには若い人が比較的多かった。その間にも、タクシーがどんどん入ってくる。免許証を自主返納した年代も多いので、こうしてタクシーでやってくる人が多いのだと松岡さんが言ってくれて、やっと納得した。確かに東京では、みんな電車でやってくるのが当たり前だったから、タクシーがこんなにたくさんやってくるのは珍しい光景だった。

一台のタクシーが止まって、90近いおじいさんと、まるで孫かと思われる若い青年が降りてきた。

「ああ、名物の二人です。最年長の鳥居文也じいさんと、最年少の竹田友紀君です。」

松岡さんが説明すると、他のメンバーさんも、

「よう、もんや爺さん!」

と、声をかけている。あれ、ふみやではなかったのかと思ったら、みんな愛称でもんや爺さんと呼んでいるという。

「なんだ、ともちゃんも一緒だったか。」

「たまたま、岳南原田駅であったものですから、同じタクシーに乗ってきました。」

ともちゃんと呼ばれた青年はそう答える。とっくに車の免許をとってもいい年齢と思われるのに、電車で来るということは、岳南電車の駅近くに住んでいるのかな。

「よし、じゃあ、皆さん部屋に行きますか。」

松岡さんの一声で、メンバーさんはぞろぞろと多目的室に行く。あれ、ピアニストの先生は?と思ったが、気にしないでいいと一人のメンバーさんに言われてしまった。

とりあえず、多目的室にいった。立て付けの悪い引き戸を開けると、中はむうっとしていて、なんだか通気性が悪いなと思った。部屋は机も椅子も置かれてはおらず、古ぼけた小さなグランドピアノが隅に置かれているだけだ。まあ、ピアノを設置してくれてあるだけありがたいが、それにしても古臭いピアノだなと思った。

「じゃあ先生、今日はお願いしますよ。」

メンバーさんたちは、楽譜を持って三列に並んだ。ソプラノ9人、アルト8人、テノール9人、バス9人、総勢35人の比較的小規模な混声合唱団だ。あと、ピアニストを入れれば36人である。しかし、彼女は、まだ現れない。他のメンバーさんたちも、それについて不満を持っている人はいないのか、文句を言う人はいなかった。

「いつ来るんだろうね。」

やっと、最年長のもんや爺さんが口を開くと、他の男性メンバーさんも少しため息をついた。

確かにピアノがなければ合唱の練習は務まらない。紀夫も、おかしいなと考えていると、

「すみません、遅くなりまして。」

やってきたのは中年の女性である。彼女が現れた時には練習開始時刻の三十分を過ぎていた。

「稲葉先生、どうしたんですか。」

一人の女性メンバーさんが聞くと、

「いや、ピアノ教室の生徒としゃべってたの。」

と、いう。それにしてはだらしないなと紀夫は思ったが、彼女より年上のメンバーさんであっても、それを注意する人はいなかった。

「さあて、始めましょうか。」

彼女はピアノ椅子にドスンと腰かける。

「会長、会長、今日新しい先生見えたでしょ。」

女性メンバーさんの一人がそういってくれて、初めて稲葉会長と目が会った。なんだかものすごい気位の高そうな人だ。遅刻しても、怒る人がいないというのだから、なんだかおかしいなと思ってしまう。

「あ、ごめんなさい。そう言えばそうでした。えーと確か、小屋敷先生。今日は、ふるさとの四季でよろしかったかしら?」

へえ、自分より年上だとこういう態度になるのかな。

「じゃあ、歌ってみましょうか。とりあえず、最初のふるさとを歌ってみてください。」

メンバーさんたちは、楽譜を手にとった。紀夫が手を動かすと、稲葉さんがイントロを弾き始めて、歌が始まった。とりあえず、故郷を三番まで歌ってみたけれど、歌というより稲葉さんのピアノを聞かされるような感じ。はれれ、何だ?女性さんなんて、ほとんど声を出してないじゃないか。声を出せないというわけではなく、みんな稲葉さんに脅かされているような感じの歌い方だった。

「もうちょっと、声を出してもいいのではないですか。」

正直に感想を言うと、

「ダメダメ、こんなに汚いんだから、もっと抑えなくちゃ。」

稲葉さんがつっけんどんに言う。メンバーさんたちは、彼女の言うことはもっともだと感じているらしい。

「いや、そんなことありませんよ。現に合唱なんですから、主役は皆さんではないですか。もっと自信を持ってもいいのではないかなと思いますけど。」

「いえいえ、そんなことさせると、うちはひどい声ですから、歌が酷くなっちゃう。先生のように専門的な勉強をしたわけではないのですから、そのままやらせたらひどいものになります。」

「でも、そんなこと言ったら、」

「じゃあ歌ってみなさいよ。竹田友紀君なんかひどいもんですよ。若いんだから、声を出せる場所はいくらでもあるだろうに、こんなところへきて。」

「わかりました。歌ってみてくれますか。なんでも好きなものを歌ってみてください。」

「はい。カラタチの花を歌います。」

竹田友紀君と呼ばれたその青年は、自信のなさそうに歌を歌いだす。

「カラタチの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ、、、。」

稲葉さんはひどいものだと言っていたが、何も酷いものではない。音楽的に分析をすると、彼の歌は、どこか古代とか中世に歌われた歌唱法に近いものがある。確かに、声楽でよくあるベルカント唱法とは違うけれど、音はしっかりとれているし、どこも外れていない。彼は体も小さくて、顔も童顔に近いので、声楽的に言えば有利な条件ではないのだが、表現力は十分にある。

「カラタチのそばで泣いたよ。みんなみんな優しかったよ。」

この場面は、歌いこなすには非常に難しいと言われる。作者の思い入れが一番つまった部分と言われていて、まるで絶叫するように歌う声楽家も少なくない。まあ、彼の声量は絶叫というほどでもないが、みんなみんな優しかったの歌いまわしは特に強烈だった。そこはどうしても伝えたかったという気持ちは十分にわかる。

「カラタチの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ。」

この最後の部分は、様々な声楽科によって解釈が分かれているが、少なくとも友紀の歌を聞くと、また同じ時代がめぐってきて、なんとも言えない漠然とした不安を表しているように感じる。

消えるような終わり方で「カラタチの花」は終わった。

「あーあ、ひどいものね。これではカラタチの花というより、なんだか鳥兜という感じだわ。カラタチの可鈴さとか、もろさとかそういうものが全くない。特に最後の終わり方なんて、カラタチの花じゃなくて、鳥兜が気もち悪く咲いたと歌詞を変えたほうがいいみたい!」

と、稲葉さんは酷評するが、

「いや、いいと思います。」

と、紀夫は言った。

「お世辞なんて言わなくていいですよ、先生。僕の歌が鳥兜みたいに気持ち悪いのは知ってますから。」

なんだかかわいそうだなと思う。

「いや、それはないですよ。決して気持ち悪い声ではないです。まあ確かに、体格的に言えば、ちょっと不利な面もあるが、それでも声質も悪くないし、もっとボリュームを出せるようになれば、きっといい歌になると思います。」

正直に言ったけど、果たして彼には伝わっているだろうか。その表情を見ると、それはまずないな。

「ほら、謝りなさいよ。偉い先生が、わざわざ下手なのにそういってくださったのよ。」

稲葉さん、余分なことは言わないでください。正直にしゃべっているんだから、操作しないでください、と言いたいのだが、

「ああああ、ごめんなさい。」

いわなくたっていいんだよ。頭なんて下げなくていいんだよ。

どうもこの人は、この合唱団を自分だけのものと勘違いしているようで、うーんなんだか不向きだなあという気がする。

「ほかの皆さんはどうでしょう。」

紀夫は、メンバーさんたちにも聞く。

「ああ、そうねえ。まあ、いい声をしていると思うけど、稲葉さんがそういうんじゃね。」

「俺的には悪くないと思うけど、専門家の目から見るとやっぱり違うのかな。」

皆こういう感想しか出さない。

本当は、みんなの素直な感想を言ってもらいたかったな。

逆を言うと、歌に対して、知識のある人は全くなく、そういう事は皆、稲葉さんに任せてきたのか。まあねえ、素人だから何もわからないという事情はあるけど、素人が言う答えが一番適格だというケースは結構ある。そういう発言を大事にしてくれる指導者のほうが、たぶんというか、確実に伸びる。

「先生、何をしているんですか。早く練習始めないと、この部屋出る時間になっちゃいますよ。」

稲葉さんがそういうので、その日は故郷の四季を練習したが、ほとんど稲葉さんの独壇場という感じで、自分は付録的な感じにすぎないのではないかと思われた。手をあげて、それを動かしているだけの飾り物に過ぎなかった。

それでも、メンバーさんたちは、新しい風が入ってきたことを喜んでくれたようで、少し声量を出してくれたようだ。まあ、そうなれば稲葉さんがだめだというんだけど、自分の存在が新風になってくれたことは確かなようだ。

そうしているうちに、部屋の貸し出し時間が終了してしまった。あーあ、これでは何をしたんだろうなあ。というなにも手ごたえのない時間だった。

メンバーさんたちは、またタクシーを呼んだり、相乗りしたりして帰っていく。女性メンバーさんたちは稲葉さんのしんがりになっていく人が多い。男性さんたちは、久しぶりに来たので、これから飲みにいくぞ、とか、そんなことを言っていた。

「今日はすみませんでした。」

と、友紀君が紀夫に声をかける。

「いやいや、正直に言うと、声をもう少し出せるようになれば、もっとうまくなるよ。」

「はい、すみません。本当にへたくそで。」

「そんなこと言わなくてもいいんだよ。」

「いや、今までへたくそだと言われ続けてきたのに、もっとうまくなるよなんて言えるはずがありません。だから、無理してお世辞を言わなくても大丈夫です。」

「素直に喜べばいいと思うけどねえ。」

もんや爺さんが、そう言ってくれたのが救いだった。

「ともちゃん、稲葉さんの言っていることは、あんまり信用しないほうがいいんだよ。」

おお!やっと自分の言うことを理解してくれた人がいたのか!たった一人だけでも、そう言ってくれる人がいたなんて、天にも上る気持ちと言っても過言ではない。

「ほんとにね、稲葉さんは、自分の立ち位置を間違えているから。」

「それなら、」

と紀夫は言いかけたが、もんや爺さんは、ニコっと笑ってこう返す。

「いやいや、先生、わしは年を取りすぎたよ。」

でも年を取っていたほうが、説得力があるのではないですか、と思わず言いたくなる。

「先生、年寄りは、そういうもんになっているよ。きっとね、年寄りは、おっきな粗大ごみになっていると思うよ。」

にこにこしたままそういうもんや爺さん。どうやらこちらの発言は読み取られてしまっているらしい。泣きながら言われるよりも、こうしてにこにこ笑って言われるほうがずっと真実味があるのはなぜ?

「今日はどうもありがとうございます。まあ、本当にダメなところかもしれませんが、これからも頑張ってやっていきますので。」

代表の松岡さんがそういうが、頑張ってやればやろうとするほど、稲葉さんの力が及んでくるのではないか。そんな気がする。なんか、そのことを知っているのは、もんや爺さんだけのような気がしないでもない。

「また来ていただけますかね。よろしく頼みますよ。」

え、そんな、、、と言いたかったが、もしやめると言ったら、ここの人たちはどういうかは知らないが、多分、富士の合唱連盟が黙っていないはずだ。

「わしからも、ぜひお願いします。」

「僕も。」

もんや爺さんと友紀君もそういって頭を下げる。この二人にお願いされると、紀夫はやめるわけにはいかないなと思った。

「わかりました。そう致しましょう。」

そういうと、二人の顔がぱっと輝く。

「じゃあ、帰りは、原田駅まで送りますよ。先生、のっていただけますか。」

「でも、次の電車にはまだ三十分近くありますよ。」

友紀君が、心配そうに言った。

「駅に行っても何もすることないでしょうに。あるとしたら、お蕎麦屋さんだけですよ。」

「まあ、それは仕方ないですよ。久留里線のように、首都圏にも一時間に一本しかない電車はありますから、それを使ったときのことを思い出して何とかします。」

久留里線を使ったことはまだないけど、なんだかそう言わなければだめなような気がした。

「じゃあ、お願いできますか。失礼ですけど、車って、何人乗れますか?」

「へ?ああ、うちの車はワゴン車なので、少なくとも七人は乗れますよ。」

紀夫の質問に、何だ?という感じの顔で答える松岡さん。

「それなら都合がよかったです。この二人も一緒に岳南原田駅まで乗せてやってくれませんかね。」

せめて、自分を支持してくれた二人には、こういう形でお礼をしたいと思う。

「いや、先生、わしらは、二人そろってタクシーで帰りますよ。わしは免許を自主返納してかなり経っているし、友紀君は事情があり車の運転免許が取れなかったのです。なのでここへ来るときは、いつも、二人でタクシーを乗り合わせるようにしています。」

「それならなおさら一緒に乗っていってくださいよ。タクシーは高いじゃないですか。」

爺さんと友紀君は顔を見合わせる。

「いやいや、どうせ原田駅は近くなんだし、いいですよ。皆さん一緒に乗っていってください。」

松岡さんがそういってくれたので、三人とも松岡さんの車で帰ることが決定した。すぐに多目的室から出て、松岡さんが入り口の戸に鍵をかける。公民館の受付係に、鍵を返却して次に来る日を簡潔に伝え、公民館の裏側にある駐車場へ行った。そこは、たったの10台くらいしか止められない本当に狭い場所で、皆がタクシーで来る理由がはっきりわかった。松岡さんの大きなワゴン車が、本当に動かせるのか、疑わしくなるくらいだ。とりあえず、全員、そのワゴン車に乗り込んだが、大丈夫だろうか、心配だった。

「本業は大型トラックの運転手をしていますので、運転には心配しなくていいですよ。これでも自信ありですから。」

そういう松岡さんは、車のエンジンをかけた。

「じゃあ、行きますよ。」

ワゴン車が静かに動き始める。ちょっとでも間違えたら、ぶつかるんじゃないかと思われるほど狭かったけど、さすがは松岡さん、トラックの運転技術を駆使して無事にワゴン車を駐車場から出して、道路を走り始めた。

駅は、歩いても五分程度だから、本当にすぐに着いてしまった。例のお蕎麦屋さんにはまだ人がいる。

「じゃあ、今日はどうもありがとうございます。また、来ますので。」

「はい、よろしくお願いしますね。これから、練習が楽しくなるようにしてほしいですよ。代表としては。」

松岡さんは、禿げ頭をかじりながら、車のドアを開けた。三人は丁重に礼を言って、車を降りた。

「じゃあ、またお会いできるのを楽しみに!」

そう言って、再び車に乗り込み、松岡さんは帰っていった。

「先生はどこまで行くんかい?」

「ああ、東京なので、とりあえず吉原駅に行きます。」

「そうかあ。なんだか名残惜しいな。わしもともちゃんも、岳南江尾までなんだよ。反対方向になっちゃうね。」

言葉通り、名残惜しそうにもんや爺さん、つまり、鳥居文也さんは言うのだった。

「まあいいじゃないの。すぐに次の練習の日が来るよ。」

「そうだなともちゃん。」

「そうですよ。きっと、すぐに二週間たってしまいますよ。またお会いしましょう!」

三人は、しっかり握手した。

「それでは失礼します!」

「また会いましょう!」

それぞれの目的地、つまり、もんや爺さんと友紀君は岳南江尾方面、紀夫は吉原方面のホームへ戻っていった。




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