伊乃高校/パソコン研究会の場合。

高月麻澄

プロローグ

 ――あたしは先輩が好きだ。

 好きになるってこういうことなんだ、と先輩と過ごす内に芽生えた感情の正体がわかって、ようやく人並みの女の子になれた気がした。今まで人を好きになったことがないどころか、好きという気持ちがわからなかった、なんて言うと友達に嘘だと笑われそうだけど。

 今までに彼氏はいたことがある。付き合った人数は片手で数えるには足りないくらい。その全てが付き合ってほしい、と告白されて、何とも思ってないけど断る理由もないし、と付き合い始める、というものだった。

 好きでもないからするのはせいぜい手を繋いでデートくらい。キスやそれ以上のことは絶対に許さず、向こうの求めを拒否すると振られる、というのがいつものお決まりのパターンだった。お別れの言葉で美辞麗句を並べても、どいつもこいつも身体目当てだったのが見え見えで、そんな男にしか声をかけられないのは、あたしが軽そうで遊んでそうに見えるからか。

 毎度毎度同じような男ばかりで、さすがに学習しろよあたし、と思わなくもないけれど、それでもやっぱり一人は寂しくて、今度こそ大丈夫なんじゃないか、という思いが捨てきれなかった。そう思わせられるほど、みんな最初は優しいのだ。結局それはただ猫を被っていただけだと、しばらくして思い知らされるわけなんだけど。

 あたしの両親は、今やあたしがいるから離婚という最後の線をギリギリ越えていない、というくらい冷めきっていて、家に帰っても両親のどちらかでもいることは稀で、家の中はいつも静かだった。娘がこの地区一番の進学校に合格したのもどうでもいいことらしく、ついぞおめでとうともよくやったとも言われていない。

 幼い頃から喧嘩ばかりしている親を見ていたせいか、恋愛というものに幻想は持てず、好きという感情もよくわからなかった。付き合ってみても、一時寂しさを紛らわせてくれる存在以上には思えず、身体を許すなんて以ての他。同性の友達もいるけど、それだっていつも一緒にいるというわけにもいかない。

 傍から見れば、派手な格好をして、いつも彼氏がいて、友達と騒いで、なんて、今時の女の子だったんだろうけど、その実、あたしは寂しくてしょうがなかった。

 高校も中学と同じように過ぎていくのかな、と漠然と思っていた。

 だけど。


 先輩を初めて見た日のことは今でもよく覚えている。

 高校入学を控えた春休み真っ只中だったその日、あたしは当時の彼氏に喫茶店に呼び出されていた。用件は言われずともわかっていた。

 春雨のせいか店内に客はまばらで、別れ話にはうってつけの雰囲気が漂っていた。先に来てしまったあたしは、店の隅、窓際の席に座った。

 紅茶を注文して携帯で暇を潰していると、数日前に無理矢理キスを迫った挙げ句あたしにビンタされたその男は、当て付けのように頬に湿布を貼って登場し、注文のコーヒーが運ばれてくるとようやく口を開いた。そこから出てきた言葉はよく覚えていない。身体目当てだったことを隠して取り繕うような、聞き流していいような言葉だったことは確か。

 その時のあたしは窓の外に釘付けだった。どうでもいい話とはいえ、さすがに目の前で携帯をいじるわけにもいかず、他に何か時間を潰せるものを探していると、窓の外の通りの少し離れたところに、雨に打たれているのにも関わらず、黒猫がうずくまっているのを見つけたからだ。鳴いているのか、しきりに口を開けていた。それがどうにも様子がおかしくて、心配で目が離せなくなった。うずくまっている場所も大型車が通れば下手すると轢かれてしまう位置で、気が気でなかった。

 何度か店から飛び出してしまおうかとも考えたけれど、目の前の男はともかく、猫の様子がおかしいのがあたしの勘違いかもとその度に思い直し、動くに動けなかった。

 そうして葛藤していると、猫が起き上がった。なんだやっぱり勘違い――と思ったのも束の間。ぴょこん、ぴょこん、と前肢だけで身体を跳ねさせる、明らかに後肢を怪我しているのがわかる動きで、のろのろと移動し始めた。

 反射的に腰を浮かした。行ってもあたしにできることは何もないかもしれない。けれど見てしまった以上、このまま見過ごすのは嫌だった。

 完全に立ち上がりかけたその時、ビニール傘を差した学ラン姿の細身の男子が通りがかったのが見えた。その男子は猫に気付くと猫の元にしゃがみこみ、鞄からタオルを取り出して猫を包むと、胸に抱えて足早に去っていった。

 あたしはその一連の様子を呆然と見ていた。

 あの男子には自分が汚れるのも濡れるのも躊躇った様子がなかった。

 目の前の相手が窓の外の出来事に夢中だったとも知らず、別れ話をする自分に酔って自分の世界に没頭していた男は、ひとしきり体のいい言い訳のようなものを並べ終えると、満足して帰っていった。

 あたしはというと、浮かしかけていた腰を下ろし、席から立てずにいた。さっき見た光景を思い返す。

 野良猫か家猫かは遠目からは首輪が見えなかったからわからないけど、怪我した猫を躊躇なく抱き抱えられるのって、なかなかできることじゃないと思う。あの男子が通りかからず、もしあたしが駆け寄っていたとして、果たして同じことができたかどうか。どこに連れていったのかは気になるけど、何となく、根拠はないけど、あの人なら悪いことはしなさそうな、大丈夫な気がした。

 学ランを着ていたということは、この近くにある、あたしももう何日かしたら通うことになっている高校の生徒なのかな、なんて考えながらすっかり冷めた紅茶を飲み干し、店を出た(ちなみに割り勘だった)。足は自然と猫がいた場所へと向かっていた。

 猫がうずくまっていた場所には、雨で少し薄まってはいたけれど、明らかに血とわかるものがあって、その近くに生徒手帳が落ちていた。やっぱりこの春から通う高校の物で、雨に濡れたそれを破らないように慎重に開くと、表紙の裏に学生証が挟まっていた。取り出して見ると、それには顔写真――銀のメタルフレームの眼鏡を掛けていて、それにかかるくらいの前髪。パッと見、オタク。でも垂れ目で、それが優しそうな人畜無害そうな印象を与える、そんな顔だった――と、

 ――野木 賢斗。

 後に好きになる先輩の名前が書かれていた。

 これから始まる高校生活が少し楽しみになって、あたしは生徒手帳を鞄に入れて帰路についた。

 寂しさはいつもより和らいでいた。



 その後、新入生への部活紹介の壇上で(一方的に)再会し、部室に押し掛けたのはまた別の話。


 ちなみに、先輩が落とした生徒手帳は、未だあたしの通学鞄の中で眠っている。


   *     *     *     *    *     *


「せんぱーい、まだっすかー?」

「もうちょっと待って……」

 ズダダダダ、と物凄い勢いでキーボードを叩く先輩を眺めながら、あたしはそう急かす。

 春休みも半ば。手狭な部室の唯一の窓から射し込む穏やかな陽気を背に受けつつ、パイプ椅子の上で伸びを一つ。あまりの心地よさにあくびが漏れた。

「お腹空いたっすよーはやくー」

「も、もうちょっとだから……」

 焦ったような声で返しつつも、眼鏡越しに画面を見つめる表情は真剣そのもので、その横顔に胸がドキリとする。先輩の好きな表情ランキングでベストスリーには入るなー、うん。

「せっかくの春休みに、引き籠ってパソコンしかすることのないかわいそーな先輩のために、かわいいかわいい後輩がご飯に誘ってあげてるのに……」

 はぁ、と演技半分本気半分構成のため息を吐く。

「大体、今さらそんな焦ってもしょうがなくないっすか」

 ズゴゴゴゴー、とパックジュースの中身を飲み干し、空になったそれをちょっと離れたゴミ箱へシュート。縁に当たって外れた。惜しい。

 春休みになってから、先輩は毎日部室――パソコン研究会、通称パソ研の部屋でパソコンに向かい合っていた。春休みは先輩を遊びに連れ回そうと、終業式の日に予定を訊いたあたしに、先輩が答えた予定が――

「いやいやいや、誰かあと一人入ってくれないと、パソ研潰れちゃうんだから焦るでしょ」

 ――部活紹介や部活見学に使うゲームの製作、だった。

 同好会の設立・維持には三人必要で、幽霊部員気味だった一人の三年生が卒業してしまったため、現在あたしと先輩の二人だけ。新入生の部活への本入部が決まる五月頭までに人数を揃えないと廃部になる、とは先輩の談。去年も同じ状況だったみたいだけど、そこにあたしが入ったので免れたらしい。

 ちなみに去年の部活紹介は先輩を見つけた時の衝撃が大きすぎて何をしていたかよく覚えていない。あたし以外に入部希望者がいなかった時点で、内容は推して知るべしなんだろうけど。

「文化祭の時のでよくねーっすか?」

 外れた紙パックを拾いに立ち上がる。ついでにちろり、と画面を見るも、あたしには全く理解のできないモノが並んでいた。目を背けて、拾った紙パックをゴミ箱へダンクシュート。

「あれRPGだからなぁ……短時間でクリアできるようになってるけど、部活紹介じゃ持ち時間三分しかないからさすがに時間がね……」

 あたしが背後にいるのを気付いているのかいないのか。先輩がキーボードを鳴らしながら答える。

「それならそれでもっと早くから作っといてくださいよ」

「いやほら、テストとかあったしね?」

「原因、絶対テストじゃないっすよね」

 あたしの脳裏に浮かぶ、部室のパソコンでゲームを遊んでいた去りし日の先輩の姿。このパソコン、家のより性能いいんだよー、とかなんとか、嬉々として語っていたような気がする。

「はいすいませんゲームしてたせいですごめんなさい」

「……先輩って、ほんとオタクっすよね」

「いやぁ照れるね」

「褒めてねーっすから」

 ずびしっ、と先輩の頭頂部にチョップ。男子にしては量も多くて綺麗で柔らかい髪の感触が手に伝わる。これはこれで好きだけど、もうちょっと短く軽くして、眼鏡も黒縁のセルフレームにでもすればかっこよくなるのに、といつも思う。

「てゆーかまだっすか」

 先輩は叩かれた箇所を擦り擦り、こちらに振り向いて、

「いたた……そんな急かすなら、藤村も準備手伝ってよ」

「やですよ。入る時言ったじゃないっすか、入部はしますけど何もしないっすよ、って」

 あたしが興味あるのはパソコンじゃなくて先輩だったから、なんてさすがに言えない。勇気がない。

「放課後にだらだらできる場所が欲しかっただけなんで」

 先輩や友達には表向き、そういうことになっている。中学からの付き合いで特に仲の良い亜里沙はにやにやしてやがったけど。表向きではあるけど、嘘でもない。ここは家よりもずっと居心地がいい。

「ちなみに部活紹介も先輩だけで出てくださいね」

「えー……女子いるってわかれば男子一人くらい釣れそうなのに……」

「それが嫌なんすよ。女子いるからって入ってくる奴なんて、絶対ろくな奴じゃないっすから」

「あー、それは確かに。ごめん、考えなしだった」

「べ、別に謝んなくていいっすけど……」

 頭を下げた先輩の、申し訳なさそうな顔に心が跳ねる。その顔はずるい。ただでさえ柔和な顔つきなのがより一層柔和になり、庇護欲が掻き立てられてしまう。

 入部してから知った、先輩はこんな生意気な後輩にもちゃんと女の子として接してくれるほど優しくて、いい人オーラに溢れていて。というか女の子の扱いに慣れているような気さえする。それはそれで気になってはいるのだけど、ひとまず置いといて。

 とにかく、その内悪い女に騙されるんじゃないかって思うと、守ってあげたくなってしまうのです。

「あれ、先輩もういいんすか」

 先輩が画面に向き直ってからややあって、ぷつん、と画面の電源が切れて、パソコンからしていた音が止まる。

「誰かさんが急かすからね。それに僕もお腹も空いたし。ほら、窓閉めて。出るよ」

「はーいっす」

 先輩に言われるままに窓とカーテンを閉めて、自分の通学鞄を引っ掴む。春休み中ということもあって、学校の物がほとんど入っていない鞄は心と同様に軽かった。

「でも、男子はともかく、女子がいるってわかれば女子は入りやすいかもだよね」

 部室を出ると、先に出ていた先輩がそういえばさっきの話だけど、と口にした。

 その言葉にずきり、と胸が痛む。軽く感じていた心が少し重くなる。

「……、そうかもしれないっすけど……まぁ、部活紹介は出ないっすけど、部活見学の時に部室にいるくらいならしてあげてもいいっすよ」

「ほんと? 助かるよーありがと! なんとか廃部は免れないとね」

「そっすね……」

 嫌だ。

 ほんとは誰にも入ってほしくない。

 先輩とこのまま二人で、この部室で過ごしたい。

 心の中のあたしがそう叫ぶ。けれどそれを口にしてしまえば、今の穏やかで居心地のいい関係が壊れてしまうかもしれない。だからあたしはその言葉を飲み込んで、先輩に話を合わせるしかない。

 もっともパソ研が潰れるのは困るから、いざとなれば亜里沙に名前だけ貸してもらうつもりでいる。にやにやにたにたと笑ってからかわれるだろうけど、しょうがない。背に腹は代えられないし。

 ――どうか誰も入ってきませんように。

 部室に鍵をかける先輩の後ろ姿を見つめながら、あたしはそう願わずにはいられなかった。

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