第7話 愛歌の実力
「上手い……」
「美玲さん、すごい……」
「一級品の腕前ですね……」
順番に、リアム、奈々、光彦の言葉だ。
新しくバンドに加わる事になった愛歌、希望のパートはピアノだった。だから彼女は早速俺達の前で、その腕前を披露した。ほんの数分に過ぎない愛歌の演奏を聴いて、皆口々に賞賛の言葉を贈った。
どんな曲でも構わないから、弾いてみせて欲しい。そう頼まれて愛歌が弾いたのは、こないだ俺とやっちさんの前で弾いた曲よりも難しい曲だった。両手がバラバラに動いてて、とてもじゃないが俺には真似出来そうにない。
これも大いに聞き覚えのある曲だが……。
「えっと、シューベルトでしたっけ?」
光彦が問うと、愛歌はピアノ椅子に座ったまま首を横に振った。
「ベートーベンだよ、曲名は『エリーゼのために』」
俺は、光彦の頭を小突いた。
「光彦お前全然違うじゃんか、適当な事言うなっつの」
「あいたっ、だ、だって自分クラシックなんて全然知らないですし……」
続いて奈々が、
「でも本当にすごいね美玲さん、私より全然上手いよ……」
ピアノを担当している奈々も認める腕前だった。
というか、リアムまでもが称賛する程なのだ。いつもならリアムはあれこれ理屈を言いそうな場面だが、愛歌には何も言わないどころか、素直に褒めた。これこそ、愛歌のピアノの腕前が素晴らしい事の証明だ。
俺はさりげなく、提案する。
「これだったら、愛歌にピアノを任せて奈々はギターに専念した方がいいんじゃないか? そしたら演奏の幅も広がるかもしれないし……愛歌なら奈々の代わりとしても申し分ないと思うぞ」
バンドの為に、俺は自分の考えを述べたつもりだった。
奈々はこれまで、ギターとピアノという二つのパートを掛け持ちしていたんだ。ギターを提げたままピアノを弾いたりして、ちょっと負担が大きいかとも思ってた。
だからピアノを愛歌に任せれば、奈々はギターに専念出来ると考えたのだが、
「え……?」
俺の言葉を聞いた奈々が、そう発した。
まばたきもしないで、俺の顔をじっと見つめてくる。一体どうしたのだろうか?
「ん、どうした奈々?」
僅かに間を置いて、奈々は首を横に振る。
「ううん、何でもない」
そう言い残すと、彼女は俺から視線を外してしまう。
何だか、様子がおかしいように見えたのは気のせいだろうか。
そんな俺らをよそに、リアムが愛歌に問う。
「美玲さん、楽譜は読める?」
そう言いつつ、リアムは自分の鞄の中からクリアファイルを取り出し、更にその中から数枚の紙を取り出した。あれは俺達がやる曲の、ピアノパートの楽譜だ。
愛歌は即答する。
「読めるよ」
リアムが、楽譜を愛歌に差し出した。
「弾けるかな? 実際に君にピアノパートを任せて、今度セッションしてみたい」
気が早くないかとは思ったが、リアムの事だからそう言いだす可能性はあると思っていた。
けど、それは流石に無茶な注文じゃないかと思う。愛歌はピアノを嗜んではいても、セッションした事はない。それに初めて見る楽譜を上手く弾ける物なのだろうか。
愛歌が困った様子を見せたら、俺はすぐ庇いに入ろうと思っていた。
しかし愛歌は楽譜をじっと見た後、それをピアノの譜面台に立てる。すると迷う様子もなく、その十本の指を鍵盤にそえる。
そして、演奏が始まった。
俺も何度も聞いている、俺達がバンドで演奏する曲のピアノパートだ。
……やっぱ上手い、しかも初めて見た楽譜なのに、ここまで完璧に演奏できるのは一種の才能だと思う。隣にいた奈々が、「美玲さん、すごい……」と呟くのが聞こえた。
不意に、光彦が言う。
「治さん、これなら定期ライヴに美玲さんも一緒に出られるんじゃないですか? キーボーディストとして」
「え、ああ……!」
思ってもみなかった。
このミュージックハウス翼では、年に三度ライヴが開催されるんだ。発表会、といった感じで入場料とかは特になく、各々コピーだったりオリジナルの曲を演奏して楽しむんだ。
俺達は今、このライヴに向けて練習を積んでいる最中だった。
愛歌と一緒にステージに立ち、演奏する。楽しそうだし、俺にとっても彼女にとってもいい思い出作りになると思った。
「ラ、ライヴ……私が……?」
突然の提案に戸惑う愛歌、思わぬ賛同の声がリアムから発せられる。
「良いかもしれない、時間はまだ一か月以上あるし、キーボーディストが加われば演奏の幅が広がる。何より美玲さん、君には才能もある……細かい部分はやっちさんにサポートしてもらえば何とかなりそうだ」
リアムの事だから、てっきり反対意見を言ってくると思ってた。こんなすんなり承諾してくれるとは珍しいもんだ、明日雪でも降るんじゃなかろうか。
いや、愛歌のピアノの腕前が、リアムに反対意見を唱える事を許さない程の素晴らしさなのだろう。
俺は改めて、彼女に問う。
「愛歌どうだ、俺達と一緒にライヴに出ないか? 無理にとは言わないけど……」
愛歌は人と接する事が得意じゃない。ライヴに出れば、大勢の人の視線に晒される事になる。彼女はその事を嫌がるかもしれないと思った。
だからこそ俺は控えめに尋ねたのだが、
「私でいいなら、出てみたいな」
少しも迷う様子など見せずに、愛歌はそう答えたんだ。
嬉しかった。
リアムが言う。
「よし、それじゃ今度からは美玲さんも加えて、五人体制で活動しよう。美玲さんがピアノを担当する分、奈々はギターに専念する……奈々、それでいいかな?」
奈々は応じた。
「うん、分かった」
愛歌がピアノを担当すれば、奈々の担当楽器はギターのみになる。これで彼女の負担も減る事だろう。
リアムもそう考えていたに違いなかった。
「よし、それじゃライヴに向けて……早速練習を始めようか」
すかさず光彦が、
「おーう!」
無駄に気合の入った返事をする。
そして俺も、
「分かった」
そう応じて、自身の担当楽器であるドラムセットに歩み寄ろうとした。
ふと、奈々の姿が視界に留まる。これから練習を始めるってのに、彼女は何とも言えない表情を浮かべてその場に立ち尽くしていた。
……一体、どうしたというのだろうか?
「奈々どうした? 練習始まるぞ」
声を掛けると、奈々ははっとした面持ちを浮かべる。
「っ、うん……」
何か、様子が変な気がした。
どこか怪訝に感じたが、俺はドラムセットに向かい、練習の準備を始めた。
◇ ◇ ◇
楽しい時間はあっという間。
練習していたのは多分三時間くらいだったと思う。スタジオは他のバンドの人も予約しているから、夕方には引き上げなきゃならなかった。
その日の練習を終えた俺達五人は、一緒に帰路についていた。
俺は隣を歩く愛歌と、言葉を交わす。
「けどほんとすごいよな愛歌、俺らの定番曲、もう四曲くらいマスターしちゃったもんな」
「別にすごくなんかないよ、楽譜を見ればどう弾けばいいか分かるもの」
愛歌は謙虚だった。彼女は決して、自分の才能を鼻にかけたりしない。
だけど、彼女のすごさは演奏技術だけに留まらない。今日初めてセッションしたというのに、愛歌は完全に俺達と息を合わせ、楽曲を作り上げる役を担っていたんだ。まるで、ずっと前からバンドの一員だったみたいに。
これならいける、十分にライヴに出られる。俺だけじゃなく、リアムも奈々も、光彦もそう思っているに違いなかった。
「あ……!」
突如、愛歌が何かに気付いた声を発した。
彼女の視線の先を目で追うと、道路脇に一台の車が停車していた。
――黒塗りの大きい車だ。俺は車に詳しくないが、そこらを走る物とは訳が違うのが分かる。
名残惜しそうな様子で、愛歌は言う。
「ごめん、迎えが来ちゃった」
どうやらあれは、愛歌の家の車らしかった。
後部のドアが開いて、そこから一人の女性が姿を見せる。ブランド物の服を着て、革製のバッグを提げたその人、見ただけで俺には分かった。あれは愛歌のお袋さんだ。
遠目で見ても、綺麗な人だと思った。若くて気品が漂っているというか、言葉で表せない雰囲気を纏っている。
愛歌は再度、俺達全員を振り返った。
「皆、今日はありがとう……また明日ね」
どこか悲しそうな面持ちと共に、愛歌はそう言い残す。
そして彼女は返事を待たずに、俺達にまた背を向けて駆け出していってしまった。長く伸びた彼女の黒髪が揺れるのが見えた。
その時だった。
愛歌が向かう先に立つその女性、そして俺の視線が重なった。
「……!」
思わず、俺は息を呑んだ。
女性――愛歌の母さんが、俺を睨んでいるように見えたんだ。
刃物のように鋭く、そして氷のように冷たい眼差し。有無を言わせない威圧感が降りかかり、俺はまばたきも出来なくなる。
初めて会う人に、どうしてそんな瞳を向けられなければならないのか。
「治?」
後ろから奈々に声を掛けられ、俺は我に返った。
続いてリアムが、
「どうかしたのか?」
俺は首を横に振る。
「いや……何でもない」
俺は恐る恐る、愛歌と愛歌の母さんの方へ視線を戻す。愛歌の母さんは、もう俺の方を見てはいなかった。彼女は娘に何かを言い、そして愛歌を車へ乗らせる。
二人が乗るとドアが閉まり、車は発進していった。
さっき向けられた視線が気のせいか、何かの思い違いである事を祈りつつ――俺はそれを、ただ見ている事しか出来なかった。
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