暗闇の中の白い花

時雨ハル

暗闇の中の白い花

 真っ暗な所にいる。黒くて黒くて何も見えない。手足の感覚はあるけれど、視覚が全く働かない今はとても不確かな物に思えた。

 自分は何故ここにいるのか、分からない。いつからここにいるのかも、定かではない。たった今からのような、もう随分と前からいるような気もする。

 暗い。だが、不思議と恐怖も不安も無い。何も感じない。何も思わない。その代わりに、目を閉じると浮かび上がるのは一つの映像。

 深海の底で波にたゆたう花。一瞬の後、一枚の花びらが波にさらわれる。それを始まりに、また一枚、一枚と花びらが散る。散った花びらは幾つもの星になりながら波に溶けていく。

 それだけの映像だった。だがそれだけの映像が今の全てだった。目を閉じずとも暗闇に白い花が浮かび上がる。

 何も感じない。疑問さえも感じなくて、いつまでも暗闇の中に俺があった。あの映像だけが、俺を俺にしていた。花が俺から去り俺の中に何もなくなってしまえば、その時俺は「俺」ではなくなるだろう。花は俺の存在そのものだ。

 再び白いものが暗闇に浮かび上がった。白い花であろうそれは、徐々に輪郭を帯びていった。その途中で俺は、気付いてしまったのだ。これは花ではない。「俺」ではない。

 それは人間の顔だった。白いと思っていた部分は肌で、闇とは違う種類の黒を持った長い髪が肌のわきに垂れた。

 頭の中を知らない単語が通り過ぎた。恐らくは、人の、名前。目の前の女性は暗闇の中で様々な表情を見せている。何故か俺には、その理由が分かった。

 初めて想いが通じ合った時、今まで見てきた何よりも綺麗な笑顔を見せてくれた。

 赤面しているのは、俺がいきなり寒そうにしている彼女の冷えた手を握ったから。

 フィクションだと分かっていても、誰かが死ぬ度にぼろぼろ涙をこぼす。

 俺だけに見せてくれる、照れながら、でも嬉しそうにはにかむ表情が愛しい。

 愛しい。

 そうだ、俺はずっと、彼女を忘れようとしていた。あまりにも儚く花弁を散らしてしまった彼女を。そのために、あらゆる所に逃げて、逃げて、逃げて。たどり着いたのはこの、何も生み出さない暗闇。なのに何かがこの闇の中に彼女を浮かび上がらせる。俺はここで、やがて消えていくはずだったのに。

 闇の中の彼女は、俺に対して必死に何か訴えているようだった。

そう、あれは確か、もう声もうまく出なくなっていた頃。見えない目で俺を見て、そこにいるんだよね、なんて囁いて、絶対ちゃんと聞いてね、と続けた。

 その先が、どうしても思い出せない。死ぬ直前の、彼女の最期の言葉が。とても、とても大切な言葉だったはずなのに。


 そこに、いるんだよね。

ねぇ、絶対、絶対に、ちゃんと聞いてね。聞かなきゃ、怒るんだから。

ねぇ、そこにいるんだよね。

 あのね、一個だけ、あるの。お願い。

 あのね、


 彼女は、何と言ったのだろう。そう、あれは確か、確か――


 ずっと、


 ずっと、私を愛していて。

 ずうっと、忘れないで。

 怖いの。


 忘れちゃうってすごく怖いから、ダメだよ、と泣きそうな顔で俺に言った。

 そうだ、そうだったんだ。忘れていた、大切な事を。忘れた事さえ忘れて、全部一緒に捨ててしまうところだったんだ。そんな事、してたまるか。彼女のためにも、自分自身のためにも。

 彼女が俺に笑いかけてくれる事はもう無いけれど、触れる事さえかなわないけれど。


 ――ありがとう。

 彼女の声が聞こえた気がした。

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暗闇の中の白い花 時雨ハル @sigurehal

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