たいせつなひと
時雨ハル
第1話
また一冊本を読み終え、僕は本棚と向き合った。この部屋は本を収納するためだけに作られていて、僕は「図書室」と呼んでいる。この部屋を使うのは僕だけだけど、だからこそかなり散らかっている。仕方なく重い腰を上げ、片付けに取りかかった。
「あれ?」
本棚の一番下の段、扉が付いている所。そこにふと目がいった。最後に開けたのはいつだろう。掃除を忘れた訳ではなかったけど、だからこそ違う事をしたくなって扉を開いた。 僕が子供時代に読んだ絵本がたくさん入っていた。もう一冊、もう一冊とつい読んでしまう。
結局最後の一冊を手に取ってしまった。
『たいせつなひと』
手作りの本みたいだけど、これだけ読んだ記憶が無い。ページをめくる。ロロという男の子が大切な人を探す旅に出る話だ。
『ぼくのたいせつなひとはどこにいるんだろう?
もっともっととおくにいるのかな。
よし きめた
さがしにいこう!』
大切な人って、探しに行ってもそう簡単に見つかるものじゃない。ロロは住んでいた森を出て、街に行き、様々な人と出会う。そして――。
話が途切れている。破けてしまったのか、一枚を残して後のページは無い。でもきっと、大切な人を見つけられたんだろう。絵本なんてそんなものだから。
最後のページにはたった一つの文章が書いてある。
『大切な人は見つかりましたか?』
そう簡単に見つかる訳も無い。本を裏返してみると「ライナ・ガルシェット」とあった。
――母の名前だ。
***
「イツキさんは、大切な人っていますか?」
午後四時過ぎ、中庭で棒術の稽古を終えた直後、我ながら唐突だと思いながらも疑問をぶつけた。彼は最近棒術の先生になったばかりだけど、僕は知らず知らずの内に信頼を寄せていた。
「いるよ。故郷に両親と弟がいるし、今は大切な相棒がいる。」
彼の本職は冒険者で、僕の先生は依頼としてやっているそうだ。共に戦う「相棒」は、彼にとって欠かせない存在なのだろうか。
「それって、どういう感情ですか?」
彼は困った顔で考え込んだ。
「難しいなあ。」
苦笑して、彼は空を見上げた。
「何というのかな。大切、というのは後からついてくるんだ。」
「どういう事です?」
すぐに返事は返ってこなかった。彼は地面の上の棒を弄びながら答えた。
「ふと気付くと、この人は大切なんだなあ、と思う事がある。だからといって、あくまでその人はその人で、『大切な人』と同じものではないんだ。」
今度は僕が考え込む番だった。イツキさんは笑って、僕の頭に手を置いた。
「あまり考え込むな。急がずとも、その内分かるようになるさ。」
***
いつの間にか外は暗くなり始めている。部屋で着替えていると、ノックの音がした。急いでボタンを留め返事をする。
「はい、どうぞ。」
「失礼します。」
ドアを開けて入ってきたのは執事のガイナールドだった。
「クルツェン坊ちゃん。旦那様がお帰りです。」
僕は心の中で溜め息をついた。わざわざ出迎えなきゃいけないのか…。
「分かりました、すぐ行きます。」
玄関ホールに着くと、ちょうど彼が使用人達に出迎えられたところだった。急いで階段を降り、彼の元へ向かう。
「お帰りなさいませ、父上。」
「ただいま、クルツェン。」
彼は僕に微笑みを向けた。
「今日は棒術の稽古があったそうだな。調子の方はどうだ?」
「このままなら、次の試合には勝てそうです。」
「そうかそうか、それはいい。」
彼は機嫌良さそうに笑う。その笑顔の下で何を考えているのか、僕に分かる筈もない。
「これからも頑張ってくれよ。」
彼は僕に笑いかける。僕も笑顔を返す。完璧な父親としての、完璧な笑顔。唯一の欠点は、それが作り物じみている事。僕の笑顔もそう見えるのだろうと、思う事がある。僕はこんな父親を、大切だと思えるのだろうか。
***
明くる日、いつも時間より早く中庭に現れるイツキさんが、今日に限って現れなかった。特に何をする気も起きずその場に座っていると、ガイナールドが僕を探しに来た。
「クルツェン坊ちゃん、こちらにおられましたか!」
「ガイナールド、先生はどうしたんですか?」
一瞬、彼の答えが信じられなかった。
「亡くなられました。」
僕は息をのんだ。まさか、イツキさんが死ぬなんて。
「早急に新しい方の手配を致しますが、今日はとりあえず――」
ガイナールドの声は耳に入らない。イツキさんは冒険者なのだから、仕方ないといえば仕方ない。冒険者というのはいつも危険と隣り合わせで、死んだって文句は言えない職業だと彼自身が言っていた。それは分かっているけど。彼は僕の事を一番分かってくれるような気がしていた。真面目に僕の話を聞いてくれたし、その内容を誰かに話す事もしなかった。僕は、彼を一番に信頼していた。なのに、そのイツキさんが死ぬ、だなんて。
「坊ちゃん?」
ガイナールドの声で我に返った。
「どうかされましたか?」
「いえ――何でも。先生がいないのなら、今日は自主練習にします。」
「かしこまりました。」
ガイナールドは去っていった。何もする気は起きなかったけど、練習をしない訳にはいかなかった。休めばその分体がなまっていく。
「とりあえず、素振りからかな。」
自分に言い聞かせて立ち上がる。
音がした――木が揺れる音と、何かが落ちる音。
僕は迷わず音のした方に向かった。
女の子が倒れている。塀を登ろうとしたのだろうか。僕は恐る恐る近付いて声をかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
返事は無い。気を失っているのだろう。このままだと警備兵が駆け付けて、彼女は捕まるだろう。そうするのが一番だ。だけど。
「クルツェン坊ちゃん! 何があったのですか?」
木々の間を抜けた僕は、駆け付けた警備兵に照れ笑いを作ってみせる。
「すみません、手がすべって棒を放り投げてしまって。大丈夫ですから、持ち場に戻って下さい。」
警備兵は安心した様子で去っていった。
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