天地始之事─隠れキリシタンの手作り聖書─
ハコ
一、天地始之事
原題は『天地始之事』。
一章のみの章題と思われるが全体に対してタイトルがあるわけではないので、この書物自体がこう呼ばれている。内容的には旧約聖書における創世記と失楽園に相当する。
そもそもでうすと呼ばれて敬い奉られているのは、天地の主人にして人間、そして万物の御親である。二百もの
でうすはまず十二天(※仏教用語。仏教では世界は十二の層に分けられると考える)をお創りになられた。
その名をあげていくならばべんぼう(※ポルトガル語。
その他にはまんぼう、おりべてん、しだい、ごだい、ぱつぱ、おろは、こんすたんち、ほら、ころてる。(※ポルトガル語、ラテン語、仏教用語が様々に混在しているらしく、もはや意味を読み取れない)
そして十万のぱらいそ(※ポルトガル語。
それから日や月や星をお創りになり、数万のあんじょ(※天使)を思いのままに配下として従えられた。中でも七人のあんじょの中のかしらであるじゅすへる(※ルシフェル)は百の相を持ち持ち、三十二の姿形を持っていた。
それからでうすは万物をお創りになられた。
土、火、水、風、塩、油、そして御自身の骨肉をお入れになり、しくだ、てるしや、くわるた、きんた、せすた、さばた(※ラテン語。月曜~土曜)が経ち、それからようやく七日目に人間の身体が出来上がった。
でうすはご自分の息をその身体に吹き込み、彼にどめいごすのあだん(※日曜日のアダム)とお名づけになられた。この故事により毎週七日目は祝日となったのである。
それから女を一人お創りになってどめいごすのえわ(※日曜日のエヴァ)とお名づけになり、二人を夫婦にさせた。あだんとえわはころてる(※語源不明。楽園に相当している)を与えられ、そこで男子と女子の二人の子をもうけた。えわとあだんはでうすを礼拝するため、それからも日々ぱらいそへと赴いていた。
あるときでうすの御留守を見計らって、数万のあんじょ達をたばかってじゅすへるはこう宣言した。
「このじゅすへるはでうすと同格なのだ。だから私をも拝むと良いのだ」
この言葉を信じてしまったあんじょ達は大喜びで礼拝を始めた。
そこにちょうどえわとあだんがやって来て、「でうす様はおられないのですか」と尋ねた。これに対してじゅすへるはこう言って誑かした。
「我が主は御天に出かけておられる。この私はでうすも同然であるから数万のあんじょ達も残らず私を崇めている。だからお前達もこのじゅすへるを拝んでいればよろしい」
これを聞いたえわとあだんが「私達はでうす様だけを拝むべきではないか」と激しく論じあっているところに、「でうす様が天より帰られた」という先触れの声が聞こえてきた。それを聞いて今までじゅすへるを拝んでいたあんじょ達も、またえわとあだんもはっとしたようになり、慌てて手を合わせて伏し拝んだ。これがすなわち過去のあやまちを正す儀式〝後悔のこんちりさん〟の由来でもある。
この光景を見たでうすはこう忠告した。
「じゅすへるを拝もうとも、まさんの木の実だけは食べてはならぬぞ。さあ、えわとあだんは次には子供を連れて来なさい。お前達の子供に名前を与えようではないか」
その情け深いお言葉に一同はみな安心し、帰っていった。
(※マサンはポルトガル語。林檎。知恵の木の実は林檎だと言われていた)
一方じゅすへるはこれを聞いて却ってえわとあだんをなんとかして騙してやろうという心を抱き、ころてるへと急いでいた。
道中にてあろうことかまさんの木の実を取っていき、えわとあだんの住処にやってきて「あだんはどこだね」と尋ねた。それに対してえわは「彼はぱらいその門の番をする仕事に行きました」と答えた。
そこでじゅすへるは「私はでうすのお使いで来たのだ。お前の子供にすぐ名前を付けてやるとの事だから、早く子供を連れてくるが良い」と言うとえわはそれを信じてこう労った。
「わざわざ伝えに来てくれてありがとうございます。ところで、貴方様が先ほどから食べておられる物は一体何なのですか?」
じゅすへるはこう答えた。
「これはまさんの木の実だよ」。
えわは非常に驚いてこう尋ねた。
「それはご法度の物と聞いておりますのに。食べても良いものなのでしょうか?」
そこでじゅすへるは大きな嘘をついた。
「この木の実はでうすの物でありこの私の物でもあるのだ。なぜならばこれを食べればみんながでうすと同等になるのだ。それゆえにご法度にされているのだよ」
それを聞いたえわは「そうなのですか」と言って信じてしまい、じゅすへるはほくそ笑んだ。
そうしてまさんの木の実をえわに渡し、「お前もこれを食べて私と同じ地位になろうではないか」と勧めると、それを信じたえわは喜んで木の実を受け取り、そして食べてしまった。
さらにじゅすへるは「こちらの実はあだんに食わせるが良い。そして子供を早く連れてくるんだよ」と言って木の実をもう一つ渡し、帰ったふりをして木陰に隠れるとずっと彼らの様子を窺っているのだった。
やがてあだんが帰って来るとえわは先ほどの出来事を残らず彼に話し、託された木の実をあだんにも分け与えた。あだんもまた、疑いながらではあったがその木の実を手にして食べてしまった。
かかるところにあら不思議、どこからともなくでうすが現れて「どういうことだ、あだんよ。それは悪の実であったのだぞ」と仰せになった。
あだんははっと仰天し、慌ててそれを吐き出そうとしたものの喉に引っかかってしまった。そうして途端におそろしいことになった。えわもあだんもたちまちのうちに天の悦びが身体から失われていき、姿までもが衰え始めた。この時すぐにさるべひしなのおらしょを勤め、天に叫んで地に伏せ、血の涙を流しながら千度も後悔したがすでに手遅れであったのだ。
(※サルベヒシナのオラショ。祈祷文を読み上げて神への赦しを乞う、隠れキリシタンにとって重要な儀式)
それからやや後にでうすに対して「私に今一度、ぱらいその悦びを受けさせて下さい」と慈悲を乞った。これに対してでうすはこう仰せになった。
「それならば四百余年のあいだ後悔するがいい。その後にぱらいそにふたたび召し上げてやろうではないか」
またえわは「中天の犬になれ」(※中天は天と地の間の場所)と言って蹴とばされ、あとの行方も分からなくなってしまった。
えわの子孫はそれ以来下界へと降りて行き、畜生の肉を食べ、月や星を拝み、後悔の日々を送りながら生涯を過ごす事になったのだ。
しかし一度得た天の道は決して完全に閉ざされたわけではない。下界には
(※隠れキリシタンの住んだ長崎県沿岸部は斜面が多くまた潮風が強い事から古来石造りの建物が多かった。その石造りに使われる建材の石が合石であり、この記述はつまり、自分達の住んでいる土地の風景こそがでうすとの約束の地であるという確信が示されている)
一方隠れて様子を窺っていたじゅすへるはいつの間にか鼻が長く伸び、口が大きく広がり、手足には鱗が生え、角の生えたおぞましい姿に変身してしまっていた。おそれをなしたじゅすへるはでうすの御前に跪いてこう願い出た。
「私の悪心ゆえにこのような有様になってしまいました。この先どうなるのかが恐ろしくてたまりません。なにとぞ私にもぱらいその悦びをもう一度味わわせて下さい」
これに対してでうすはこう仰った。
「悪性なお前をもはや天には置いておけぬ。下界ではえわの子供達が後悔の日々を送っているのでそこにも置けぬ。よって己は雷の神になれ」
この沙汰によってじゅすへるは十相の位を与えられ、中天の支配者となる事を許されたのだった。そしてじゅすへるを拝んだあんじょはみんな、悲しい事にことごとく天狗(※悪魔を天狗と呼ぶ)となって中天に下っていったのである。
【註釈】
旧約聖書の創世記と失楽園の物語をダイジェストにしたような内容。
大きな相違点としては神が堕天使ルシフェルを崇拝する事に対して寛容な姿勢を見せている事である。これは偽装の一環として仏像を拝んだり法事を行う隠れキリシタン達の心情に合わせて変質していった要素であろう。
またエヴァ(イブ)を惑わせて禁断の木の実を口にさせる蛇の役をもルシフェルがこなしている。キリスト教世界において最大の悪魔とされているルシフェルへの罰も中天の雷神への降格という比較的寛容なものになっている。
隠れキリシタン達にとっての重要な儀式であるコンチリサンやオラショの由来説話としての意味も加えられているが、諸風習の起源を語る姿勢はこの物語が自分達にとっての歴史的事実である事の証明でもある。
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