朝、目が覚めたら君がいなかった

ごんべい

朝、目が覚めたら君がいなかった


『おはよう』

 

 声をかけられて、意識が朦朧としたまま、起き上がる。

 聞き慣れた女性の声。快活で、僕に活力を与えてくれる声だ。だけど、声が聞こえるだけで、その人の姿が曖昧だった。


『ねぇ、ちゃんと起きなきゃ。もう朝ごはんできてるんだから。顔を洗ってしゃきっとする!』

「うん……」

 

 頭に霞がかかったようなままで、言われるがままに起き上がって、洗面所で顔を洗う。 

 だけど、冷たくもなければ、熱くもない。ただ、無色透明の何かが顔を撫でるような不快感があるだけ。それでも僕は

何度か顔を撫でた、その行為には意味はなくても、まるでそうしなければならないかのように。


『どう、朝ごはん、おいしい?』

「うん、おいしいよ……」

 

 食卓に着くと、そこにはトースト、サラダ、目玉焼き、ソーセージとコーヒー。スタンダードな朝食。自分じゃ絶対にトーストを焼いただけで終わりだな、と思いつつ、それらを口に運ぶ。

 味は、するんだかしないんだか。彼女の料理が下手というわけではないんだろう。きっと僕の味覚がおかしくなってしまっただけかもしれない。

 とにかく、何も考えられない。味がするとかしないとか、そんなことどうでもいい。とにかく僕は、彼女が作ってくれた朝食を食べながら、彼女の言うことを聞くのが正しいあり方なのだから、何かを疑問に感じる必要はないだろう。

 

『昨日はお仕事お疲れさま。今日も一日頑張ってね。私応援してるから』 

「ありがとう……」


 身体が少しだけ熱くなる。何度も同じ台詞を聞いたような気がする。

 少しずつ、頭にかかった霞がとれていくような。不思議な感覚だ。意識が沈んだ深海から引き上げられていくような心地よい浮遊感と、この微睡みの中に溺れていたいという感情が僕の中でせめぎあっている。


『さぁ、朝ごはんは食べ終わったみたいだね。あなたが美味しそうに朝ごはんを食べてくれるから、私、嬉しくなっちゃうよ』

「君の作ってくれたご飯は本当に、美味しいから」

『ふふ、ありがとう』

 

 そういえば、ここはどこなんだろう。

 僕の家じゃないみたいだ。僕の家はこんなに広くないし、そういえば僕の目の前にいるこの娘は誰なんだっけ。毎日聞いているはずの声なんだけど。思い出せない。

 急に、怖くなった。僕はもしかしておかしくなってしまったのか? 


「あの、君は一体誰なんだ?」

『それじゃあ、そろそろお仕事行かなきゃね。私、ちゃんと家で待ってるから、その、できるだけ早く帰ってきてね……?』


 甘えたような声。だけど、ちっとも、嬉しくなかった。僕の言葉は完全に無視されて、まるで聞こえてないかのように、彼女の中だけで話が進んでいるみたいだった。


「あのさ、ここはどこで、君は誰で、なんで僕の言うこと無視するんだ」

『いってらっしゃいの、キス、するね……?』


 噛み合わない。絶望的に。切羽詰まった僕なんかお構いなしに彼女は勝手に僕の方に近づいてきて、わざとらしく音をたててキスをした。

 気づけばもう玄関らしき場所だった。僕は何故か知らないうちに靴を履いていて、スーツを来ていて、覚えのない会社に行かなきゃいけないことになっている。

 異常だ。

 何より、彼女の顔も鮮明じゃない。キスをされても何も感じなかった。人間らしい温かみが全くなくて、僕は一体何とキスをしたんだ。


『それじゃあ、いってらっしゃい。あなた』

「ちょっと、待って、僕は一体どうすれば……」

 

 次の瞬間、僕は道路に立っていた。


「あ……!」 

 

 迫ってくるトラックから逃げられない。身体が動かない。死ぬ。間違いなく。訳もわからないまま、動け、動け、動け……!


「うわああああああっ!」


 

 目が、覚めた。


 耳に入れたイヤホンから、声が聞こえてくる。


『おかえりなさい、あなた』

 

 再生リストが次の項目になったらしい。さっきまで僕を起こしてくれたボイスドラマの声は、もう朝になったというのに、おかえりなさい、と言っている。

 

「はは……。夢か」

 

 もちろん、彼女はどこにもいない。散らかった部屋と、汗でへばりついた気持ち悪い服と、僕だけが現実に取り残されていた。


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