(18) この年の東京開催最終日
ジャパンカップ当日。
弥生の騎乗は3鞍。最初の第2レースで本場馬入場し、返し馬から並足に移ったとき、
―― お前をジャパンカップに出走させたかった。
タイムシーフの声が頭の中に流れた。
「えっ!?」
不意のことで、おどろいて思わず声が出たが、周囲に誰もいないので問題なかった。
―― この広い東京コースで、世界の面々と競わせたかった。
低い、しわがれた男の声が頭に流れた。
弥生は周囲を見回し、人がいないのをしっかり確認したあと、
「おとうさん、ありがとう」
中空に向かって声を発した。カメラが追っているかもしれないので、口はほとんど開けなかった。
しかし、父親の思いとは対照的に、弥生はジャパンカップにそれほどの思いはない。弥生がジョッキーを本格的に目指してからのジャパンカップは、とても国際的な感じのものではなかったからだ。
―― きっとおとうさんが花形ジョッキーの頃は、今とは違ったんだろうな。
そう思っていた。今回のローテーションの件も、ジャパンカップと有馬のどちらかしか出られないのであれば、弥生としては有馬の方がいいと思っていたほどだ。
その第2レースは後方を中団から伸び、16頭立ての5着と健闘した。13番人気の馬なので、調教師からは笑顔で迎えられた。
「距離的には、どうかな? 伸ばしてみた方がいいかな?」
調教師から聞かれた弥生は、キョトンとして言葉に詰まってしまった。毎年リーディングを争う関西の大御所調教師だったからだ。まさか自分にアドバイスを求めてくるなど思ってもみなかったからだ。
「うーん、そうですね。ゴール前でちょっと止まった感じがしましたから、やはり今日と同じマイルあたりがいいかと思います。もうちょっと馬群が固まれば、チャンスがあるんじゃないでしょうか」
すぐさま、ソツなく返答した。しかしこれは弥生ではない。スッとなにかが入り込んで、自分の身体を使ってハキハキとコメントしてしまったのだ。もちろんこれは、父の御崎矢紘の仕業だ。
―― もう、おとうさんっ!
弥生は心の中でカンカンに怒った。
―― せっかくテキ(調教師)が振ってくれてるのに、言葉に詰まるバカがあるかっ!
弥生は怒り返された。
―― ごめんなさい。
―― ちゃんと信用を勝ち取って、次の依頼をまわしてもらうんだ!
―― はい。
―― 今年でおれの憑依は終わるんだぞ。それからは自分自身でちゃんとやらなきゃいけないんだぞ!
今年いっぱい。弥生は涙が溢れそうになった。分かってはいるのだが、ストレートに言われると、耐えきれなくなる。
―― バカっ! 競馬場内だぞ。泣くんじゃない。
―― でも……。
―― さぁ、次に乗る第4レースは岡平の馬だろ。泣き顔見せるな。またおれのせいにするから、あいつは。
―― はい。
弥生はグッと歯を食いしばって涙をこらえた。
その第4レースは11着に沈み、もう一つ、第6レースの新馬戦は7着となった。これでこの日の騎乗を終えた。そして、激動のこの年の、東京競馬場での騎乗も終えたことになる。弥生はコースを去るとき、ゴール前に目を走らせた。ダービーを頂点に、ヴィクトリアマイル、エプソムカップ、毎日王冠、アルゼンチン共和国杯など、さまざまな思い出が詰まる今年の東京芝コースのゴール板だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます