短篇集

橘右近

第1話|麗らかな恋の花

 春。

 桜が咲き始めた頃、私は学校を卒業した。

 卒業式も無事に終わり、学校生活最後を名残惜しむようにして、卒業生達は校舎やら校庭やらに集まっていた。

 先生方に挨拶を済ませた私は、特に用はないと生徒達の間をくぐり抜け門を出る。


志奈しなー!これから皆でお茶していこうよ!」


 背後から声がかけられ、私は振り向く。泣き腫らした目で卒業証書を振りながら私に声をかけた友人と、いつもお昼を一緒に食べていた数人の女生徒が笑って立っていた。

 どうやら私が来るのを待っているようだが、返事は彼女達の期待するものではなかった。


「あー、ごめーん。私帰るわ」

「えー!?何で!」

「またねー」


 私は詳しい理由も述べずに、さっさとその場を立ち去った。


 理由を言ったところで、彼女達がすんなりと受け入れるはずがない。学校最後の日というのは特別な日なのだ。その記念日に親を入院にでもさせない以上、どんな理由を並べても無駄に終わる。


 でも、いくら特別な日だろうが話す内容なんて日常とさほど変わらない。ましてや卒業式も普段の授業も大差ない私にとって、特別なんてものは存在しないのだ。進学先だって同じだし、またすぐに顔を合わせることになるのに今更何を話すと言うんだろう。


 早くこたつに入ってミカンが食べたい。家路の途中、そんなことを黙々と考えていた。


「ただいまー。はー、疲れた」

「こら!帰ってきて早々、こたつでごろごろして!ちょっとは家のこと手伝いなさい!」

「今、休憩中ー」

「まったくもう、誰に似たのかしら」

「お母さんでしょ」


 玄関を開けてこたつに直行した私に文句を言う母。のらりくらりと返答しようものなら、母の怒りが飛んでくる。

 調子に乗りすぎた私は、頬をつねられるといういらぬ罰をもらってしまった。

(ふん、おこりんぼオババ)今度はちゃんと心の中で言っておく。


 昼食の準備をする母が奏でる音を聞きながら、こたつで温もりミカンを頬張る。なんとも贅沢な時間を過ごしてるなぁとしみじみ思ったところで、帰り際にお茶へ誘ってくれた友達のことを思い出した。


 今頃彼女達はどこかでお昼を食べているのだろうか?尽きることのない会話を楽しみながら。

 いつも昼食は彼女達と一緒だったが、私はほとんど聞き役に回っていた。ぽんぽんと話題が変わるのを面白がって見ていただけである。

 そんな私は、人に言わせるとマイペースらしい。確かに学校に対し何の思い出もないのだから、淡白は淡白だろう。

(うーん、ちょっと虚しいかな?)

 こてんとこたつの上に頭を乗せ、体重を預けた。

 その際に視界に飛び込んできた数冊の本で、一つ訂正事項を思い出す。


 何の思い出もないわけではなかった。私は『図書室』にいることが大好きだったのだ。


「あ、志奈さん。こんにちわ」


 クラスの違う図書委員さんに名前を覚えられる程の常連である私。唯一ほっとできる場所がここだった。

 凛とした雰囲気の中に流れる穏やかな空気。書籍の匂い。ああ、落ち着くなぁ。

 本の返却の手続きをしてもらっている間、私は深く息を吸った。


「……もうすぐ卒業ですね」


 作業を終えた図書委員の島崎しまざきくんは、とんとんと机の上で本の背を揃えながらそんなことを言った。

 彼も私と同じく、もう時期卒業生となる。

「そうですね」と相槌を打つように答えると、島崎くんは少し照れたように笑って言葉をつなげた。


「何だか寂しくなるなぁと思って」

「そうですよね。ここに来れなくなるんだなと思うと、寂しいです」


 ちょっと考えて、色んな本を読むことが簡単には出来なくなることだと思い、そう返事をした。


「志奈さんは本がお好きですよね」

「はい。学校に来る楽しみといったら、本を読むことくらいですから」

「そうなんですか?」


 意外だとばかりに驚きの表情を見せる彼に、私の方が息を呑んでしまった。何かおかしいことを言っただろうか?


「他に何か思い出に残っていることはありますか?」

「うーん……あまりない、かなぁ。私、少し感情に乏しい部分があるのかもしれません」


 自慢できることじゃないですねと、乾いた笑いを口にする。何となく、自分の言った言葉が胸に引っかかった。

 島崎くんは一呼吸分の時間、黙って私を見つめ、そして静かに口を開いた。


「本を借りていかれませんか?」


 突然のことに、今度は私が島崎くんの顔をまじまじと見つめることになった。

「いいんですか?」卒業も間近だというのに。

 しかし、島崎くんは穏やかに微笑んで頷く。


「はい。卒業式当日もここは開いてますし、僕も二時頃まではいますから。それまでに返却して下さい」


「お待ちしています」と最後に島崎くんは言った。


 最後……そうなのだ。

 学校の図書室で本を借りれるのはその日が最後だった。


 ツキン。

 何かが胸に引っかかり小さな傷を残す。

 卒業を意識し始めた頃から、この傷痕は少しずつ増えていった。

 これが何であるかはわからないが、考えるとどうしようもない不安にかられそうになり、そうなる一歩手前で私はいつも回路を断ち切っていた。

 一度ちゃんと考えた方がいいのかな?……ああでもダメ。不安は大嫌いなんだから。

 この繰り返しである。


 卒業式を終えた今、この引っかかりは消えるだろうと思っていたのだが、人の心理というものはなかなか難しい。

 ……と、そこまで考えて私の時間は止まった。

 卒業式?島崎くんに言われた本の返却日って……今日じゃない!!

 私はばたばたと足音を立てながら自室へ向かう。

 案の定、本日返すはずの本は机の上にしっかりと乗っていた。


 はぁ、と一つため息をついて本を手に取る。

 忘れないようにと前日に準備していたのにもかかわらず、今帰ってきた道を戻らなければならないなんて、全く自分が情けない。

 どこか恨めしいような顔で本を見つめると、またあの感覚が胸に宿った。


 一体何だと言うのだろう?

 今度も図書室のことを考えたらの結果だった。

 この本を返したら、本当に最後になってしまう。そう考えたのだ。

 私って、そんなにあの図書室が好きだったんだ……。

 だからといってこのまま返却しなければ胸のひっかかりはなくなるかというと、そうでもない気がする。それに、借りたものは返さないとまずいだろう。


 ぱらぱらとページをめくり、裏表紙を面にして本を閉じると、何やら違和感を抱いた。指が表紙と本との隙間に異物を感じたのだ。今まで気付かなかったが、確かに何かが挟まっているようで、平らであるはずの面は段差を生じている。

 不思議に思いながらも、隙間からその原因を取り出した。

 長方形の白い封筒には「高倉志奈様」と記してあった。私宛の……手紙?

 半分わくわくしながら裏を見ると、私の胸は一つ大きく鳴った。差出人の名前が、島崎くんだったから。


 ドキ、ドキ…

 高鳴る鼓動と共に、刃物で封を切る。

 どこか懐かしいその文字は、丁寧に書かれていた。


「――拝啓

 日ごとに桜のつぼみが膨らみを増し、それと共に卒業が間近であることを意識致します。

 先日、あなたとお話ししたことで、僕の尊敬する先生の言葉を思い出しました。

 今回はその言葉を贈ります。

『人は、自分に足りないものを補うために、人を求め、そして大切にするのだ。』

 あなたの大切なものは何ですか?

 僕は、あなたと出会い、図書室で過ごせた日々を大切に思います。

 あなたの解釈や価値観が、いつも僕の世界を広げてくれました。

 楽しい時間をありがとうございます。これからも様々なご活躍をされることを願っております。

 いつまでもお元気で。敬具

 高倉志奈様へ、島崎宗一朗――」


「あはは、まいったなぁ……せっかく気付かないようにしてたのに」


 そう言った私は、言葉とは裏腹に手紙を胸に抱きしめていた。

 わかっていた。本当はわかっていたのだ。

 卒業が近づくにつれ増えていった小さな傷。考えるとどうしようもない不安にかられてしまいそうだった原因。

 それは、寂しかったから。

 島崎くんと会えなくなる事実を認めたくなかった。だから気付かない振りを懸命に演じてきたのだ。必死で自分を騙してきたのだ。


 でも、それも今日でお終い。

 自分の気持ちを認めた今、偽る必要は何もないのだから。


 そう、私は──島崎くんが好き


「お母さん、私、ちょっと学校に行ってくる!」

「え!?ちょっと、志奈!」


 本を手に家を飛び出す。何も考えずに走って図書室へ向かった。

 肺や喉が焼けるように熱く、痛い。ドアの前で乱れた呼吸を落ち着かせようとしている間、私もなかなかの熱血ぶりじゃないと、頭の片隅で思い吹き出した。


 私は、彼からの手紙にあったようなことが本当に出来ていたのだろうか?私の方がずっと彼に助けてもらっていた。今だってそうなのだから。

『人は、自分に足りないものを補うために、人を求め、そして大切にするのだ。』

 島崎くんの足りないものなんてわからないし、それを補えるのが自分にあるのかもわからない。

 だけど、一つだけ確信していることはあった。


「やあ、志奈さん。卒業おめでとうございます」


 彼の優しい笑顔が私を出迎えてくれる。


「おめでとうございます」


 彼を愛しいと思う気持ち


「本の返却と、頂いたお手紙の返事をしに参りました」


 それが、きっと私の大切なもの───




『あなたの大切なものは何ですか?』



   END



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