隣の雨音

碧靄

断線

断線①

 古ぼけたマンションの一角。殺風景な灰色の床に灰色の壁。

 五階からの景色は、国道を横切っていく乗用車が風切り音をあげていく様子だ。見紛うことなき都心の風景。冷たい社会。孤立な空間。そんな言葉が躍り出てくるのは余計なことを考えたいせいだろう。

 俺の思考は逃避癖があり、現実を見つめたくないときに優しく手を差し伸べてくれる。差し伸べてきた手が離すまでは刹那にすぎないのだが。

 いままでもやってきたことだ。だが、他人の私生活に介入する一歩を超えるときが一番緊張するのだった。その都度今まで押し込めていた本当にこれで良いのか、と異を唱える声が沸き立ってくる。

 元来気の強い性質ではない。頼まれなければ自分からこんなことを進んでやろうとは思わない。いつからこんな事態に巻き込まれることになったのだろう、とまた薄ぼんやりと記憶の川を遡っていると叱責する声が飛んだ。


「おい、なに固まってんだよ。こっちは金払ってるんだから仕事してくれよ」


 背後からかけられる声はまだ年若い、俺とそう変わらない年代だ。若者と世間から揶揄される、過ぎ去っていく時間を謳歌できる唯一の世代。時間に至高の価値を見いだせるならこれ以上輝いている時間はない。

 仕事、という単語を聞いて自分の立場を思い出す。俺は雇われ人であって引き受けた以上は仕事を全うしないといけない。心中で不平不満を述べたところではじまらない。

 俺は観念してインターフォンを押す。黒塗りの樹脂製で一般的に流布されているイメージと違わない。電子音は高らかに室内に響き渡り、外部からのいささかの介入を知らせる鐘となる。

 室内からの返事はかえってこなかったが、パタパタとフローリングを小走りする音が聞こえてきた。鍵が外され、ドアが開かれるが引き連れたチェーンがその動作を止める。そこに見えるのは懐疑的な表情。

 在住者が開けた微少のスペースから俺は顔を覗かせる。せめてもの笑顔を貼り付かせて声をかけた。


「示沢八重、さんですね。こんにちは。すこしお話があるのですが、いまは大丈夫ですか?」

「……なんで、方雄がいるのよ」


 ドアの隙間から顔を覗かせている俺よりも、その背後に立っていた青年の顔を彼女は凝視していた。それも、あまり親交的とはいえない冷たい視線で。

 それもむべなるかな、と思う。彼らは先日アパートの隣人から苦情が入るほどのこっぴどい喧嘩をしたあとなのだから。

 俺は八重という女性が、包帯を巻かれた指をドアの縁にかけているのを見てとった。彼氏からの事前の説明では、割れたガラス片を誤って手に持ったときに切ったということだ。真偽のほどは定かではない。自己弁護のためにこしらえた嘘であろうと俺がやることは特に変わらない。

 方雄と呼ばれていた彼氏のほうは俺の背後で呻くような声を漏らしている。先ほど俺に向けて放った声とは幾分覇気が落ちている。相当手ひどい目に遭ったと聞いたがその部分に関してはあながち嘘ではないのかもしれない。

 俺は糾弾する視線に柔らかな微笑で割り込みながら、敵意がないことをアピールした。


「ごめんなさい、俺は方雄の友人で伊鈴いすずといいます。今回、方雄が八重さんに謝りたいからついてきてくれ、と頼み込まれたのでしかたなくやってきました。本当、大事なところで意気地がないんですよコイツ」

「……っ、おまっ……」


 背後から詰め寄る気配がするが手を置くようにして制した。打ち合わせでは『どんなことをいっても反発しない。強行的な手段は取らない』と約束させていた。それを寸前で思い出したのか、小さく舌打ちする声とともに押し黙る。

 まだ、理性のあるやつで助かった。実際に会ったのは今日が初めてだが、すくなくともメールの文面からはやたらに当たり散らす粗暴な性格ではないことだけはわかった。

 まぁ、それでもまったくの第三者である俺に頼るのは褒められたことではないのだが。いったい依頼してくる側はどこから嗅ぎつけてくるのだろう、といつも不思議に思う。

 俺らのやり取りを仲のいい友人同士がよくやるじゃれ合いだと誤認したのか、ドアを隔てて噴き出して笑う声が聞こえてきた。


「もう会うこともないと思っていたけど。いいわ、伊鈴君に免じて今日は許してあげる。それで、話って?」


 警戒が解けたのか、声に親しさを帯びてくる。どうやら今日の攻城戦ははやくに終わったようだった。いつもなら三十分、悪いときには三日続けて通ってようやくお目通りが叶ったこともある。

 俺はそれなんですけど、とすこし歯切れ悪く答えた。


「すこし外で話そうと思って。こんなにも過ごしやすい天気ですし」

「……あれが?」


 心底困惑する表情を浮かべて八重は視線を上げた。俺もそのあとを追う。

 彼女が見上げた空はどんよりとしたブルーグレイ。ぶ厚い雲が日光を遮っている。雨こそ降る気配を見せないが、たしかに洗濯日和とはいいがたい。お出かけ日和とはまた遠い。

 この世にこんな不可思議な生物が生存しているのか、という不躾な視線が突き刺さるが俺は意にも介さない。


「それ、本気で言ってる?」

「もちろん。最近暑かったですし、涼しくてありがたいくらいです」


 梅雨を控え、気温も春のような陽気さを通り越そうとしている。今日の曇天は何日も続いていた天候に影を落としたような光景だった。だが温度も下がり、過ごしやすい気候だと暑さが苦手な俺は思っている。

 もし付け加えるなら、俺たちの心情を反映してそうでぴったりだ、ということだろう。

 他人の別れ話に首を突っ込むんだったら、薄暗い程度がちょうどいい。



 『別れ屋』。

 俺はそんな専門稼業をうたったおぼえはない。仲間内のもめ事を鎮静化させてから次第にそれは噂となり、やがてはそんな妙な名前がつくようになった。

 たいてい、稼業と呼べるほど稼げた試しはないし、相手にするのは同年代だ。出せる金額などたかが知れているし、俺も多くを要求したりしない。晩飯の焼き肉をおごってもらって代金としたやつもいるくらいだ。特上カルビで採算は取った。

 最初の一件をさかのぼれば、ギスギスとした空気の中で過ごすのが嫌で仲裁する気になったというのがはじまりだ。それ以外は仕事という形でいつもどこかの誰かから持ちかけられた。基本的には遠出しても電車で十数分、近ければ徒歩。そんな狭い範囲で起こっているいざこざに介入している。

 いってみれば痴情のもつれだ。当人同士で解決するべき問題で俺が割って入る余地はない、はずだ。しかし古今東西、痴情のもつれが後々尾を引く問題になることもしばしばある。サスペンスものでもよく動機として取り上げられるように、下手をすれば後ろから刺されることだってある。


 それに、問題を起こした当人たちは主観的な意見しか持たないことが多い。距離を離して見つめてみれば見えてくるものもあろうに、どうしても直情的に相手を非難して折り合いがつかなくなる。

 たとえば夫婦喧嘩というものの原因を聞き出すと、とても些細なことからはじまっていたことがわかる。その原因を聞いても部外者はまったく理解ができない。「寝間着を脱ぎ散らかしてそのままにした」とか「疲れて帰ってきても飯が炊けていなかった」、そんな程度の問題だ。きっかけは些細なもので、ため込んでいた不満がなにかのはずみに爆発する。限界までふくらませた風船が、わずかな刺激で破裂するように。

 そうなってしまったら彼らの視野はとても限られたものになる。夫婦でも恋人同士でも、長い時間をともにすると気に食わない点はでてくるものだ。一度噴出してしまえばあとはとめどない。不満を出し終わるまで風船はしぼむことはない。

 そういった莫大なエネルギーを消費してから悟るのだ。「もうこいつとはやっていけない」と。ふとした理解の相違から、気持ちのすれ違いから、彼らはパートナーとしてきた相手に隷属すること、そこから逃げたくなる。ここが夫婦と恋人とされたものたちと違うところだろう。

 恋人たち、元恋人になろうとしている彼らは、すくなくともまだ自分たちに先があると当座は思っている。切り開いていけば新しい道が現れてくるものだと思っている。夫婦同士ではこうはいかない。家庭という足かせはからみついて逃げることを許さない。

 俺はそういった他人の内面を知り続け、恋愛について幻想を抱くのをやめた。メディアで大々的に報道された芸能人の結婚式は長く続いたためしなどあっただろうか。恋愛など一時的な熱情に過ぎないのだろう。


 喫茶店での帰り道、俺は駅までの道をひとりで歩く。街路樹の葉は青々と繁茂しており秋になったら木の葉で埋め尽くされそうだ。住宅地の合間を縫うように作られた細い歩道は、向かいからやってくる歩行人を避けなければ通れない。

 今日の仕事は久々に早く片付いた。互いに物わかりのいいカップルで助かった。いや、元カップル、というべきか。

 大喧嘩を経てふたりのあいだで臨界点を迎えていたのだろう。互いに長く続くはずもないと悟り、喫茶店での会話は穏やかに進んだ。

 普段なら俺が感情的になる彼女のほうを押しとどめたり、平行線をたどる話に嫌気が差して逃げ出そうとする彼氏を引き戻したりと気苦労が多い。万事こんな調子ですめば、と思うがこんな頻繁に別れる事情があってもたまらない。

 

『無事に終わったならふつうに喜べばいいんじゃない?』


 頭の奥から聞こえてくる声に、それもそうかと思い直して素直に帰途に着くことにした。

 住宅街に敷かれていた細い通路から大通りへと抜ける。車の量も増え、人の姿もまばらに見えてくる。ここに来るまでにたどった道を逆算しながら駅への道を歩いた。

 普通に喜ぶというのは、まさかただ万歳をすればいいものでもあるまい。すくなくともひとりでやっても気が晴れるものではない。それとも得た収入で戦利品を買っていくことか。すこし、ブラブラと歩くのも悪くはないかもしれない。

 俺が漠然と思考を続けていると夕飯の献立へとたどり着く。地元まで電車で揺られる距離を考えれば妥当な時刻になるだろう。


『あ、醤油切れてた、味噌も。スーパー寄っていけば?』


 切れていたのはみりんではなかっただろうか。呼びかけてくる声に脳内で返答する。

 まぁ貯蓄しておいてもそう変わることはないだろう。地元のスーパーで買い物をして帰ることにした。よく意外だといわれるが、料理をするのは苦ではない。ただこだわりをかけるほど凝ってもいないのだが。


『しかしアキヒトもよくやるねぇ。毎回毎回疲れて帰るんだからやめればいいのに。お金、バイトで足りてるんでしょ』


 たしかに不可抗力ではじめた割には計画を立てたり、細かな打ち合わせをしたりと労力を払っている気はした。しかしそれを自分で指摘したところでなにになろう。


『自分っていうけど、まだ妄想っていうつもりなの? わたしのこと』


 呆れがちな抑揚が聞こえたあとに、歩道の街路樹へ人影が現れた。その女性は寄りかかるようにしているが、それを人影というには語弊がある。影は地面に映っていないし、後ろの風景が透けて見えるためだ。

 第一印象は白い。肌の青白さと白いワンピースの外見が相まってどことなく病弱な気配を漂わせる。外見の年齢は俺より二歳ほど下のように見えた。背丈も高くなく、身体つきも華奢だった。平均身長に届くか届かないか。その足下は素足で靴は履かれていない。外を歩くには不向きだろうが、漂うように地面から離れているので影響はないものと思える。


『ほら、こうやって姿を現せるし。せめて幽霊っていうべきじゃない』


 そういわれても、通りすがりの人々は突然立ち止まった俺の姿をいぶかしげに見るだけだ。すぐ脇に立っている女にはまったく目もくれていない。つまり、これは俺だけが見えているということで、存在を主張する根拠はなにもない。主観的な評価は頼りにはならない。医者に頼ったところで生温かい視線とともに眼科か精神科での治療を勧められるだろう。

 独立した思考を持っていると主張しているが、たぶんそれは俺が無意識下で行っていた、意識にのぼらなかった思念体が形をなして思考を形成しているのだと思っている。

 意識というのは、考えが及ぶまでに脳内で様々なプロセスを経て考え事という形で表現される。そのプロセスの途中で分岐したようにべつの考えを行っているのがこいつだろう。だから並行して別の考えを生み出しているように俺は錯覚する。

 ようするに、俺は頭がどうかしてしまってこういった妄想を生み出すに至った、と考えている。


『……いっそ清々しいよね。そこまでかたくなに自分がおかしいって思える?』


 考えを読まれたように言葉を継いでくるのは、この妄想が対話する相手を渇望したときに現出するタイミングが関係しているだろう。

 たしかにひとり暮らしをしていてもの悲しさを感じる瞬間というのはある。だが妄想を生み出してまで対話相手を欲しがるほど女々しい性格をしていたのか、と思うとどうもため息でもつきたくなる。


『もう何度もやったから慣れっこだけど。とりあえず、名前で呼んでくれない? 一応、辻愛茉音つじあまねって名前があるんだけど。妄想、って呼ばれてるとちょっとこたえちゃう、かもよ』


 愛茉音。個の人格を主張する俺の妄想は名前を有しているらしい。妄想ならもうすこし神々しいものを期待しても悪い気はしないのだが。無神論者ということで理解しやすそうな普通の女子が選ばれたか。まだ男でなくて華があるというべきか。その点については救いようはあった。

 とにかく愛茉音は今のように語りかけてきたり、姿を現したりする。その頻度は気まぐれ、と形容するしかない。一日出てこないときもあればだらだらと過ごす俺の傍らでずっと話し相手を所望している姿を見かけたりもする。

 たとえ妄想だとしても対話相手がいることは心の安寧を保つ手段にはなる。考え事の整理もつけられるし、調味料の残量を気にかけられる。生活を営むうえでは案外と重宝する。


『普通の女の子として扱わない、ってところがアキヒトなのよねぇ』


 自分の妄想に妄想するって図式はいかがなものだろう。

 いつか心療内科にでも行かなければならないとは思うが、精神的にはむしろ安定しているのだから行く必要もないだろう、と結論づけている。そんなよけいな気を回す余裕もカネもない。

 まぁ自己分析もこのあたりでいいだろう。俺は歩みを再開した。その脇をなぜか徒歩でついてこようとする愛茉音。この妄想は身体を浮かせているのに歩く真似事をしようとする。

 その点について疑念を抱くと、彼女からはさも当然、というような表情で返される。


『歩くっていうのは大事じゃない?』


 それは自分がつねづね心がけている。『ながら歩き』が常態化している世の中、歩くことは蔑ろにされているが見ていると格好がつかないと思っている。

 愛茉音はすこし背をそらしながら、不適な笑みを浮かべる。


『人間として主張するなら、まず歩くことをしゃんとするべきじゃない?』


 それを身体を浮かしたやつに指摘されるなど世も末かな、と思う。

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