コップの中の漣

以星 大悟(旧・咖喱家)

コップの中の漣・上

 田舎暮らしに憧れていた訳じゃない、僕はただ何かに追われる生活から抜け出したかっただけだ。


 体を壊すまで働き続ける日々だった。


 嫌いな相手にも執拗に話しかけて来る相手にも笑顔で対応して、そして売上目標を達成する為にパートのおばちゃんやアルバイトの学生に半ば強制的に売り込み商品を買って貰い、そして予約数が足りなければこれも半ば強制的に予約を取ってもらい。

 店長からは些細な事で叱られ、時には自分が仕出かした失敗を僕の責任だと言い張って、それを鵜呑みにした本部の偉い人に怒られて、それなのに給料は少なくボーナスはカットになって、そして休日は無い。


 そんな日々に、働くだけの日々に僕は疲れてしまった。


 入院先の病院で久しぶりに会った祖父が僕の顔を見るなり『なんじゃあ、春は何時からお化けになったんじゃ?』と言われて、久しぶりにあった祖父にそんな事を言われた僕は落ち込んで、その姿を見た祖父が何時もの悪い笑顔で『ワシな啓二の家に移る事になっての、じゃからあの家はお前にやる、そんで養生せい』と言って来て今に至る訳だ。

 

 祖父が住んでいたのは中途半場に田舎の村で自転車で一時間くらいの場所に少し大きめのスーパーや、大手のハンバーガーチェーン店にホームセンター、他にも色々とあって目の前には大学がある。


 田舎というには色々あるけど、都会と言うには色々と無い。

 つまり中途半端な田舎だ、それでも僕が住んでいた市内に比べれば随分と田舎だ、おかげで煩わしい『頑張る』という強迫観念からは解放された。


 ただ今はこの昭和中期に建てられた古民家なのか判断がし辛い中途半端な田舎の家でのんびりと自堕落な生活が送れている。

 

 高校を卒業してから7年間は働くだけの人生、遊ばず浪費せず楽しまず、ただ働く為に生きる日々で僕の貯金は慎ましくしていれば一年間は自堕落に過ごせる金額が貯まっている。


 それに溜まった有給は現在、消化中でその後の計画は出来ていないけど僕はただこの水の入ったコップの、水面の様にただ働かず本を読みながら過ごすだけだ。


 そう思っていた、まさか近所に住んでいるのがあんな奴だったと知っていたら僕は祖父の提案を断っていた。

 今さっきから水の入ったコップの水面は漣が起きている。

 それはつまりあいつが来たという事だ。

 雄介が……。


「おっす春、また引きこもって読書か?読書家なだけにか?だっはっはははは!」

 

 雄介は縁側で読書をする僕を見るなり大声でそう言った。

 僕の目の前にいる日本人離れした巨躯と日頃の畑仕事で鍛えた体を見せびらかす様にタンクトップを来た大男、彼が雄介だ。

 

 そして例えるなら―――。


 工事現場のコンクリートやアスファルトを粉砕する削岩機の様に五月蠅く、氷河期の到来を思わせる中年オヤジの如き寒い冗談を連発する、騒音公害を人型にした様な男だ。


 こいつがいる事を知っていたら僕はここに引っ越して来なかった。


「んだよ、ノリわりーな。海苔食ってるか海苔?あれを食えばノリが良くなるぜ、海苔だけにな!だっはっはははは!!」


 あああ、腹立たしい!何でこんな奴が僕の隣人なんだ。

 そして何でこいつは僕より生活力が高いんだ!


「おっし、飯にすんぞ病人!今日はいいオクラが手に入ったからな、ほら真向いの玄さん、あの人の作るオクラは美味いぞ、そして元気が出る!肉ばっか食ってる都会産のもやしに必要なのは、肉よりも野菜!そう一汁三菜だ!」

「おい、さっきから黙って聞いていれば、誰が都会産のもやしだ!お前は僕みたいに早朝4時出勤して閉店後12時に帰宅する日々が送れるか?」


 言っていて、悲しくなって来た。

 そうだよね、こんな生活を送っていたら体の一つや二つ壊して当たり前だ。


「成程な、つまりお前は、自分は都会産もやしじゃなく、広島産もやしだと言いたいんだな元市民なだけに!」

「全然違う、一旦もやしから離れろ!」

「そうか、そんじゃ飯にすんぞ」


 疲れる……こいつと話していると本当に疲れる。

 突拍子が無くて、自由気儘で、楽しければそれで良い、その場の勢いで行動して、失敗しても笑いながら前に進んで行く。


 僕は本当にこいつが大嫌いだ。

 

          ※※※※※※※※※※※※※ 

 

 あの後、忘れ物をしたと言って雄介は自分の家に戻って木箱に入った冷や麦を持って来た。

 見た目からしてお中元の時に並べる上等な物の筈だ。

 去年は副店の発注数が足りなくて、問屋もすぐに在庫を切らしてしまって延々と店長に怒られたっけ、その所為なのかあの木箱を見ると少しだけイラっとする。


「いやー親戚から山の様に届くから困ってんだよ、一緒に食って始末してくれ!」

 

 そう笑いながら雄介は我が物顔で玄関からじゃなく縁側から家の中に入り、台所で料理を始める。

 どうやら今日の昼食は冷や麦の様だ。


「そういうや春はミョウガが苦手だったっけな」

「ああそうだけど、ていうかそれ言うの5回目だぞ」

「あ?そーだっけか、まあいいじゃねーか、だっはっはははは!」


 大笑いをしながら雄介は冷や麦と氷水を入れたガラスの器をテーブルに置いて、作った薬味を並べて行く。

 僕もそれを手伝いながら思うのはこの男は普段の物言いや行動に反してとても家庭的な男なんだという事だ。


 世話をされる様になって半月、雄介は昼食と夕食を必ず作りに来てくれる。

 朝食は起きる時間の違いから自分で用意しているけど、昼食を食べる時に何を作ったのか報告しないと行けない、理由は僕がちゃんとした物を食べているかの確認の為だ。


 どうやら祖父に頼まれているらしい。

 確かに体を壊した原因の中には日頃の不摂生もあった、毎食インスタンと冷凍食品で忙しければ菓子パンを食べるだけだった。

 栄養が偏って入院していた頃の僕は異常に痩せいていた。


 今は、不本意だけど雄介のおかげで前よりはまともな体になった。


「んで、今日は何を食ったんだ?また食パンだけか?」

「今日は…サラダ作って食べた」

「お!そうか、うん何事も一歩目が大事だ、踏み出せば二歩目三歩目が出やすくなるからな!」


 本当に苛々する、なんで僕はこいつの言う事に従っているのだろうか。

 祖父に頼まれて僕を世話をしに来ているだけなのに、何時だって真摯に接してそして家族の様に心配してくれる。


 ずっと前に失った、理不尽に奪われたその幸せをこの男と一緒に居ると思い出してしまう。


 ああ、僕は本当にこいつが嫌いだ。

 揺らぎ一つ無い水の入ったコップの、水面の様な僕の心に漣を立たせるこの男が大嫌いだ。

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