第十六話 日廻
青は空高く、茜は未だ早く、闇は遠すぎた。そんな遙かな空と地の間隙を埋めているのは、多色の流動、魔物の生。
隆起し、膨らんだその形はいかにも肥満体のグロテスク。主に全体が丸に近くなってしまっては、どんな生き物の似姿も見て取ることは出来ない。棘に牙すらも埋もれて消え去り、後は多動の表面ヤスリと洞穴の如き口が数多開かれているばかり。
「でも、あれも生きているんだ」
しかし、そんなに醜い代物であっても、違う目線から見て取れば愛玩に足る物となる。それを、空の彼方から聞き及んだ。
曰く、希少種。ならば、我々が守るために食まれることこそ、愛に満ちた行為であるのかもしれなかった。きっと、被捕食者として大人しく身を差し出す、その方が優しい。
「けれども、私は優しくないから」
それを知りつつ、私は意地汚く己の身と隣り合うものばかりを愛して、捕食者に侮蔑の視線を送る。感動的な広き心など、私にはないのだ。私を食べて、なんて好きな人にだって思えない。
ぎゅっと、私を引っ張ってくれるその手を握って、私は宣誓のように呟く。
「生きるために、滅ぼすね」
それは、きっと悪の所業。いずれ、何者かに糾弾される、人間という存在が拡張した際に目立つ瑕疵となるのかもしれなかった。
勿論、それは今ではないし、今すぐ対さなければ我々の存在は守れない。だから、仕方なくも戦うのだ。
「ごめんね……あはっ」
悼み、そうして、私は笑う。
だって、心と繋いだ手はこんなにも温とい。そしてこの非道は何時かの怨すら返せる機会でもあったのだ。
「はい」
だから、私は悪に則り微笑んで、そうして魔法少女の瞳を片手で覆った。なるだけ柔らかく、気持ち悪いエッジを落とすぼかし効果のレイヤーを眼前に一枚ぴたり。
そうすれば、きっと心の世界に醜さはそぎ落とされるはず。そう思って触れた魔法籠もった左手を、彼女はそっと退かした。
「大丈夫だよ、すてっきー」
「心?」
「そんなに、優しくしてくれないで大丈夫。私だって怖いものなんて、もう平気なお年頃なんだよ? 私はすてっきーと同じ方が、むしろ素敵に感じるなー」
お隣さんから、そんな呑気な丸い声が響く。にこりとした心のその瞳に、光が輝く。それは確かな知恵によるもので、私は知らず彼女の純さを馬鹿にしていたことに気づいた。
ああ、心は決して馬鹿ではない。そういうことが好きなだけの、年頃の女の子だったのだ
「そもそも、私のお母さんって、看護師さんだからね。小さな頃から医学書を眺めて患者さんのお写真を見てきたから、お空がちょっと生々しいくらいじゃ、気にはならないよー」
私が苛まれ続けてきたグロテスクな天蓋を見上げて、心はそう述べた。繋がっている手のひらからは、欠片も怖じなんて感じ取れない。ただ、彼女は恐慌に観察に騒々しい地べたの一角で、私のために微笑むのだった。
「でも、これが降ると皆が終わっちゃうのは分かるよ。それに、すてっきーがこの空を嫌がっているっていうのもなんとなく分かった」
そして私もこんな色とりどりのお空、好きじゃないなあと心は続ける。見上げる目線は細められ、本心なんて分からない。けれども彼女は愛らしいままに、勇ましい言葉を口にする
「だったら、こんな大っきな魔物、全部一発でやっつけちゃおう!」
そう、心は発奮した。この天災は数多ではなく、連続した魔物のひとつ。そう思えば大分ましだ。もっとも感じ方が幾ら変化したところで、その質量と威力に変わりはないのだけれど。
患部は空全て。背を伸ばしたところで届かない全てを、逃さず尽く皆殺しにしなければならない。不可能にすら思える、そんなこと。しかし、不安はない。
だって、一人じゃないのだから。
「すてっきーをいじめるやつなんて、全部いなくなっちゃえばいいんだー」
そして心は、ちょっと過激なこと言葉をこっそりと小さく付け足した。ぽやんとした、ふわふわ乙女が、今はとても頼もしい。
そして私達が一歩踏み出そうとしたその時、手を挙げて宇宙を持ち上げている汀さんが、そのまま首をこちらへと向けた。角を傾げて空を引っ掻いてから、彼女は問いかける。
「けらけら。準備おっけー?」
笑う鬼は、続く未来を信じているのだろう。その面には今日これで終わりという気はこれっぽっちも感じられず、むしろ楽観ばかりがその顔に表れていた。
そして、それは私達を疑っていないということでもある。知らず繋いだ手に、力が篭もった。
「心、大丈夫?」
「もっちろん!」
「そう、それならいくよ。――――ワンダリングの坂道】
私は導くための杖となり、空を指で指し示す。飛ぶというのはあまりに戦うのに不安定で危険だ。だから、踏みしめられるガイドをを創る。彷徨い歩かせるために、その坂道は空へまで続く。決して真っ直ぐでないその路の有様が、私の心根を表している。
それは漠然とした魔で創られた真白い光の坂道。しかし、迷いなく私達はそこに向かって一歩を踏み出した。私と心は、空を歩み出す。
「滴の姿が杖に変わった……それに今ふりっふり姿の心ちゃんが空の何かを踏んで歩いているというのは勘で判るが、どうにも見て取れないな。仕方ない。申し訳ないが頼んだぞ、滴。なあに、失敗しても俺がいる」
「そうそう。なんなら奥の手もあることだし、遠慮無く自分の力を試してきなさいな」
「ありがとう、お兄さんにアリスさん」
最高に頼もしい二人に見送られながら、私は誰にも見えない笑顔を作った。仮面を被った方が、自由な表情が出来る。きっと、私の顔はだらしなく緩んでいるだろう。
そんな私と別種に興奮した心は、声量を落とすことなく私に耳打ちした。
「あの人、前にテレビでよく見たすてっきーのお兄さんだったね! なら、お隣はお姉さん?」
【えっと……そうなったら、いいかもしれないね……】
お兄さんの隣に、ずっとアリスさんがいる。その近くに私も置いてくれたら、と思わずにはいられなかった。そう、好きな人が一緒は嬉しいし、その形が家族であったらより、と考えてしまうのだ。
もっと一緒に、ずっと。私には、そんな未来が望ましい。ならば、皆幸せな将来のためにも頑張らないと。
【それじゃあ、発とうか】
「うん、走っていこう!」
私は鬱陶しいくらいに長い髪を棚引かせ、掛け声出した心と共に駆け出す。
心残りの全ては足元に。私の全てが地平に貼り付くものなら、そのレイヤー一枚を大切にすればいい。そう、人間こそ私の守るべきもの。そして、ついでに愛すべき生命を救えたら。
危機に高まる、愛。千里に広がった眼下に、私は美しいものを認める。庇い合う、全て。争いだって自愛から来るもので、小さく必死であった。きらきらきらきら、私が見て取れる唯一の星はこの地にあって。
【ああ、だからお父さんは――】
自分と交差点の少ない生命をすら愛し、死――お母さん――をも愛せたのか。
視点ばかりを高くし、それだけで僅かに悟った私は僅か留まって、そのためらいごと心に引かれていった。
巡り、螺旋となって高まって行く道を駆ける、二つの足は止まらない。目指すは、肥大化した魔物の海。手を伸ばせば届きそうなそれに向かって走った。
魔天見渡す限りが生のグロ。ガチガチと噛み合う歯の刃に、奇々怪々な襞ばかりの表面がどんどん近くなる。魔天の認めざるを得ない圧倒的な質量に、強ばる口元を感じ、そうして真剣な心の表情を認める。
「すっごい、大きさ」
【そう、だね】
二つの呟きは、蠕動音に呑まれていく。空に走った緊張を、感じる。私は、共に矢面に立ってくれた心に感謝しながら、ひと言何をかけてあげればいいかを考えた。
少しあぐねて広がった時間。上手く踏み出せない足。そこに走る震えを克たせるための言葉は、と私は悩む。騒音ばかりが煩いその時、懸命な鳴き声が響いた。
「わんわんっ! 滴ちゃんと心ちゃん、頑張ってー!】
遠く真下から聞こえるは、そんな茉莉ちゃんの声。そんな、吠えるような励ましに私は、はっとした。
【そうだ、頑張るんだ……】
「すてっきー?」
【私には心が居る。だから、頑張れるし頑張りたい。確かに怖いよ……でも、怖いからこそ、前に進まないと!】
そう、前に。震える足での一歩。恐怖こそが獣であるならば、その踏破こそが人間の証。頑張るからこそ、生きていられる。私はこれ以上なく、燃え上がった。
【下を見て、頑張れるというのは判る。でも……ずっと下ばかり見ていたのは駄目だった! でも、勇気を出して、私はこれからやっと立ち向かうんだ!】
遅い。優しさの綿の中で、全てが遅きに失している。本当は生まれたその日に、全てを賭して魔物と戦うのを誓うことがきっと、正しい人間らしさだった。
だって、私は知っていたのだから。ただ一人、魔物の捕食を、それを自然と識っていた。だったら、一人が怖いと怯えていないで、魔物という自然を征服しようとしても良かったのに。
私が目を伏せている間に、どれだけ多くの死が上からもたらされていたことだろう。それを判って私はこれまで、罪悪感に呑まれていた。けれども、すくんでいるばかりで、どうする。頑張るんだ。今からでも。
「すてっきー……輝いてる……」
そんな感情は演出と繋がり、私のアバター杖の一体全体を光で輝かせることとなった。少し、恥ずかしい。けれどもそれがどうしたことだろう。照れは足かせになってはいけない。それは更なる高揚に結実しなければならないだろう。
そう、どんどんと、高みへ。自棄に開き直りこそ、時に人を強くさせる。
「私も負けていられないね……行っくぞー! ……あれ」
【なっ!】
そして私達は天を目指した。そして、数多の漏洩を認める。
手のひらに何時までも増えゆく水を溜めておくことなど出来ない。だからそれはきっと、汀さんの指の間から零れ落ちたものだったのだ。
そう、とうとう臨界点を越えて、魔物があまりに巨大になった全体をぽろぽろ落としていく。雨のような全て、その一粒一粒が魔物である。私達はその事態に、慌てる。
【降り、始めた】
「急がないと!」
未だ大部分は、空に在る。大元を切り取れば、全てはそのうち末端が壊死していくのは間違いない。だから、急ぐのは当たり前。
しかし、これから私達が魔天本体を何とかすることが出来たとしても、その間に人々に被害は多分に出てしまうことだろう。このままでは、死が地に蔓延してしまうに違いない。
それは嫌だ。けれども。
【気にせず、行くよ!】
「うん!」
【貝殻オーニング】
今まで足りなかったのは、覚悟。足を止めて悼まずに、ただ真っ直ぐに立ち上がる。その気持ちは今やっと持つことが出来た。
全てを守ることなど不可能。なら、せめて前に進むための視界ばかりを確保する。一歩のための二枚貝の守護。それによって、私達は降りゆく魔物を無視しながら、天へと近づいていく。
「はぁ、はぁ……これくらい近くなら、大丈夫かな……」
【ここ、なら……きっと】
そして、ざあざあ降りの大地を無視しながらしばし。そうしてようやく私達は効果範囲へまで駆けつけられた。そう、魔物の群れの集合体、魔天の目前へと。
それは、数多の生の集合体。薬効によって醜く肥大化したそれは、最早光を透過することもなく、薄暗くいままにひしめき合っている。色も様もダークに変貌し、かつての多貌多色は見る影もない。
零れ落ちるものはまだしも、魔天全体は正しくひとつなぎの巨体のようだった。数多の感覚器を秘めた全ては活発な生命活動を気色悪く続けている。
「気持ち、悪い」
そう、コレに対する感想はそのひと言で足りた。理解し難い、多種の生命。それは、否定するべきものだった。
【(鬨の声)】
「っ!」
勿論、あっちもそれは同じことなのだろう。同じ匂いがしても理解し難い小さな私達を受け止めて、一斉に咆哮を始めた。
魔法で守られていながらも、全身が震えて痛みすら覚えるのを感じながらも、私達はそれに耐えながら対す。震えは、もうない。これは私と魔物との、存亡を賭けた戦いなのだから、怯えている暇なんて、ありえない。
【ラプチャーの網……よし。これで少しは耐えられる】
【(親愛に対する威嚇)】
「うっ、すてっきー。これからどうすればいいの?」
怒号。全ての触腕に組織が攻撃性を持って遍く飛んでくる。拒絶の格子であっても、携挙のネットだとしても、こんな膨大で夥しいものを受け止め続けることなど出来ない。
とうとう恐れ、持った私の手を支えのようにして強く握る心に、私は努めて優しく言った。
【私達の、本気をぶつけよう――心、詠って?】
「詠う?」
至近のあまりの大質量に歪んだ空の中、歪んだふわふわくせっ毛を揺らしながら首をひねる心を、場違いにも可愛いと笑みながら、私は彼女の疑問に答える。
【今までは、私の思いを写したものを、魔法にしていたの。でも、それだけではもう足りない。なら、心も本気で想って、それを言葉にして。それを私は形にするから】
「言葉に、する……詠唱?」
【そう。この世が想いの連続で出来ているのなら、無意味は意味によって救われるのなら、だったら私は心の唄で世界を守りたい。それはきっと、愛よりも美しくて何にも負けないものになるだろうから】
魔天を滅ぼすための、魔法を、紡ぐ。それが、一人で出来ないことなら、心の力を借りてでも。私達なら、負ける筈がない。そう、決めた。
「分かった!」
心の逡巡は一瞬。桃色の波間に埋もれながら、彼女は蕾のように淡い唇を開いて、私の期待に応える。
「――空が愛ばかりなら」
上から下へ、醜いものが流れていく中、その唄は愛らしい声で吟じられた。哀しみを含めて、心の想いは詠われる。
「色は一つで、心も同じ。誰もが青を望んでいく」
邪魔するように、魔天からの攻撃は続いた。次第に、守護の網に孔が空いていく。しかし、そんなものはどうでもいいと、私は彼女の言葉に聞き入った。
「――空に悪があったなら」
そう。あったのなら。
「色は不明で、心は散り散り。不純に涙が零れてしまう」
想像の通りにずっと涙を隠すために、下を向いていた。けれども、今度こそ私は首を上げる。一度もその青を知ることが出来なくても、それでも空を諦めきれなくて。瞳を閉じた心は、更に続ける。
「――それでも、見上げ続けて背伸びする。そんな私達はまるで――――」
その時、零れる、から溢れるに変わった。きっと、汀さんでも耐えられない量に至ったのだろう。自由に、魔天は堕ちてくる。
全てが当たって、網は一様に破られた。後は、丸裸の私達があるばかり。そのまま降り落ちて来れば、私達はどうしようもなく霧散する。
けれども、遅い。遅過ぎる。最早、魔法は私達の心より形になった。彼らの体当たりよりも、私達が詠う方が尚早い。
光の色が、形になった。それは空を見上げ続ける私達の同類、太陽を目指して伸びる花。
「【ひまわり】」
伸びて、届いて。全ての幸せのために。そして、何もかもが光に包まれた。
消えた。落ちた。全ては自由。何もかもが、空色の邪魔をしない。
何一つ掴めない落下の中で、私は眩さに目を細める。
「ああ――あれが」
私は初めて、太陽を見た。そして、目を潰されぬように瞑って、しかし全身にてそれを感じた。陽射しの温もり、それはまるで抱擁のようで。
ああ――世界は光で満ちている。
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