第十五話 楠川


 真昼に生じた空の洞からは、それは、高みから落ち込む、薬剤。いいや、青い彼の言い方だと、漢方が近くあるだろうか。

 その色は、空を映さず、青くない。むしろ、聞き及ぶばかりの黄昏の紅にも夜の黒色にもそれは似通っていないようだった。

 正しくそれは、緑錆色。目に優しい、魔物には見受けられない自然のカラー。けれどもそれは、空に浮かぶものではない筈。悪く言えばアメーバのように震える緑は、強引にも空に血脈を発見して、爆発的に拡がり出した。

 そして、魔物に混じり蕩けて、補色して、それらにこの世に応じた意味を持たせる。具象化。禍々しき偶像は、この世に受肉する。


「なによ、アレ……気持ち悪い」

「空を、何かが覆って……まさか、アレは……」


 地が恐怖に轟く。驚きに、誰もが空を見上げた。私の異常な瞳でなくても見つけられるくらいに陳腐化したそれらは、数多の顎。誰もが脳裏にレッドアラートを点滅させた。

 アイツらはどんどんと肥大化し、繁殖する。あの緑錆の効果は劇的。天上は、はるか空彼方から、彼の物の増殖によって降りてくる。


「魔物……が大きく」

「なるほど。こうして小さな視点で観ると良く分かる。何がどう作用して彼らが病気を克己しているのか今ひとつ不明だったけれども、それは滋養によるものだったか。存在太らし、隣の接点に繋がる程の、ね】


 青は、さっきまでびゅうびゅうとしていた頭蓋はどうしたのか、当然のように傷一つない完全体で、言う。彼が健太君の爪をかり、と噛んだ音が大きく響いた。

 晴れとは何か。腫れぼったい空しか知らない私でも、ここまでの、今にも届いてきそうな臨界点に至った天を知らない。

 最早誰にも汚くて危険と分かる空を見上げて慄く私の隣で、お兄さんの声が聞こえた。


「あれ、アリスなら無かったことに、出来ないか?」

「やってみたけれど無理、ね」


 知らない間にアリスさんの手に握られていたのは、曖昧な白。悪には汚せない、純。けれどもこの世の全てを希釈し削り取る、そんな無限大の白点ですら、空の魔物の存在を消せない。

 太り、空を低くするその数多はむしろ元気そうにして、終末と一緒に訪れる。

 私は呆然と埋まり始めた空を見上げて、ぽつりと呟く。


「……この世のものでは消せなくて当然だよね。空の魔物達は、この世界に接している部分が僅か、だから」


 アリスさんが手にしているのは、天なるものが落としたもの。けれどもそれは、この世界の道理の最高決定権でしかなかった。故に、異世界と境を自由にしている不定形には、通じない。


「ああ……」


 嘆息。ぶるぶると、ハンドバッグの中で煩い携帯電話に気づきながら、私はそれを無視する。自分の中のもの以外の悲鳴を聞きたくはなくて。それが、心のものであったら尚更に。一杯一杯で、目を空から逸らせないままに、私は二人の声を聴く。


「……つまり、空に現出しているアレでも氷山の一角、だと?」

「ふうん。ということは、アレの殆どはこの世という物語の外の要素。消しゴムでは除けないシミのようなもの、ということなのかしらね」

「いいや、シミたるこの世界に落ち込んだ、可愛い形、さ】

「どっちにしろ、手が届かないことは、同じね」


 もう手が届きそうなほどに肥大化した空の数多の魔物。しかし、真にあれを受け取れている者は数少ない。分かりやすい表層ばかり触れ得ても、実際的な深淵は私以外の殆ど全てに不明。それでも表層の痛々しいトゲは、容易く我々に突き刺さるというのに。

 それはまるで届かないほどの遠くに心臓部がある、凶器。通常ではとても、壊せない。

 手をぎゅっと閉じる。対して魔物に唯一届き得る私の矛は、小さく頼りない。これでは手を伸ばすまでもなくどうしようもない、と私は錯覚する。


 しかし、それは直ぐ様、否定された。


「いいや――滴ちゃんなら、何とか出来るのではないかな?」


 朗々と、老いたるものが若々しくも。老人が言葉を吐き出す。かつん、という音。持ち主の老いさらばえを支える杖が先を地に当て鳴り響かせた。それは、轟く空の蠕動音よりも、力強く耳に届く。

 その場の誰もが振り向いて、そうして認めたのは、小さな老人。私が小さい頃から親しんでいた、皺だらけの人の形だった。


「我々楠川――侵略者――にとっては、世の平和こそ望ましいのだがね」

「海、お爺さん?」

「爺さん……」


 それは、楠川のお家の、海お爺さん。禿げた額にコブ一つ。それが少し目立つばかりの老人の登場に、最も驚いたのは青い彼だった。自分が這入った目を最大限まで開いてから、叫ぶ。


「なんと。この世には、鬼すら居るのか! 界食動物の先端が、こんな低次にまで歪み届いているとは……】

「ちょいと騒がしいな。下しか見れない小物は少し、黙っていることだね」

「はは、鬼が怖くて不明が見れるかってね! 保守派の大食いの代名詞たる楠がこんなに小さな世界を破らずに在るなんて、どんな奇跡なんだい?】

「それだけで驚くなんて、小さい小さい。何、ここの私は大須の分家でしかないのだよ、隠微生物学者の子よ」

「……楠を、分けた?】

「少しは理解したかい? 手前が今どれほど巨大なものの卵の前にあるか、ということを。大須の彼彼女ら程の次元違いを下に見る愚かを」


 私にはよく分からない。そんな言葉が交わされて、そうして青色は私を見つめることになる。じろりと、ゆっくり私を上から下まで眺めてから、彼は健太君の胸元をぎゅっと握った。同期し、少し大きく膨らんだそれは、吐き出された言葉によって縮まる。


「……はは。ドキドキするな。なるほど。彼どころか僕までも君が恋しい筈だ。……かなわないものに程、手を伸ばしたくなるものだから】

「貴方、は……」


 やはり、言っていることは不明だ。けれども、その青色に何やら情が篭ったことは判る。そんな青色の濁りが、私にはどこか残念に思えてならない。薄曇りは、苦手だ。


「今からでも、遅くはない、かな?】

「そうそう容易く穢に触れたがるものではなかろうよ、若造」


 求めるように私の元へと伸された彼の手。びくりとした私の前に割って入ったのは、海お爺さんだった。


「ぐぅっ】


 対し、当たり前のように大きくなった海お爺さんの左手は、撫でるようにするだけで当然のように健太君の青をべりと剥がす。そうして、そのまま全てを剥く前に、老翁は語りかける。


「さて、覚悟は出来たかな」

「流石は蛮族、僕に対しても、問答無用かい?】

「天上天下、全て食らうばかりの存在に、何を期待していることやら。まあ……だが最後にひと言くらいは、許そう」

「ひと言、か。なら】


 高位を次元違いの物量にて圧倒し、海お爺さんは彼に最後を促す。すると、醜く歪んだ空の上から来たった空色は、やはり私に向かった。

 平たい低次元の重要点に恋を覚えた変わり者の学者は、その表面と僅かに繋がりの残った健太君の面を歪め、そうして、言う。


「……滴、またね】


 頭を横に二度振る。この思いは、きっと残酷。でも、私は好きでもない彼の情を、やはり怖いと思うしかない。


「ふむ……」


 そうして海お爺さんは上澄みの青色を、ぷつん、と握り潰した。いやそれは、圧力で高みへと押し戻した形になるのだろうか。青は空に消え、ぐしゃりと、残り者の健太君は崩れ落ちる。そこに、私は走り寄った。


「健太君!」

「滴。どうだ、アリス?」

「うわー、びっくり」

「何が、だ?」

「あり得ないくらいに健康体ね。消すべき悪いところがひとつもない。あの青色に引っ張られて悪点全部ふるい落とされちゃったんじゃない?」

「つまり無事、ということか」


 近寄る空の鼓動なんて誰も気にせずに、私達は健太君の無事を確認する。続く鼓動に吐息。そして、僅かな瞼の動き。それら全てが、青年の健全を伝えてくれている。そして、アリスさんまで、安心できる言葉を伝えてくれた。

 そんなだから、私は思わず目の端から涙を零して、言う。


「良かった……良かったよおっ」


 そう、良かった。健太君が私の駄々のせいで生命を絶って、そしてそこに怖い何かが憑依して。それでも亡くならなくって、本当に良かった。感激ここに極まって、私はだくだくと涙を流す。


「う、うああぁん!」


 そんな最中にも、空は鳴動している擦れ合い、凄まじい雷が起きる音に悲鳴すら漏れる。眼下の僅かな幸運なんて関係ないと厭らしくも全ては動き続けるのだった。

 でも、そんな天に目もくれず、私は喜びに啼く。だって、好きだった。想いが残滓しか残っていなくても、それでも嫌いにはなれないから。だから、好きだった人が生きていてくれたことに、泣くのだ。

 わんわんと、私は視界を濡らし続ける。


 そんな私の横で、しかし事態は止まらない。縮尺を用いて当たり前のように老人の手に戻ってから再び地をカツンと杖で叩く、海お爺さん。老翁は私の知らない名前を呼んだ。


「……さて、なぎさ

「呼んだ?」


 呼び声に応じ、そこに巨大な一歩で距離を縮めて現れたのは、女の子だった。角二つ、額から生やした知らない少女は私を少し見て手を振ってから笑んだ。

 それは嫌に気色の悪い、捕食者の笑みだった。引きつる泣き顔を感じながら、私は変遷を見上げ続ける。


「滴ちゃんが泣き止むまでの間、あれを抑えていなさい」

「食べちゃだめ?」

「あれは食用ではなく観賞用らしい。どうにも、それは拙いようだ」

「けらけら。不味いなら、止めるー」


 けらけらけらけら。曰く汀さんは、角をぐんと上げてから、笑顔で空を見上げる。そして、認め難い魔物の全体を見て取ってから、口をこそりと動かした。それが、美味しそうという風に発さずとも語っていたのに気づいたのは、私だけだったのだろうか。


「爺さん、この汀とやらで、アレを抑えられるのか?」

「もちろんだとも」


 既知のお爺さんの異常に私以上に目を瞠っていたお兄さん。彼は、当たり前のように動いていく周囲に疑問符を付ける。だが、それに海お爺さんは頷きで応えた。

 よく考えたら、天に己が頂点を伝えるために角かざす鬼どもに、戴天を訊くのは、愚問だったのだろう。


「よいしょ」


 両手を広げて空にかざす。そうしてから汀さんは、よいしょ、のひと言で天を担ぎ上げた。


「ああ、やり過ぎだ。もう少し柔く持ち上げなさい」

「はーい」


 汀さん。彼女は誤って、お空の全てを持ち上げてしまう。それは、境も何もかもを退かしてしまう行為に似ていたのかもしれない。べりべりと、小さな世界は破けた。

 そのために、隣り合う世界の階が垣間見えることになる。地獄の蓋に、天国の底。それは、あまりに霊的で幽かであり、故に誰もが目を凝らしてしまうもの。意識は何時か至るべきそこに向かう。


「よいしょ、っと」


 しかし汀さんはそれをもう一度のよいしょでどすんと閉ざしてしまった。瞬きのような間の昇天堕落の心地に、私は息を呑んだ。反して、天に近いところにあるお兄さんはただ嘆息する。


「はぁ……呆れたな。汀っての、最高とか言われていた俺なんかより、よほどの力があるみたいだ」

「なあに龍夫君なら人のまま、じきにこのくらいは出来るようになるさ」

「俺でそれ程に至る可能性がある、と。……なら、滴は?」


 お兄さんの言葉につられて、全ての高みの視線が私へと向かう。怯え、健太君をぎゅっと抱きしめる私に、柔らかい声で海お爺さんが評する。


「今は私等を涙目で見上げちゃいるが、きっと何時かは大いに須らく、その手に容れることが可能になるだろうね」


 確信持って告げられた予言に、私は目をぱちぱち。驚き、喜びに飽いたためか、そうして最後の涙を零したところで、お兄さんは鬼どもに対して言う。


「だが今は、守られるべき子供だ」


 そんなありがたい言葉に、私はまた嬉しくなってしまう。けれども、赤くなった瞼が再び決壊する前に、海お爺さんは言う。


「……分かっているよ。だから、私だって心苦しくはある」

「けらけら。ちょっと重くなってきたー!」

「汀、我慢なさい。……まあ、だから。滴ちゃん、君は選んで構わない」

「ぐす。選ぶっ、って?」


 判らない。選ぶも何も、私なんかに出来ることは何もないだろう。そう思うが、違うのだろうか。もし、私に今を何とか出来る力があるとしたら、どうしたらいいのだろう。選ぶというのは、そういうことなのだろうか。

 優しい優しい、私達のお爺さん代わり。とても鬼とは思えない海お爺さんは、何時ものような様子で、語る。


「私としては、もうちょっと平穏無事を味わっていたい。故に、滴ちゃんにはひと踏ん張りして欲しくもある。もっとも、君のお父さんは今も守ろうと頑張っているが……どうせ何時かはこの世なんて、私等が圧し潰して消し去ってしまう程度のもの。別に気負って救わなくても構わないのだよ?」


 そんな風に、桁違いの鬼は、言う。優しいお爺さんのまま紡がれたその情ある無情に、私はどこか寂しさを覚える。何となく、私は老翁のうちに巣食った厭世観に窮屈さが入り混じったものを知った。


「私は……」


 だからといって、返せる言葉なんてあるだろうか。言い淀む私。沈黙が僅かに流れた。

 果たして、どう返すべきなのか。鬼々の横でお兄さんとお姉さん代わりがじっと見つめてくれている。救えるものなら、どうするのか。私は果たして何を救いたいのか。じっと考える。



 そこに、ぱたぱたと、空のせめぎ合いの悲鳴から漏れた足音が聞こえ出す。振り向くと、そこには愛すべき彼女が走り寄る姿が見えた。


「すてっきー!」

「心……」


 こんな弱い私を強くしてくれる、最愛の魔法使い。心は、当然のように小さな歩幅で現実を踏んで、私に必死で駆けてくる。ちょこまかと回る足をよく見ると、膝小僧に擦り傷があった。

 きっと、ここに来るまでに相当に急いで痛めたのだろう彼女を受け止めるために、私は彼を手放しそっと地に横たえさせる。その行動に、ためらいなど抱くはずなどなかった。


 そうして、柔らかな衝撃を私は抱く。


「どーん! もう、すてっきー。連絡返ってこなかったから、心配したんだよ?」

「心は、どうして私の居場所が分かったの?」

「分かるよ。分からない、筈がないもの。だって、世界で一番大切なもの、一番おっきなもの、見失うはずなんて、あり得ない」


 温かな、そんな言葉を胸に容れて、そうして私は彼女のふわふわ頭を掻き抱く。そんな一つになった私達を、海お爺さんは面白そうに見た。


「ふむ。どうにも感覚に作用するほどの深い縁の繋がりが見受けられる。なるほど、彼女が滴ちゃんの杖、か」

「違う、逆なの」


 自分の木の杖を撫でながら言うお爺さんに、私はそう返した。そう、決まっている。私は彼女の世界を魔で色付けるもので、それだけでいい。

 恋なんかより、深い愛を手に込めて、私は心と繋がる。



「私が――私は、彼女の魔嬢(まじかるすてっき)」



 私が一番に助けたいのは、この手の先のただ一つ。頑張る理由なんて、それだけで良かった。


「そういうことで良いよね、心」

「うん!」


 笑顔に、笑顔が返る。それがとっても嬉しい。


 二対の視線は真っ直ぐ天に向かう。彼女と私の幸せに、魔物は邪魔だ。だから、一緒に戦おう。ただ、それだけを理由にして、私は空に相対す。



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