第六話 家族


 私の家は、他と違う。それは、家族がおかしいというばかりでない。たとえるならばそこは世界の傷口付近。大幅に狂った流れの中にある。

 だから、それが極まれば、時に死んだはずの母が居ることだってあった。台所の中配膳の手を休め、今もこっちを見て、母は言う。


「お帰りなさい」

「ただいま」


 しかし、目を瞬かせたその間に、優しいその形は消え去る。だが、先の母の姿は妄想ではないのだ。その証拠として、香り豊かに湯気を立てるご飯の数々は、そのまま残っている。


「久しぶり……かな。向こうはそうでもないのかもしれないけれど」


 違う世界から来たっているのか、或いは時が揺らいでいるのか。母は、家と属性を頼りに別界からもよくやって来ている。この世界の彼女は死んでいるのに、愛豊かにも、或いは未練がましくも。

 これが僅かな時間で時折にしか起きないのは、死者がうろつくことが常態であることを世界が許していないためなのだろう。白い私の碗を指でなぞりながら、そう考えた。

 あの日の胸の痛みを思い出す。だが、その悲しみは報われない。これこそ、母の異常だった。


「葬式に、意味があったのかな……」


 亡くなる時に、また来るねと言って目を瞑った母。それがどういう意味か知ったのは、泣きはらしたその翌日のことだった。思い出に浸りながら椅子に座り、私は一人分ばかりの食事の前でいただきますと口にする。


「……死人のご飯も、美味しいんだよね」


 食んだ鮭の塩気の丁度良さに、私は思わずそう零しながらも空手を強く握った。勢いよく、ほかほかご飯を朱塗りの箸を掴んで一口二口。何時ものように動かした逆手は味噌汁をあおらせる。嚥下したその旨味に、私は満足を覚えた。


「はぁ……」


 ぽり、と漬物を齧りながら、ため息を吐く。おかしな中にある日常。こんなのに浸り続けていたのだから、私が今ひとつ普遍を持てていないのも、仕方のないことだと思う。


「私は異常、だからなあ……」


 余所の力で奇想天外に歪められなくても、既に狂った異常はこの世にあった。そう、私を含めたこの家などに。

 こんな家と外とを見比べて、そして出来たのが分析的な私。参照するために偏執的なまでに内へと視線を向けている私は、だからこれまであまり外を見ていなかった。汚いものなど、尚更に。


「でも、これからは、アレも観ないと、ね」

「ほう。何か、あったのか?」

「お父さん……」


 独り言に、返事が返る。父がぽっと、隣の席へと座って相づちを打っていたのだ。母の消え方が異常であれば、今度は現れ方が異常。全く、どうして家の人たちはお兄さん以外まともに世界に馴染めないのだろう。

 上位であれば、画用紙の中の絵の道のりのように、それを変えて縮めることも、消してなかったことにしてしまうのも簡単だ。そんな風にして、父はただ帰宅のために距離も時をも無意味と化させていた。私が言うのも何だけれど、無茶苦茶だ。


 大須というこの世の血溜まり、血栓。それの一。この異常な柱こそ、私の父親だった。


 それにしても、とにかく優しげで美しい母と違い、父は特徴的な面構えをしている。厳めしい、というのがぴったりな渋い表情を湛えた顔。日焼けした肌に、走る皺ですら強い意志を表現しているようにも思えた。

 そんな、父が眉をひそめる。正直なところ、私でも少し怖かった。


「私は滴が見ているよく分からないものの存在を、信じている。とはいえ、見て、曰く魔物と対すことのできるのは、お前だけだ。だが、それでも滴、お前は見て見ぬふりを選んでいたな」

「そうだね」

「それで、お前が良いなら、私も良かった」


 瞳に険は見当たらない。父はどこまでも優しかった。

 家族は、妄想のような私の世界を受け入れてくれている。それだけで救われているというのに、それによる影響を心配までしてくれていた。ありがたいことである。

 そも、私が魔物と呼ぶに至った理由は、父だった。天上の怪奇を普遍的な呼称で堕とせ。そう言ったのが、見目に優しい部分が見当たらないこの人なのである。ならば、と私はアレを魔とそのまま呼んだ。

 せめて呼び方くらい定まったお陰か、以降私の心も少しは凪いだのだった。


「対する気がないならば、それを摂理と考え、定めと思え。諦めるための言葉なんて、他にも至る所に転がっている。確か私は、そう言ったな」

「うん」

「だが、立ち向かう気ならば、今度は相手を敵と考え、餌食とすら思え。別に、翻そうとも恥ではない……奮起させる言葉だってまた、この世には数多あるのだから、利用するべきだ」

上位者お父さんらしい言葉だね」

「だが、そう間違ってはいないだろう」


 茶目っ気を出すつもりなのだろう、片目を瞑って父は言う。やたらと精悍なウィンクに、私は苦笑いで返す。愛が、少し嬉しくて。

 父は下等に均って生まれた私を、どう思っているのだろうか、と考えた時があった。曰く、別段上の者が下のものに目を向けない、なんてことはあり得ず、愚かを愛さない理由も無い、そうだ。

 そんなこんなを、母との馴れ初めを交えて答えてくれた父は、やっぱりずれているのだと思う。


「にしても、あいつは私の分を用意しておいてくれなかったのだな……」

「拗ねないでよ。それに、お母さんが、お料理作らなかったのも仕方ないと思うな。ろくに定刻に家に帰ってこないお父さんだって、悪いんだよ?」

「悪いとは思っているが……」


 偶にしか有り得てはいけない最愛の人の手作り。私から横取りするなんて考えもしないが故に、それを味わえない父は、しょげる。そんな可愛い大人を横目に、私は黙ってずず、と味噌汁を底まですすった。そして、手を合わせる。


「ごちそうさま。……お父さん、何が食べたい? 軽いものなら直ぐ作れるよ」

「娘の手作りか……これはこれで早く帰った甲斐があるな。そうだな……カレーはだめか?」

「……アレを使えば時短出来そうだし、お兄さんの分にもなるから、良いかな」

「頼んだ」


 頷き、私は母の居たはずの調理場へと足を進める。食器整えられ、シンクに水滴一つないその様子に、立つ鳥跡を濁さずということわざを思い出しながら、冷蔵庫の扉を開いた。


「楽しみだな」

「ふふ」


 精一杯、喜びを表情に出している父を横目に、私は冷凍庫から飴色玉ねぎを取り出す。そうしてパックご飯の数を伺いながら、何気なく炊飯ジャーの確認をしてみる。途端、声が漏れた。


「お母さん、分かってたんだ……」


 中で湯気を立てていたのは、おおよそ二人分のご飯。カレー用には丁度いい。勿論、これを用意したのは、夕飯はお兄さんとパスタの予定を立てていた私ではない。母だ。

 しかし、不定期の父の分まであるとすると、それは母が、父が帰ってくること、そしてそれから起きる仔細を、予想していたとしか考えられなかった。神出鬼没の動きを何で、どうして分かったのだろう。愛、という奴のおかげなのだろうか。


「怖い怖い」


 優しい母。しかしその実一番によく判らない怖ろしい人。まあ、幽霊みたいなものだからそれも当然なのかもしれない。薄く笑う私を、父は不思議そうに眺めている。


「それにしても、お兄さん、遅いなあ」


 カレー粉をまぶした野菜を炒めている中、私はあと一人の家族を思う。


 けれどもその日、お兄さんは家に帰ってこなかった。



『スクランブルの羽根』

「わわ、凄い凄い! こころちゃん、飛んでる!」


 飛ぶための揚力、それは引力を引っ掻き回すことによって生まれた。魔力によってぐちゃぐちゃになった指向は、直ぐ様私の意思によって一本化されていく。

 心の背中に展開された黒翼、彼女にはピンクの羽根に見えているだろうそれは、ただの象徴でしかなかった。わかり易さ。だが、それは一定の常識の阻害を生む。

 要は、羽根を創ってあげた方が、心を飛ばしやすいのだった。


「それで……新しく出てきた魔物さんって、どこ?」

『んー。空からだとわかり易いね。あっち』

「わ、園々そのぞの川の側だねー」


 それは、町の端の田園風景溢れる地帯に落ちている。短毛に、四足。それなりに長く首を伸ばしたその姿は、数多の棘を抜けば、どこか放牧的だ。もし、コレを例えるならば、あれだろう。


「ヤギ?」

『そう、見える?』

「大っきくて水色だけど、そう見えるー」


 私の認識、たとえによって堕ちた魔物の姿を心は間違いなくヤギと受け取ってくれた。食性は大分違うだろうが、動作に似たものはあるだろう。そう思いながら、私は心と繋がりながらヤギの魔物の元へと近寄っていく。

 そして地に足を付けたその時に、私は気付いた。


『……やられた』

『(食への歓喜)』

「え? 何? 変……何か、急に見辛くなっちゃった」


 そして、私が見て取ってしまったのは、魔物が行っていた、幼子の踊り食い。急いで、心に与えている情報にノイズをかける。そうして、私は彼の死がなかったことになることを、認めた。

 だが決して、許さないという気持ちになりながら、強く魔物を睨み付けて。


 ぐしゃり、と血が飛び散ったのを、私一人だけが見て取った。


 これは、私が常々避けて通っていたこと。トラウマとの接触を拒んだ私は、それによる被害をずっと黙認していたのと変わりない。だから、今更間に合わなかったことに、怒りを覚える資格なんて、本当はないのだろう。


『でも、でも……これからは、戦うって決めたんだ! それなのに……』

「……すてっきー」


 初めてといっていい、奮起。空から魔物が分断した音に気付いた私は、心を頼りにするために呼んで、放課後に集まり魔法を使った。そして、急いで駆けつけたのだ。その筈なのに、助けられなかった。

 一息足りない遅さを作った自分の躊躇い。それがとても、悔しい。


「途切れ途切れで良く分からないけれど、もしかして、アイツに怒っているの?」

『うん。とっても!』

「なら、このヤギは、私の敵だね!」


 心は形相を変え、私を掴んだ手を伸ばす。そして、きゅっと小さな手の平による握りを強くした。


「頑張って、すてっきー!」

『分かった! 濡羽カッター――――消えろ』


 それは、ぬらりと光る、巨大なカラスの羽の似姿。間違ってインクに浸けて羽ペンのような黒は、私の瞋恚の暗がり。

 切れ味の邪魔になりそうなその水気は、魔物に本体がぶつかったその際に弾けて飛散し、弾と化した。そして、全てが鋭利な、刃として働く。


『思い知れ』


 痛みを知れ。苦しみを覚えろ。そうして、ただ痛めつけるために飛散した刃は大いに対象を傷つけた。


『(過多な刺激による騒々)』


 それは、命に響く刺激。初めて感じる滅びへのカウントダウン。体液を撒き散らして、魔物は暴れた。


『見苦しい』

「えーい!」


 あまりに無防備にしているそれを、心は汁気が取れて輝く羽根の刃で大きく二つに裂いた。だが、食まれた少年は、砕かれ潰された死骸が出てくることはない。

 所詮、地に堕ちた魔物なんて、歯列の一部に過ぎないのだ。きっともう、内臓に運ばれているのだろう。肉体内部の繋がりまでは、私には見てとることは出来ない。

 後は、魔物の残骸なんて、私以外触れ得ないのだから、気にするべきではないだろう。私は淡々と、告げる。


『終わり、ね』

「成敗、だね!」

『ええ……ふぅ、もう、いいわ」

「あ、すてっきー、戻った!」

「ふふ。終わり、ね……」


 そして、私は全てを不通に戻す。魔法での疲れを隠し、そして未だ拭いきれない怒りも蔵して私は笑った。


「本当に、いいの?」

「良いのよ」


 ただ、そんな誤魔化しは通じてくれない。彼女はそう言い、しかし私はそう返した。



 悍ましき空の元。貼り付けた笑顔のままに、下を向く。ただ、繋がった手ばかりが、目に入った。



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