第五話 白杖
魔法、とは何だろうと思う。
このクラスは進みが良いからと随分と先んじて三平方の定理を教えて下さっている先生の言葉の大半を無視して、授業中に私はそんな余計なことを考える。
字面から読み解くと、簡単だ。悪なる迷わしの、法則。今は夢や希望の無法をも包括している言葉ではあるが、私の力は恐らく純な意味に通じている。
何時しか科学は信仰に並んだ。むしろ今や、超えている部分も多々あるだろう。
そう、人の世は定まった法則の観測によって安堵している。故に、接点不足で観測すら出来ない力によって強行される、私の意志というその場その場で引かれて直ぐに消えてしまうような再現性のない無法なんて、邪魔なのだ。
「三角形に、繋がりが増えたら計算が狂っちゃうものね。それにもし……いたずらにこっちを欲されてしまっても、困ったものだし」
私は手の中で、輝くことのない漆黒の力を無為にうねらせた。これは私のものだと、確かめるように。強く、思いを固める。あくまでコレは、魔であると。
実りのない一過性の奇跡など、迷妄しか産まない。そんなこと、分かりきったことだ。また、私は信仰など、別に要りはしない。
「アレ等が、それに値するモノだったら、私の心も平穏だったのかもしれないけれど……」
だが、魔物が神のごとくに振る舞うことはなかった。生き物のように、関係の薄い私達を食むばかり。おかしな力が振るわれることもなく、ただ非常識は常識的に抵抗できない動物を頂いていく。
「捕食者を崇めることも、ないことはないのだろうけれど……アレじゃあ有難味がなさすぎるよ。バカで気持ち悪いもの」
恐らく、魔物たちは知恵足らず。いや、要らず、か。故に、力を持とうと魔法とまではそれを使えない。あれで満足してしまっているから、進化や深化や神化がなかったのだろう。
対して、力持ちで人な私は、それを気楽に操れた。別段、私には人間の範囲に収まる程度の知能しかないというのに。
勿論、全てが意のままではない。だが、私の力に触れた殆どは思い通りになるし、力自体の変化も楽だ。
もっとも、力の限りの結果しか出すことは出来ないのが残念なところだが。だからきっとその気になっても、私の独力で空を青くすることは不可能なのだろう。
私は感覚器から伺える空の歪みを仰ぐことなく伺って、不快からもしも綺麗さっぱりこれを失くせたら、と思わずため息を溢した。
「はぁ」
「ん、誰だ? 大須か……でっかいため息だったな」
私が時と場を弁えずに行った辛気臭い嘆息を、香川裕二(かがわゆうじ)先生は見咎める。痩躯を揺らがせ珍しいものを見た表情をした香川先生に対し、私は疾く頭を下げた。
「授業中に、すみません」
「いや、その大きさが少し、気になっただけだ。まあ若いんだ。授業中だろうが悩むことがあっていいだろう。ただ黒板への集中も、忘れないでくれたらありがたいところだが」
「気をつけます」
香川先生は、数学の先生。そして、私のクラスである二組の担任の先生でもある。何だか薄くて白くて頼りない、と評されたりしているようだが、私は鷹揚なこの先生が嫌いではない。だからつい、真っ直ぐに望んでしまった。
「……っ、それならいい」
だが、香川先生はどうしてだか一拍を空けてから大げさに首を振って、繋がった視線を断ち切る。思わず首を捻る私の他所で、クラスメイトの雑談が湧き出す。
その中から私の耳が、過ち、魔性、等の何だか穏やかではない言葉を拾い始めたその時、先生は咳払いをしてから掌を叩いた。
「ほら。教え子の視線に照れちゃった先生が悪かったからとはいえ、騒ぐなー」
私は、照れ、という香川先生の言葉を上手く呑み込めない。どこに、既婚者の先生が見慣れた私を見て恥ずかしがる要素があるのだろう。私の容姿がそれほど並外れている訳でもあるまいし。
そう、少し悩んでいる最中にも、話は変わって進んでいく。
「あまり、気楽にして貰っても困るぞ。今教えているのは未習とはいえ、そう難しい訳ではないからな。何しろ来年、たっぷりとコレをややこしくしたのが問題として出るんだ。判らなくとも少しは記憶に残しておいた方が有利とは思わないか?」
「ピタゴラスの定理、ですか……」
「お、大須、やる気あるか?」
「どうにも私がお話の腰を折ってしまったようですので、償いとして少しでも助けになれば、と」
「真面目だなあ……」
居住まいを正し、二の舞にならないよう視線を胸元に向けて喋る私を、先生はそう形容した。だが、それは違うと思うのだ。
「ふん。いい子ぶっちゃって……」
反発を抱いたその同時に聞こえた、麻井の呟き。こっちの方が私の評として、きっと正しい。私が行っているのは、角を立てずに済む、誰かの真似ごと。振り、でしかないのだ。なにせ、おかしな私は真っ直ぐになれないのだから。
「じゃあ、これ分かるか? 三センチ、四センチの二辺で直角を挟んだ三角形の斜辺の数値だが……」
「五センチ、ですね」
「おお、正解だ。解き方、説明できるか?」
「目測です」
「えぇ……」
「すみません。冗談です」
先に間違って形容されたことに胸中の反発を抑えきれず、勝手に動いた口は、嘘をつく。こんなつまらないことを言っても、と思ったが時既に遅し、発言は返って来ない。香川先生の長躯が、困惑にうねる。その謝罪には少し、気が入った。
「……おかしなタイミングでの冗談は、止めような。で、本当のところは?」
「勿論、先に教えて頂いた法則から、です。この場合は……」
改めて、私は現から導き出した素敵な法則を使って解法を語る。魔法の杖が口にすることではないな、と思いながらも、私は正解を口から紡ぎ出していった。
「ねー、すてっきー。昨日のは何だったの?」
大きな鳶色の瞳がきらきらと、零れんばかりに見開かれて、下方から私を見つめる。それが、心が持つ綺麗だと気づいて、私は相好を崩した。
「うーん。昨日の、かあ……」
嘘みたいな現実を語るには、少し寂しいくらいが丁度いい。そっと周囲を見上げず足元ばかりを望んでみたら、人集りは遠かった。だが狭い教室内ではこれから私が行うだろう戯言のようなあり得ない会話が届いてしまうかもしれない。
何故か遠巻きにしているクラスメイトに愛想のためにそっと笑んで、私は心の手を掴んだ。
「わっ。すてっきー、大胆!」
「何言ってるの。ほら、おててつないで」
「……わわ、引っ張らないでー」
騒ぐ心の手を引きながら、私は皆が空けてくれた通路を歩く。その際にふと顔を上げて見回してみると、沢井君と目が合うことになった。流石に、金髪は目立つのである。
一応、私は飼い主に声をかけた。
「沢井君。心、借りてくよ」
「ちゃんと洗って返してくれよ?」
「こころちゃんは、おべんと箱じゃなーい!」
「はいはい」
ふざけた言葉に何故か憤慨した心を雑になだめながら、私は早歩きで空場を探す。三時間目の十分休みはそう長いものではない。校舎内は存外声が響くものだし、外に出ようかと思いながらよそ見をして歩く。
そうして、階段を降りた曲がり角にて、私は誰かとぶつかりそうになった。
「おっと」
「ごめんなさい……って、柾君?」
「きゃ。ちょっと痛いよ、すてっきー」
それは、嫌な偶然。私は衝突への驚きに柾君の顔を見上げた。斜め上に張られた面に、彼の悲しみを覗く。思わず、私は心の手をぎゅっと握り締めてしまった。
「ごめんね」
「もー」
私はふくれっ面の心の手を優しく握り直して、再び視線を下げる。そして、ぶつかることすらない柾君を無視するようにして、私達は彼の横をすり抜けた。
「……健太君、とはもう言ってくれないんだね」
「やっぱり、どうも、ね」
「そっか」
複雑を孕んだ音色。すれ違いざまに、柾君は二言ばかり口にした。果たしてこれは一種の別れとなるのか否か。下ばかり向いていた私は彼がその時、どんな表情をしていたのかは、判らなかった。
後から思えば、この時顔を上げていれば良かった、と思う。
空は低くアレが立ち込めていて青く透き通っておらず。生々しい騒音によって沈黙の素晴らしさなど知ることは出来ない。風には、死の匂いと血の味が混じっているような、そんな気もする。
それでも、今私の手は、確かに柔らかくて可愛いものに触れていた。優しく繋がった彼女がいれば、私はまだまだ濁った四感の中でも頑張っていけることだろう。
それにこの程度、一度垣間見た、あの地獄に比べればまだまだ温い。きっと他人には青いのだろう空の下、私は心に魔物と私の一部分だけを端的に語った。
「なるほどー。あの悪いタコさんは魔物で、普通の人には見えない……でもすてっきーは、それを見つけることができて、そしてやっつけることの出来る魔法の力を持ってもいるんだねっ」
「そんな感じ……だけど、制服で鉄棒なんてやっちゃ駄目じゃない」
心は理解を示しながら、私の手から離れて間近の鉄棒を掴んで飛びかかり、上手に前回りをした。白いブラウスに黒いプリーツスカートが翻る。真っ白なパンツが見えた。思わず、私は注意する。
しかし、鉄棒から上手に水溜りを避けて飛び降り、手をぱんぱんと叩いた心は、納得せずに頭を横に傾けた。
「すてっきーしか、見ていないのに?」
「でも、もし他に誰か見ていたとしたら、と思わない?」
「うーん。私は、すてっきーの目以外どうでも良いからなあ」
ぽりぽりと、お餅のように柔らかそうな頬を掻いて、心はそんな妙なことを言う。彼女はひょっとしたら見た目だけでなく内心までも性徴が、遅いのだろうか。異性よりも親友を意識してしまう辺り、もしかしたらそうなのかもしれない。
心は、続けて言う。
「だから、私はすてっきーの言ってること、信じるよ。――貴女が見ていること、それが一番、大切だから」
「心!」
「わ、すてっきー引っ付かないでー」
嬉しい。友達は大切にしろ、兄の言葉は正しいものだった。大好きな親友を、私は抱きしめる。
他人には共有出来ない、するべきではないモノを見えて触れてしまうことがどれだけ孤独なものかを、心は知らないだろう。だが、それでも彼女は私の異常を認めてくれた。それがさわりばかりを垣間見た結果でも、私の寂寥は慰められる。
それがくすぐったくて、涙が出た。そして、秘していた心の一部も口から出ていく。
「私、あんなの、嫌だった。あれと同じものを自分が秘めているということも……そもそも私が皆と違うっていうことも!」
「ああ……だから、すてっきーはずっと、怖がってたんだね」
私の悲鳴のような本音を聞いて、心はぎゅっと、抱きしめ返してくれた。温かさが、確かな触感が私を落ち着かせる。ぽんぽんと、背中を優しく叩く手は、止まらない。
たっぷりと、始業のチャイムを終わりまで聴いてから、私達は離れた。
「ぐす。授業、始まっちゃったね……」
「そんなの、いいよー。遅れて行こう?」
「そうだね……」
心の言葉に、私は頷く。今は無理をして他と合わせることはない、そんな気持ちだった。私は余裕を持って、涙を拭う。そこに、笑顔で心は追撃をする。
「私はすてっきーと同じ力なんて持ってない。こころちゃんは、わかんないけど、それで良いんだ。だってすてっきーが見えない私の杖になってくれるもの!」
「心っ!」
「またハグだ! ひょっとして、エンドネス?」
「ぐす、エンドレス、ね……」
再び、心は私の涙に濡れる。私は果たして盲者の杖となれるのだろうか。その他大勢のためには無理だろう。でもきっと、たった一人のためならなれるのだ。心のためなら、私が全てに触れて世界を明るくさせてしまったって、いい。
それこそ魔を秘めたまま、魔物にだって、対そう。
「私、頑張る」
「あはは。こころちゃんが付いているんだから、無理しなくてもいいよー」
「ふふ……千人力ね」
ああ、この子はどれだけ可愛いのだろう。素敵な、私の心。望んだものを、全て私に与えてくれる。こんな純心、大切に縛して、閉じ込めたくなってしまうじゃないか。
でも、それは出来ない。心は、望んでいるから。
「ねえ、すてっきー」
「なあに?」
「一緒に、戦おうね」
「……うん」
少女は危険を知らない。ただ、私の陰りばかりを知っている。戦えなかった後悔こそ私に下を向かせているのであればと、手を取って
「あは」
柔らかく、重力に逆らう癖っ毛を持ち上げて微笑む心は、ただ私ばかりを向いていた。
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