助走をつけて、大きく跳んで
@Yasutani_Arisa
第1話 助走をつけて、大きく跳んで
鰻ほのかは自分がグラウンドに立つ姿を想像した。
助走をつけてから踏み切って、遠くを目指して跳ぶ姿を繰り返し強くイメージする。
「急行電車が通過致します」
駅のホームにアナウンスが流れる。
ここはグラウンドじゃない。
大きくジャンプなんてしなくてもホームから少しだけ足を踏み出せば、少しだけ身体を空に委ねれば、電車は息つく暇なく鰻の身体をかっさらってくれるだろう。
6月第1週の金曜日、朝7時50分。快晴。
鰻は整列乗車の列の先頭に立っている。
紺のブレザーの下にはチェックのスカートが揺れ、そこから覗く華奢な足は白く、周囲の男性の視線を集めている。
鰻は両手を握っては開いてと繰り返す。
じっとりと汗ばむ手。目を瞑って呼吸を整える。
鼓動が早い。終わらせたい。全部終わらせよう。もう終わるんだ。静かに目を開ける。
ホームに電車が滑り込むのが見えた。鰻が覚悟を決めて足を踏み出した瞬間、背後から右腕をぐいと掴まれた。
振り返ると同じ陸上部でクラスメイトの吾妻周悟が鰻の腕を掴んでいる。力強くて振り払えない。
「鰻、おはよう」
にっと笑う吾妻。急行電車の通過する音で声が掻き消されているが、唇の動きでそう言ったのがわかる。
電車が通過したのを待って吾妻は手を離した。
「吾妻くん、なに?」
「ごめん、なんか鰻ふらついてたから」
普通電車が続いて到着するが、ふたりは見合ったまま動かない。整列していた乗客がふたりを除けて次々電車に乗り込む。
「今日、1限目から古文じゃん?だるいから一緒にサボんない?」
ちょっと考えてから鰻は口を開く。
「いいよ、どこ行こうか」
果たして吾妻に連れられたのは上野の不忍池のボート乗り場だった。
券売機の前で吾妻が振り向きざまに訊ねる。
「白鳥とふつーのボートどっちがいい?」
「………白鳥」
「まじか」
少しだけ鰻が笑う。吾妻もつられて笑う。
「やっと笑った。鰻はそうやって笑ってたほうがいいよ」
「ほらほら早く乗ろう」
吾妻の言葉を無視して鰻は吾妻の背中をぐいぐい押した。
平日の午前中、不忍池で前進するボートは一隻しかない。 吾妻と鰻を乗せたスワンボート。
「うおおおおお!」
咆哮を上げて吾妻が全力でスワンボートを漕ぐ。
「速い速い!待ってぶつかる!吾妻くん舵切って!!」
2人を乗せたボートは右往左往して、またバックをしては前進を繰り返す。
池の淵にぶつかっては管理人に「そこのスワンボート!ちゃんと漕いでくださいー」と拡声器で怒られるが、スワンボートの暴走は止まらない。
隣に座る鰻はぶつかる度に声をあげて笑った。
「はー、疲れたー。ちょっと休憩」
「お茶飲む?」
鰻がスクールバックから飲みかけのペットボトルを取り出し、吾妻に差し出す。
吾妻は礼を言って受け取り、喉を鳴らして飲んだ。
「間接キス、イェー。なんちゃって」
冗談めかして吾妻が言うと、鰻が真面目な顔をして吾妻を見つめる。
「キスしよっか?」
吾妻はペットボトルの蓋を閉めて、鰻に返す。
「冗談だよ。俺、そういうことはちゃんと俺のこと好きな子としたいし」
「私としたくないの?」
「男はみんな鰻としたいと思ってるよ」
「ふうん」
つまらなさそうに鰻は川面に視線を移す。
鰻は肩下まである長い髪を指に巻きつけては離す動作を繰り返している。スワンボートはゆっくりと池の淵に沿って巡回する。
前を向いたまま吾妻が言った。
「鰻は、氷室のことが好きだろ?」
「やだなあ、氷室女の子じゃん何言ってんの」
「………」
「ほんと、やだなあ。いや、だって女だよ?」
「…………」
「女の子、好きになるの変かなあ」
「…別に。氷室かっこいいもんな」
「そう思う?」
「うん、その辺の男よりずっと。頭だってずば抜けていいし、冷静だし。金属の義足もこういっちゃなんだけどすごく似合ってるし」
「氷室のこと褒めてくれて嬉しい」
「あのさ、鰻、最近嫌なことでもあるの」
「なんで」
「なんか笑ってるのに目が死んでるみたいな、うまく言えないんだけど」
「そうだね。生きてて嫌なことばっかりだよ。今日も死んじゃおうと思ってた。吾妻くんに止められて死ねなかったけど」
「そういうの氷室に言ってる?」
「言わない。氷室には迷惑かけっぱなしだからこれ以上負担かけたくないし」
「何も言わずに死なれた方がよっぽど迷惑だけどな」
「どうかな。秘密は墓場まで持っていくのが綺麗じゃない?」
「秘密は共有してこそ甘美なんじゃねえの」
「吾妻くん、ああ言えばこう言うタイプだね」
「そりゃお互い様だよ」
鰻の携帯電話の着信音が鳴った。
「出なよ」
頷いて、鰻が電話を受ける。
「はい、氷室?何。今?ちょっと体調悪くて休んでた。今から学校行くよ。いいよ1人で行けるよ。はいはい、じゃあね」
「まーたこの子は嘘ついて」
「この状況の説明が面倒臭い」
「確かに」
そう言ってふたりは声を合わせて笑った。
「鰻はさ、簡単に生き死に口にしないで気楽に生きれたらいいと俺は思うんだよね」
「何も知らないでよく言うよ。でも吾妻くんと付き合ったら傷つかないで生きて行けるかもね」
吾妻はそれには答えない。
少しだけ寂しそうに鰻が笑った。
スワンボートが船着場にゆっくりと到着する。
「吾妻くん、誘ってくれてありがとうね。私、学校に戻るけど、吾妻くんはどうする?」
「俺はこれから動物園に行くわ」
「そっか、じゃあまたね」
その数日後、鰻と氷室の失踪事件が吾妻の耳にも入ってきた。
クラス中がその話題で持ちきりだった。
町中に鰻と氷室の写真が印刷された張り紙が貼られ、嫌でも目につく。
授業中、教員の声は吾妻の耳にまったく届いていない。
吾妻は頭の中で走り幅跳びのイメージを何度も繰り返していた。そろそろ陸上の大会があるのだ。高校最後の大会。鰻は同じ陸上部だが当然不参加だろう。
助走をつけて、大きく跳んで、着地する。
初めは自身が跳んでいる姿を想像していたが、やがて鰻と氷室が手を取り走る姿にシフトする。
しっかりと互いに握りしめた手、氷室の光る金属の義足。
鰻と氷室は前だけを見ている。
全力で走るふたり。
鰻はもう自分の手の届かないところへ行ってしまった。
氷室以外、誰も触れない場所に辿り着けばいいと心から願う。
助走をつけて、大きく跳んで、その先へ。
その先にある、少しでも鰻が笑っていられる世界へ。
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