超短編集

青空奏佑

春、シャボン玉

 ベランダに出てみると春の甘い匂いがして、ああ、春なんだなぁとそう思った。空は澄み、空気は洗いたての白いシャツのようで、目の前の公園を囲む桜の木は淡い花弁を風に預けまき散らしている。



 視線を下に向けると、そこは春で溢れ返っていた。新品のランドセルを背負った子供が歩き、真新しいスーツを着た大人が歩いている。少年少女が汚れ一つない少し大きい制服を着ている様子なんて、まさしく青春が足を生やして歩いている様で、自然とため息が漏れ出てしまう。



 そんな中、子供が母親と手を繋ぎシャボン玉を吹きながら歩いている姿が目に映った。



 シャボン玉は春の空気をゆったりと泳ぎ上へ上へと昇って行く。そして、僕のいるベランダの高さまで来たところで弾けるのだった。



「…………」



 大小様々なシャボン玉が宙を泳いでいる。そんな様子を見ていると、つい君のことを思い出してしまう。



 ストローを口にくわえて窓ガラスから顔を出し、ポツポツとシャボン玉を外へ放つ君のことを思い出す。もう何年も前のことなのに、未だに僕の頭の中にはその時の光景がこびりついていて一向に色褪せることがない。



 綺麗だと、当時高校生であった僕は思ったのだ。白い部屋に白いベッド。白い服を着た君が、透明な球体を空へと放つ様子が、どこまでも綺麗で、儚くて、とても悲しかった。



 一度、僕は君に「シャボン玉が好きなの?」と尋ねたことがあったけれど、その時の君の答えを今でも鮮明に覚えている。その時見せたガラスみたいな君の表情や白い部屋に満ちる消毒液のツンとした匂い、太陽の輝きと青い空の背の高さと共に僕は覚えている。



 君は「私、空を飛んでみたいのよ」と、そう言っていた。



 シャボン玉に自身の息を閉じ込めて、それを空へと放つ。シャボン玉はいつか弾け、中の息は空気に溶け込む。それがなんだか空を飛んでいるようで、どこまでも行けるような気持ちになれて、だから好きなのだと君は話していた。



 その言葉の後に君は「なんて、ちょっと格好つけ過ぎかしら。単に子供の頃から綺麗なシャボン玉を見るのが好きなの」と照れくさそうに笑ってみせて、僕はそんな君をただ見ていることしか出来なかった。



「…………」



 あれから何年経っただろうか。



 僕はシャボン液をつけたストローを口にくわえる。



 君の所為で毎年この春の時期にシャボン玉を吹く習慣が出来てしまった。



 君は今、願いを叶えて空を飛んでいるのだろうか。



 言葉を託すように、シャボン玉に息を閉じ込める。



 シャボン玉は僕の元を離れ、春の空気を昇り、青い空へと旅立っていく。



 もうこんなことしなければいいのに、どうしたって止めることは出来そうにない。毎年君に届けばいいな、なんてそんなことを思いながら、結局僕はポツポツとシャボン玉を空へと放つのだ。



 シャボン玉は空へと昇り弾けて消えていく。



 そんな様子を見て、この思いもシャボン玉のように弾けて消えてくれるのならどれほど楽かと、毎年そんなことを思ってしまうのだった。

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