僕を知らない君と

氷月

第1話

僕は一人、明るくて白い廊下を目的の部屋を目指して歩く。

平日だからか、すれ違うのは白衣を着た看護師ばかり。人の往来は少なく、いつも以上に空気の動きの無い施設内は、さまざまな薬品のにおいが混ざっていて、正直気持ち悪い。

鼻にこびりつくような薬品のにおいを振り払うように足早に廊下を進むと、すぐに目的の部屋の前にたどり着いた。部屋の前のネームプレートには、二、三人の名前と共に、「中川冬華」の四文字が書いてあった。

覚悟を決めて僕は扉に手をかけた。扉はガラガラと音をたてて開いた。

「失礼します」


 1週間前、高校の友人からチャットアプリのメッセージが届いた。

差出人は、高校在学中に僕や冬華と同じ写真部に所属していて、彼女の幼馴染でもある、本村和臣。僕たちの学年はたった三人だけだったから、いつも三人で行動していた。高校を卒業してそれぞれの道に進んだあとも、度々連絡を取り合っていたから、連絡が来ること自体には驚かなかった。問題はその中身。そこにはたった一文「中川冬華が交通事故にあった」と書かれていた。

 バイトを終えた午後11時。そんな内容のメッセージを受け取った俺は、慌てて和臣に電話をかけた。遅い時間にごめん、と告げる。

「いや、かまわねぇよ。心配なんだろ?あいつ、暴走した車にはねられたらしい。骨折とかはしてたけど、さっき会った時は元気そうだったよ。ただ…」

 少しだけ、電話の向こうの和臣が無言になった。

「どうした?」

「いや、なんでもない。それよりさ。お前、卒業の時に三人で作ったアルバム持ってんだろ?あれをさ、冬華の見舞いに行くときに持ってってやってくれないか?」

「え?いいけど、僕がお見舞いに行くのは決定なんだね」

 そう言うと、当たり前だろ、と言って彼女が入院している病院の名前を教えてくれた。

「明日からは少し検査が入るらしいから、行くなら明々後日がいいと思うぞ」

「わかった、ありがとう。それじゃあ」

 そう告げて、電話を切ろうとする。

「あ、ちょっと」

「なに?」

「理人…。お前さ、まだ冬華のこと好きか?」

 冬華は僕の初恋の人。高校に入ってすぐの一目惚れだった。でも、その想いを伝えたことはない。和臣曰くヘタレな僕は、伝えようと思っても伝えられなかった。だが、告げずに心の底にしまっておいた気持ちは消えることはなかった。それどころか、ここ数年でますます大きくなった気さえしていた。

「うん、まだ好きだよ」

「そっか。でもそれはオレじゃなくて本人に言おうな」

 和臣が電話の向こうで笑い声をあげる。昔と変わらない辛辣な言葉に、それが出来たら苦労しないよ、と僕も苦笑する。

 きっと、冬華と久しぶりに会っても昔みたいに笑いあえる。そう思っていた。


「あ」

「久しぶり、冬華。前山理人だけど。ってそんなに変わってないから流石にわかるか」

なるべく緊張がばれないように、できるだけ普通を装って話しかける。3年も会っていなかった初恋の人は、最後に会った日と変わらず穏やかな笑顔を浮かべていた。でも、なぜかその笑顔はどこかさみしそうだった。

「うん、久しぶり。ごめんね、こんな姿で。でも元気なんだよ」

「確かに痛々しいけど、元気そうで良かった」

「来てくれてありがとう」

「はい、アルバム。和臣に持ってけって言われたから持ってきたよ」

「ありがとう。見てもいい?」

 当たり前だよ、と僕が笑うと、冬華は一枚一枚ページをめくった。

冬華がアルバムを見ている間、僕はベッドサイドにあった花瓶に水を足したり、窓の外を眺めたりしていた。彼女がどんな顔をしてアルバムを見ているのかが気にならないわけではない。だが、久しぶりに会った好きな人を見つめられるほど、僕のハートは強くなかった。

しばらくして、冬華が、ねぇ、と声をあげた。

「どうしたの?」

「うんと…。やっぱり、理人君には言っておこうと思って」

 冬華が僕の名前を呼んだ時、かすかな違和感が胸をかすめた。不思議に思って彼女の表情をうかがうと、何やら深刻な顔で、目にはうっすらと涙を浮かべているようだった。

「かず君からは聞いてないと思うんだけど。私ね、高校から事故までの記憶が、無いの」

「…え?」

「今まで黙っててごめんなさい。ほんとはね、理人君の事も憶えてないの」

 衝撃だった。今まで昔と変わりなく会話をしていた相手が、実は自分のことを覚えていなかったなんて。

「憶えてない、って、それは、事故のせい、だよね?」

「打ち所が悪かったみたいで。記憶のヒントになるものがあれば、思い出せることもあるらしいんだけど。一番頼りになるスマホも壊れちゃって、メッセージを遡ることも出来なかったから、自力ではもう何も思い出せなくて」

「だから、理人って呼んだんだね」

 違和感の理由は呼び方だった。冬華は昔、僕のことを理人、とは呼ばなかった。リト君、そう呼ばれていた。記憶がないなら、昔の呼び方で呼ばれなかったのも納得がいく。

「でも理人君の事はかず君から聞いてた。かず君がね、理人君は私の恋人だったって言ってたの。だから、憶えていないことを知られたら、傷つけちゃうと思って」

「…は?」

 彼女の言葉に僕は目を見開いた。

恋人?憧れた関係ではあったが、そんな関係になった覚えは無い。というか、僕の想いを伝えた覚えもないのだ。

「和臣がそう言ったの?」

「ううん。傷つけちゃうと思ったのは私。でもよく考えたら、隠してたって知った時の方が傷つくよねって思って」

 それで正直に言うことにしたの。彼女は申し訳なさそうに言い、俯いた。僕はと言えば、頭の中がごちゃごちゃで、どう反応していいかもわからずにポカンとするしかなかった。2人の間には沈黙が続く。隣のベッドにもお見舞いの人が来ているようで、その声だけが耳に届いた。

 その沈黙を破ったのは冬華だった。顔をあげた彼女は、

「理人君さえよかったら、なんだけど。もう一度、あなたとのお付き合いをやり直したい。あなたのことをもう一度知りたい。そしたら何か思い出せる気がするの。図々しいお願いだっていうのはわかってる。だけど私、どうしても記憶を取り戻したいの」

 目には涙を溜めていたが、声はしっかりと強いものだった。そんな風に言われては、今更恋人ではなかった、などと言うわけにもいかない。

それに、僕は自分の冬華への気持ちに蓋をして、想いを伝えずにきた。それが彼女から付き合ってほしい、と言われたのだ。僕は弱い男だ。だからたとえ嘘から始まる関係でも、彼女といられる時間ができるなら、と思ってしまった。

「わかった。僕ももう一度、僕のことを知ってほしいから。僕の、恋人になってください」

 ずっと言えなかった言葉を、彼女に伝える。これさえ伝えてしまえば、嘘から始まる関係だとしても大丈夫な気がして。

こうして、僕を知らない君との『昔からの恋人』ごっこが始まった。


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