3)二人の夜

二人の夜(1)

 夕食は信乃によって早めに運ばれてきた。着いて早々いろいろあって忘れていたが、今日は圭が大橋モモの家に行く日だ。座敷わらしを無事に助けることが出来ただろうかと二人で話し合った後、伊万里は壬に口から吐いた火炎と尻尾の斬撃について尋ねた。

 壬によれば、以前見た映画で怪獣がビームを口から吐いたり、尻尾から出したりしていたことにヒントを得たということだった。結界術の練習は彼にとってとてもつまらなかったらしく、それを抜け出してこの練習をしていたと聞いた時には、伊万里は呆れて何も言い返せなかった。同時に、そんな子供じみた発想で、あんなことを出来るようになってしまう壬にあらためて驚いた。


 それから他愛もない会話をしながら夕食を終え、順にお風呂に入ることにした。伊万里は、先に入るのは気が引けて壬に先に入ってもらった。

 夕食を食べ始めた頃から、少しずつ彼女の胸はとくんとくんと鳴り始めていた。何かにつけて右奥の部屋が気になったが、伊万里はあえてそちらを気にしないようにして平静を装っていた。

 この胸のどきどきは怖さが半分、期待が半分。

 濡れ髪に浴衣姿の壬が部屋に現れた時は、そのしどけない姿に伊万里は彼を直視することが出来なかった。

 お風呂上がりの姿なんて、普段から見慣れているはずなのに。

「私も入ってきます!」

 焦ってそう壬に告げると、伊万里は逃げるようにお風呂場へ行った。お風呂場は一人で使うにはもったいないほどで、広い脱衣所には大きな鏡とドライヤーが置いてあり、浴室は総ヒノキ造りだった。

 森の匂いに囲まれて伊万里はゆっくり湯船に浸かった。この後どうなるのか分からない。そう思うと、口から何かが飛び出してきそうで、伊万里は何度も両手で顔を覆った。

 そこそこ長い時間、伊万里は頑張って湯船に浸かり続けていた。が、これ以上はのぼせてしまうと思い、意を決して風呂から上がる。浴衣に着替え、髪を乾かす。下着は、千尋から「ふざけた物を持っていかないように」ときつく念を押されたので、「義母かあさまパンツ」は谷でお留守番だ。

 鏡の前で変なところがないか、何度も全身を映してチェックをする。もう脱衣所ですることもなくなったが、どんな顔をして出て行けばいいかも分からない。

(でも、これ以上は)

 伊万里は目をつぶり、大きな深呼吸を一つした。

 その時、


〽花房ゆらり 鬼の姫〽


 突然、どこからか歌声が聞こえた。

 なんだろう? その不思議な声に伊万里は耳を澄ませた。


〽花房ゆらり 鬼の姫

 ひとり さびしく泣いている

 藤の花咲く 山間やまあい

 ひとり 悲しと泣いている

 藤の名を持つ 鬼の姫

 愛しい者を 待ち詫びて〽


「な……に──?」 

 その歌は微かではあるが、しかしはっきりと伊万里の耳に届いた。

 どこかの鬼姫を物語る歌。いや、違う。

 藤の名を持つ鬼姫など、彼女の知る限り一人しかいない。

(まさか──!)

 そうはっきりと意識する前に、伊万里は脱衣場を飛び出していた。そのまま、つっかけを履いて外に出る。

(こちらから聞こえた)

 頭が真っ白になった。

 紛れもない、母親のことを歌っている。一体、誰が。なんのために。

 亜門や亜子は知らないと言ったが、母親はここにいるのではないか。

 混乱する頭の中、伊万里はそう思った。

 伊万里は必死に歌声のした方へ足早に庭の中を抜けて行った。息を弾ませながらさらに進むと、しかしやがて、竹垣に囲まれた行き止まりに辿り着いた。

「そんな……」

 確かにこっちから聞こえた。

(もしかしたら、屋敷の外かもしれない)

 それで伊万里が垣根の向こうを眺めていると、ふいに背後から声がした。

「こんな時間に、こんな所でどうした?」

 無造作に顔にかかる赤いくせ毛、そこから覗く大きな目。スウェット姿の拓真が縁側に座りこちらを見ていた。

「拓真さま……」

「そんな格好で、夜這いの相手が違うだろ」

「夜這いなどではありませぬ」

 すかさず言い返し、はだけぎみになっていた胸元をぎゅっと掴む。夢中で庭を進んで来たが、ここは拓真の寝所らしかった。

「歌が聞こえたもので、その声を追ってきました」

「歌?」

「はい。子供の声かと──」

 しかし拓真は首をかしげた。

「儂はさっきからここにいたが、聞いとらんぞ」

「そう、ですか……」

 確かに聞こえたはずなのに。戸惑い気味に伊万里がため息をつく。すると拓真は立ち上がって彼女に歩み寄ると、その顔を覗き込んだ。

「どうかしたのか。顔が青いぞ」

「いえっ、大丈夫です」

 はっと我に返り、伊万里は何事もなかったように笑った。

 そして彼女は、昼間の西郷太一郎とのやり取りを思い出し、拓真に頭を下げた。

「昼間は壬と私を庇ってくださってありがとうございます」

 思えば、動揺していて拓真にお礼も言っていなかった。拓真が「そんなこと」と苦笑する。

「儂が気に入らんかっただけだ」

 しかし、そう答える拓真の顔は心なし元気がない。

 昼間、兄との会話はとても気持ちが通じ合っているものだとは思えなかった。拓真が思っているほど兄の祥真は拓真のことを思っていないように、むしろ疎んじているようにさえ見えた。

 伊万里は、遠慮がちに拓真に尋ねた。

「お兄さまとは、あまりお話しにならないのですか?」

「昔は、あんなんじゃなかったんだがな。いや、優しいところは昔からなんだが」

 拓真がぽつりと言った。そして大きなため息をつく。

「いつの頃からか変わってしまった。太一郎やその取り巻きのせいだ。だから、儂はあの連中を排除し、当主の座を綺麗にして兄貴に渡したいんじゃ」

「いいえ、」

 すかさず伊万里が言い返した。彼女は厳しい目を拓真に向けた。

「いいえ、拓真さま。あなたは、立たねばなりませぬ」

「儂は、立つ気がないと言うておるだろう」

「それでは大義がありませぬ」

 ぴしゃりと伊万里が言う。拓真がうるさそうに顔をそむけた。しかし、伊万里はそんな彼に向かって容赦なく言葉を続けた。

「失礼ですが、お兄さまに当主は荷が重すぎるよう。いかに拓真さまが当主の座を綺麗にして差し上げたとしても、そこに座り続けることかないませぬ」

「ずばずば言うのう。だとしても、儂は兄貴と争いなどしたくない。助けたいだけじゃ」

「さればこそ。継ぐ気もなく、いたずらに跡目問題を荒立てたとあれば、あなたさまは元より、亜門さまや亜子さまにまで大義がなくなります。本当に助けたいのであれば、覚悟をお決めくださいませ。それが、あなたさまの大義となりましょう。当主の座など最初から汚れているもの、綺麗になどなりませぬ」

 拓真が目をあちこちへ揺らがせ自嘲的に笑った。

「兄貴を引きずり下ろし、儂にその汚れた場所へ座れと?」

「お兄さまを本当に助けたいのであれば。拓真さまの大義を堂々とお示しなさいませ」

「九尾もおまえも大概な無茶ぶりをするの」

「拓真さまの真っ直ぐな心根があれば、そうも無茶ではございませぬ」

 言って伊万里は拓真ににっこり笑った。深紫の瞳をキュッと細め、柔らかな頬がふわりと緩む。

 拓真に対し、初めて見せる優しい笑顔。刹那、拓真の胸がどきんっと鳴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る