川遊び(2)

 それから壬は再び眠り続けた。そして二日後の夕方、彼はぱちっと目が覚めた。寝返りをしようとすると体の筋肉がギシッと鳴った。

「ん、あー……、寝過ぎだ。体がいてえ」

 すると、傍らで本を読んでいた圭が気づいて顔を上げた。

「やっと起きた。気分はどう?」

「……悪くない」

 言って壬は体を起こした。あんなにひどかった頭痛も嘘のように消えていた。

「すっげえ腹減った。どんだけ寝てた?」

「まる二日。基町もとまちにも行ってきたよ」

「そんなにたってんの?基町、どうだった?」

「まあ、女子二人だしね。姫ちゃんも喜んでたよ」

「そっか、」

「さてと、起きたんなら、」

 圭が本をぱたりと閉じて立ち上がり、障子戸を開けた。

「壬、起きたよー!」

 刹那、バタバタと足音が近づいてきた。まず、ひょっこり顔を出したのは千尋だった。

「壬ちゃん、良かったあ」

 千尋が安堵の笑顔を浮かべながら部屋に入ってくると壬の前にぺたりと座った。そして彼女は、部屋の外に向かって声をかけた。

「ほらっ、伊万里ちゃん」

 すると、伊万里が障子戸から顔を半分だけ覗かせた。

「壬、良かったです。顔色もいいですね」

「何やってんだ? 入ってこいよ」

「あ、はい」

 戸惑いがちに返事をしながら、伊万里がおそるおそる姿を見せた。あの長かった髪を肩上まで短く切り、新しいマリンボーダーのTシャツとデニムパンツを着て、頭の角もしっかり隠し、人間の女の子になっていた。

「おまえ、髪──」

「邪魔なので、切ってきました。変ですか?」

 言って伊万里がはにかむ。長い髪も姫君らしくて良かったが、顔の輪郭をはっきりとさせる短い髪も伊万里にとても似合っていた。

「いいや、変じゃない」

「本当ですか?」

「うん。可愛い」

「かっ、可愛い?」

 伊万里がぱあっと顔を赤らめる。その場にいた圭や千尋も目をぱちくりさせた。

 壬が平然と頷く。

「うん。可愛いと思う。俺、そっちの方が好き」

「え、そうですか? あっ、いや──、何を言って──。そうだっ! お腹空いたでしょう? 私、義母かあさまに何かいただいてきます!」

「私も手伝うよ」

 千尋もすかさず立ち上がり、二人は部屋を出て行った。廊下で二人がきゃあきゃあと何か言い合っている。

「起きた途端、なんだか騒がしいな」

 壬がぼやきながら体を伸ばす。すると、圭がそんな壬を呆れ顔で見た。

「壬、姫ちゃん口説くつもり?」

 壬は「ああ?」と顔をしかめた。

「なんでそうなる。あいつは、二代目九尾の嫁じゃんか」

「うわ、自覚なし。一番タチ悪いな。おまえってそういう奴なの?」

「何の話だ」

 壬が睨む。圭は両手を軽く上げて「怒るなよ」と笑った。

「いや、意外だなって思って。ほら、壬ってあんまり他人のことかまわないじゃん。でも、姫ちゃんには違うのな」

「そうか?」

「そうだよ」

 圭が頷いた。

「女の子が喜びそうなセリフを面と向かって言ったことなんてないだろ。ましてや『俺、そっちの方が好き』なんて……」

 こんな自分の好みを相手に押しつけるような物言いを圭は見たことがない。

 そもそも身内以外は誰も近づけようとせず、興味を持たず、最近では自分や千尋に対しても妙によそよそしい態度を取り始めて、圭は内心イライラしていたところだった。だからこそ、壬の伊万里に対する態度は圭にとっては軽い驚きだった。

「まあ、意外にいい子だもんね。姫ちゃん」

「意外は余計だ。いろんなものを背負しょい込んでて、正直、見てて痛々しい」

「ふーん。その健気けなげさにほだされた?」

「だから、そんなんじゃないって。ただ、放っておけないだろ」


(そういうのをほだされたって言うんじゃないの?)


 圭は思った。

 この伏宮の家に伊万里が来てまだ数日、どれほど彼女のことを分かったというのだろう。どちらにしろ、ほぼ一目惚れの勢いだ。

(本人に自覚がないのがすごいけれど)

 しかし圭はこれ以上、このことについて突っ込むことはやめた。自覚がない以上、何を言っても無駄だろうし、何より壬が怒り出しそうだと思ったからだ。

 圭はあらたまった口調で壬に言った。

「それよりさ、明日、川遊びに行きたいんだけど、行けそう?」

「ん? いきなり、川?」

「やっぱりきつい?」

「いや、いきなりなんで川遊びなわけ?」

「姫ちゃんが、水のたまり石を探したいって」

「み……、水たまり?」

「違う。『水たまり』、俺も同じことを言った」

 笑いながら圭が答えた。

「水の清浄な気の結晶なんだって。雑蠱に大人気の千尋のための魔除け石。まあ、完璧じゃないけどお守り代わりにはなるらしい」

「そうなんだ」

「姫ちゃんは、尾振おぶの渓谷がいいって言ったんだけど、あそこは流れも速いし、深すぎて危険だし。水遊びするような場所じゃないから、川添かわぞえに行こうって提案しておいた」

「川添か、今年初だな──って、待て。伊万里、水着を着るのか?」

「分かりやすい反応だなあ。大丈夫、ちゃんと基町で買ってきたから。もちろん、千尋プロデュース」

「いや、だってダメだろ。まがいなりにも姫だぞ。水着なんて、たぶん、きっと、絶対ダメだ」

「あっそう。でも姫ちゃん、あのままだと行水用の白い衣で行きそうなんだけど?」

「いっ、それは──」

「だから二択、どっちか選んで」

「……」

 壬はむうっと黙り込んだ。そして、とにかく納得がいかないといった様子で再び布団を頭までかぶった。

 ややして、布団の中から声が聞こえた。

「……その水着、露出少なめ?」

「そりゃもちろん、ラッシュガード付き」

 圭がにやっと笑った。


 次の日、十時過ぎに出かける予定が大幅に出遅れた。それもこれも、土壇場で伊万里が水着の着用を拒絶し、白い衣を着ていくと言い出したからだ。千尋の説得にも応じず、最後は姑であるあさ美のひと声で場が収まった。

「ほうら、さっさと行った、行った。お昼になっちゃうわよ」

 あさ美に追い立てられながら伊万里が千尋と一緒に玄関に現れた。二人とも長袖のパーカータイプのラッシュガードをはおり、白い太ももがショートパンツからすらりと出ていた。肝心の水着本体はまったく見えないが、伊万里にはこの格好でさえ、すでにキャパオーバーらしかった。

「ほら、伊万里ちゃん。大丈夫だって」

「こここ、これっ、このまま水に入れるんですよね?! やはり、下も足首まである長いものにすれば……」

「あんなの着てるのオ・バ・サ・ン・だ・け・だ・か・らっ」

 千尋がふざけんなとばかりに笑顔ですごむ。

「だいたい、そこまで大胆な水着でもないじゃん。ほぼ服と変わらないデザインでさ」

「いえいえいえいえ」

 伊万里が首を左右にブルブルと振った。

「服では太ももは出ていません!」

「そんなことばっかり言うと、男子二人が太ももばっかり見ちゃうよ?」

「え?」

 ふいに伊万里が玄関先で待ちくたびれている圭と壬を見る。壬と目が合った途端、彼女はさっと千尋の後ろに隠れた。

 圭が笑いながら壬に言った。

「可愛いって言ってやれば? 昨日みたいに」

「なんで俺が」

「ふーん、今日は通常モードなんだ」

「おい……、なんだその引っかかる言い方は?」

「そう? ま、いろいろ見てて面白くて」

「だからっ、そのいい方──」

 壬が言い終わらないうちに、圭が伊万里に手を上げる。

「姫ちゃーん、大丈夫! 壬が可愛いって言ってるよ」

「おいっ、何を勝手に言ってんだよっ」

「ああ、うるさいっ! 早く行けっての!!」

 最後はあさ美の一喝で四人は飛び出すように家を出た。

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