平凡な妖狐のある一日(4)

 自分の心の内を伊万里に指摘され、壬は納得する一方で情けない気持ちにもなった。すると突然、伊万里が両手を合わせて目を輝かせた。


「そうだ、水に流してしまいましょう?」

「水に流す?」

「そうです。それが一番かと」


 言って彼女は元気よく人差し指を立てる。壬は思わず苦笑した。


「何を突然言い出すのかと思ったら──」 

「あ、バカにしてますね」

「いや、してねえって。分かった、流せばいいんだろ」


 そんなに簡単に流せたら、こんなに悩んでないけどな。

 本音ではそう思いはしたものの、反論するのも面倒臭く、壬は適当に答えた。しかし、壬の返事を聞いて伊万里が「では、」と立ち上がる。

 そして彼女は、大岩から川岸へ飛び降りると、そこで何かを探し始め、しばらくして、「これがいいですね」と言いながら、落ち葉を一つ拾って戻ってきた。


「そんな葉っぱ、なにすんだ?」

「なにって、これにのせて流すんです」


 言って伊万里は落ち葉を手のひらにのせて、それを壬に差し出した。


「はい、こちらに手を重ねて」

「え? 流すって、マジで流すの?」

「他に流し方があるのですか?」

「や、『もう気にするな』っていう言葉のあやかと……」

「そんなわけありません。もう、あれこれ言わず、手をここへ!」

「はい。って、あの、こんな感じ?」


 伊万里に急かされ、壬はよく分からないまま落ち葉がのった彼女の手の平にぎこちなく自分の手を重ねた。


「はい。そして、今の気持ちを葉にのせてください」

「へ? いや、どうやって?」

「どうって、どう??」


 伊万里が顔をしかめた。


「気持ちをのせるんです。何も難しいことではないでしょう?」

「いやいや、おまえは知らないかもしれないけど、あやかしって言ったって、俺ただの高校生だし」

「……人に化けることができるのに?」

「それは小さい頃からそうなだけで。でも、あとは普通の人間と変わらないぜ。ぶっちゃけ、人間と変わらないのに人間じゃないからめちゃくちゃ不便」

「……」


 伊万里がなんとも言えない困惑した顔をした。しかし、彼女はすぐに気を取り直し、「それでは、」と壬の手にもう一つの手を重ね、彼の手を包み込んだ。


「いろいろ突っ込みたいことがありますが、とにもかくにも今は私が手助けします。では、目を閉じて──、ええ、そう。そして心の奥にあるもやもやした気持ちを……、そうですね、何かに包み込む感じです。そのままそれを手に集中させて……」


 彼女の穏やかな声が壬の耳に心地よく響く。

 壬は、なにがなんだか訳が分からなかったが、とにかく彼女が言ったとおりにやってみた。すると、手の平がぼうっと温かくなった。


「なんだ?」


 驚いて壬は目を開けた。すると、伊万里に握られた手がかすかに光っていた。


「さあ、手を離してください」


 伊万里が重ねた手をどかす。壬も手を離すと、伊万里の手の平にのせた落ち葉が淡い光に包まれていた。


「これは……?」

「あなたの気です」


 そう答えて伊万里は落ち葉をふうっと吹いて飛ばした。淡い光をまとった落ち葉は、彼女の手から舞い上がり、そのままふわふわと川面に落ちていった。そして、川面に着くと水面をくるくると回りながら流れはじめた。


「……」


 壬は不思議な気持ちで落ち葉が流れて行くさまを見つめた。今流れていったものが、本当に自分のわだかまった気持ちなのかどうかは分からない。しかし、心の中がとても軽くなっている自分がいた。


「どうですか? 子ども遊びのようなものですが、流して良かったでしょう?」

「うん。なんか、すごい不思議な気分。本当に流せるんだ……」


 壬は川面を見つめながら答えるともなく呟いた。ふと川の流れから視線を外し、傍らに立つ鬼の子に目をやると、彼女も満足そうに落ち葉が消えていった先をじっと見つめていた。


「不思議な谷です。来るものを圧するような力に包まれているのに、森を覆う空気も水もとても優しい」

「ここは九尾の結界に守られているからな」

「九尾さまのたなごころの中にあるのですね」

「九尾のこと知っているんだ」

「もちろんです」


 その横顔がとても嬉しそうで、壬は不思議に思った。


(鬼ってみんなこんなに人懐ひとなつっこいのか?)


 柔らかい風が吹き、漆黒の髪が彼女の凛とした横顔にかかる。

 すると、その視線に気づいて伊万里がぱっとこちらに顔を向けた。


「あの、何か?」

「ああっ、うん!」


 壬は思わず顔をそらした。今、ほんの一瞬だが、完全に見惚みとれていた。

 壬はドギマギしながら答えた。


「ありがとう。本当に水に流すとは思ってなくて……!」


 初対面の、しかも鬼相手にこんなに動揺するなんてどうかしている。壬は、心の中でそう言い聞かせながら、わざとらしいほど大げさに「あっ」と声をあげた。


「そ、そう言えばっ、俺、何も名乗ってなかったな」


 伊万里が「ああ、確かに」と頷いた。


「どこのどなたかも知らず、出過ぎた真似をいたしました。それで、あなたはどこのどなた様でございますか?」


 壬はひと呼吸置いて、気持ちを整えてからあらたまった口調で答えた。


「俺は、伏宮壬ふしみやじん。この伏見谷ふしみだにに住んでいる狐だよ」

「……伏宮?」


 すると、壬の名前を聞いた途端、伊万里がすっと眉をひそめた。そして、彼女は驚いた様子で壬を見た。


「あなたは伏宮の──、本家の方なのですか?」

「あ、ああ。なんだ、俺んち知ってんの?」


 伊万里が「本家」と口にしたことに少し驚きながら壬は頷いた。伊万里の表情がさらにこわばった。


「あなたは、先ほど私に『おまえは誰か』とお尋ねになりました。そして、私はあなたに『月夜つくよの里から来た』と答えた」

「あ、うん」

「それなのに、あなたは私にどうしてここにいるのかとお尋ねになりましたね」

「聞いたけど、それが?」

「……そうですか」


 伊万里が戸惑いがちに目を伏せる。


「おい、急にどうしたんだ?」

「申し訳ありません。連れの者が探していると思うので、もう行かないと」


 彼女がすっと立ち上がった。その態度の豹変ひょうへんぶりに壬は戸惑うばかりだ。


「ちょっ、待て。なんだよ急に。俺が本家の狐だと、何か都合が悪いのかよ」

「壬さま、おにぎりありがとうございます。それから──、ごめんなさい」


 伊万里が大岩を力強く蹴り、空高く舞い上がった。彼女はあっという間に向こう岸の木の枝に飛び移り、そして次の瞬間、壬の視界から消えてしまった。

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