ねえ、先生

 先生。ねえ、先生。

 わたしのことどうか嫌ってみせて。


「中東に住んでいた頃は、サソリだって見慣れてたんだけどね。毎朝靴の中に入り込んでないか確認するのが日課だったんですよ」

 子どもの頃、世界中を点々としていたという先生は、恥ずかしそうにそう言った。今はすっかり、虫は苦手になってしまいましたねえ。生物の先生らしからぬ言葉に、教室の中に笑いが起きる。

 わたしはちっとも面白くなくて、ノートの隅にサソリの絵を描く。しっぽのところがむちむちとした、毒々しい、かわいくないサソリ。ちょっと空想が入っているかもしれないけれど、リアルに描けた。

 絵を描くのは、なんにもないわたしの、ただひとつの取り柄みたいなものだから。

 こんなにリアルに描けるのだから、このサソリが実体を持って、どうか先生を突き刺してくれるといい。

 そうしたら、きっと、先生は、わたしを嫌いになってくれると思うから。

「人間を殺すほどの毒をもったサソリは少ないんですけどね。それより、靴の中で潰れてしまう方が困ったもので……あ」

 時計を見て先生が声を上げる。すみません、無駄話をしているうちに授業が終わってしまいますね。今日はノートを回収します。理科係の人は放課後までにノートを持ってきてくださいね。

 ハキハキと先生がそう言って、言い終わったとき、チャイムが鳴った。嬉しそうに先生が笑う。この後は昼休みだ。

 号令がかかって席を立つ。二つ隣の席の中島が、購買へのスタートダッシュを決めようと、そろそろと席から離れていく。先生が眼鏡の奥でそれを見つけて、困ったみたいに笑った。ぱっとしない先生。浮き足だった教室の雰囲気。馴染めないまま、わたしは浅く礼をする。


 先生。ねえ、先生。

 わたしのことどうか嫌ってみせて。


 あのまま提出したノートは、サソリの隣にハナマルがついて返ってきた。それは別に、サソリについたハナマルではなくて、単に最後のページだったからだ。先生はいつも、チェックしたノートにいびつなハナマルを描く。

 コメントも小言も特にないまま、何事もないみたいに毎日は進む。実際、そうだ。何もなかったんだ。人間を殺すほどの毒を持ったサソリは少ない。わたしは先生に嫌われてなんかいない。

 まち針を布に突き刺す。布がずれてしわが寄ったけれど、直す気にはならなかった。やり直したところでうまくいく気がしない。わたしは不器用だし、何よりやる気が全然ない。どうして家庭科は必修なんだろう。

 この学校に来る前は、もっとずっと偏差値の低いところに勤めてたんですけどね。親指でしわを伸ばしながら、先生の話を思い出す。先生の授業は無駄話が多い。中途半端なヤンキーみたいな生徒ばっかりだったんですけどね、でも、みんな、なんだかんだ、いい子たちでしたよ。そう言った目は笑っていた。だからちょっとくらいガラの悪い子を見ても、遠巻きにしないであげてくださいね。柔らかい声。先生は優しい。

 しわを伸ばすには最初からやり直すしかなさそうで、どうしようもなく、もうひとつまち針を刺す。小学生の頃から使っているまち針は、お尻についた花形のプレートひとつひとつに名前が書いてある。加藤。加藤。加藤。わたしはすぐに物をなくすから、なくさないようにとお母さんが書いた。藤の字は潰れている。加藤。加藤。ずらりと並ぶ名前が恥ずかしい。

 キリがいい人から終わりにして良いよ。本橋先生がそう言ったので、布きれを裁縫箱に押し込んで席を立つ。たくさん刺した待ち針が、たくさんの布を巻き込んで突き刺して、裁縫セットの外にまで突き出ている。一本抜き取って袖口に隠す。加藤。毒々しい、ショッキングピンクのまち針。

 ひとり教室を出て、流れに逆らって職員玄関へ。先生の靴は知っている。つま先のすり切れた、学生みたいな黒いローファー。その奥にそっと、まち針を隠し入れて外に出た。今日は焼けるように日差しが眩しい。


 先生。ねえ、先生。

 優しいあなたが嫌いなの。

 どうか、わたしのこと、どうか。


 それから数日、何事もなく過ぎた。先生が足を引きずってくることも、わたしが呼び出されることもなかった。そっとまち針が返ってくるようなことももちろんなかった。広げた生物のノートには、鉛筆で描いた不細工なサソリと、朱赤のハナマルが並んでいる。

 最初はドキドキしていたけれど、二週間が経つ頃にはわたしは失望しきっていた。先生、もしかして足の感覚がないんじゃないのかな。

 そうして、もうすぐ三週間に届きそうという時、加藤さん、と声がかかった。柔らかい、先生の声だった。

「ちょっと話があるから、一緒に来てもらって良い?」

 分かりました。固い声で答えて、わたしは先生の後を歩く。近くにいた人が少し訝しげにわたしたちを見た。

 わたしだって訝しい。だって、もう、今更なんじゃない?

 階段を一つ上って、連れられてきたのは理科準備室だった。

 人はいなかった。

 コポコポと空気の音がする。金魚と、メダカと、そういう、ありふれた魚が水槽に詰め込まれている。ここの水槽は先生が世話をしているのだと言っていた。丸い石が敷き詰められた水槽には、藻一つない。チューブがふたつ繋がっていて、水草が生い茂っている。

 冴島先生今授業だから、ここ座って大丈夫。先生はそう席を勧めて、自分の椅子に座った。理科の先生はここに机を持っているのだ。

「それでね、ちょっと、聞きたいんですけどね」

「なんですか」

 先生は、言いづらそうに、青みがかった目でわたしを見る。先生はどこだかの国と日本のハーフで、そして全然、かっこよくない。ただ、目だけはキラキラして綺麗だ。

「加藤さん、誰かにいじめられてたりしないよね」

「……は?」

 何を言われているか分からなかった。わたしの反応を見て、うーん、それじゃあ拾ったのかなと先生が言う。何が言いたいのか分からなかった。にらみつけるように先生を見る。そんな怖い顔しないでと先生が笑う。

「いや、その、僕の靴に、これが入ってたもんだから。加藤さんのでしょう」

 先生は、袋に入れたまち針を取り出した。

 毒々しいショッキングピンクの、少し曲がったまち針。

「いやあ、この学校加藤さんがいっぱいいるから、見つけるのに時間がかかっちゃったんですけどね。だって、加藤さんこんなことする子じゃないじゃない」

「どうしてそう思うんですか」

「え? うーん、だって、大人じゃないですか、加藤さん。でも、だから少し、何かあったんじゃないかって、心配で」

 先生は笑う。僕はちゃんと見ていますよみたいな顔で笑う。履く前に気付いたから僕の足は無事なんですけどね。そうやって、傷ついてませんよって、笑う。

 笑う。

「……別に、いじめられてないです」

 絞り出すようにわたしは言う。誰にも馴染めないけど、いじめられてなんかないです、わたし。絵を描いていたら楽しいし、かわいそうなんかじゃないです。わたしは。


 先生。ねえ、先生。どうか。


「ああ、そういえば、生物のノートに描いてあったサソリ、上手でしたよね。開いたとき、ちょっとびっくりしました」

 先生はそう言って、わたしは膝の上で手を握りしめる。

 次の授業が始まってしまうので。そう言って、立ち上がる。

「加藤さん」

 先生が、優しい目でわたしを見ている。

 優しいみたいな目でわたしを見ている。

「何か悩みがあったら、いつでも相談してくださいね」

 先生に、宝物みたいに大切にされている水槽の横を通って、わたしは廊下に出る。

 

 先生。ねえ、先生。

 どうかわたしのこと嫌いになって。

 それでもいい子だったなんて笑わないで。

 あなたにとって大したことじゃなくても、わたしにはとびきりの勇気だったんです。あなたのことが嫌いなんです。


 先生。ねえ、先生。

 どうか、わたしのこと、どうか。

 優しい過去になんかしないでいて、先生。

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