その時。

 背筋を走る冷気にも似た気配に、キアノスはバネのように振り向いた。

 唸るような濁声が、小屋の空気を微かに震わせる。

「よォ、来たのか」

 黒い壁を、入り口の光が長方形に切り取っている。その光の中に、いつの間に現れたのか、周りの壁よりも黒い人影が立っている。

 軽く戸口にもたれてキアノスをじっと見ているのは、貴族剣士ではなかった。

「こ、この前の……黒い……」

「殺人鬼って言うなよ。そのあだ名は気に入ってねぇんだ」

 だるそうにつぶやきながら、男は滑るように小屋へと入ってくる。

「黒い殺人鬼ってのはな、ロスミーのヤローの作り話だ。俺を悪者に仕立てるためのな」

 近づかなくても、キアノスにはその黒さが逆光の演出だけではないとわかっている。

 キアノスは、とっさにローブの袖をあげ、礼の姿勢をとりながらわざと固い声を出した。

「せ、先日は失礼しました。僕はキアノス・コルバット、“夜闇”と名乗っています。あの、あなたのお名前を伺いたく……」

 まともな魔術師であるなら、礼式に則って魔術師同士の呼び名を名乗り返してくるはずだ、と思ったからだ。

 しかし、返ってきたのは、キアノスでなくとも気づくようなせせら笑いだった。

「てめぇは名前で安心すんのか? 変なヤローだな。俺はギスト・バウケという」

「……魔術師としての名は何とお呼びすれば……」

「勝手にしろよ。ああ、殺人鬼はゴメンだぜ?」

 そして、キアノスが反応する前に言葉を継ぐ。

「ついでに、そのクソ丁寧な喋り方やめろ。薄まった酒並に味がねぇ言葉なんぞ、耳に入らねぇからな!」

 素性がわからない男に荒い言葉をかけられ、キアノスは思わず身構えた。袖を下ろし、内側に潜ませた《触媒》の感触を確かめる。

 それを見て、ギストはふと不思議そうな顔をし、やがて驚いたような笑みを浮かべる。

「オイオイ、妙な勘違いすんなよ。俺は正式な魔術師だぜ? 多分、お前が考えてるよりずっとな。そう聞いて安心すんなら……しろよ」

 言われて安心できるはずもなく、キアノスはとりあえずどうやって小屋を脱出するか考え始めた。

 その目の動きを探るように動きを止めたギストは、やがてゆっくりとキアノスに歩み寄る。

「で? ロスミーをとっちめて俺と一山あてる気になったか?」

 伸ばしっぱなしの黒い長髪をぞんざいに掻き上げ、ギストは蝋人形のように白い顔でキアノスの視線を真正面から捉える。

 鋭く切れた吊り目に見据えられて内心たじろぎながらも、キアノスは平静を装った。

「……く、黒い殺人鬼っていう話は嘘、ですか……では、ロスミーさんが言った、魔術師協会本部からあなたが何か盗んだというのは……」

 キアノスの目の前で、ギストの笑みが消える。

「お前から盗んだわけじゃねぇだろ」

 ドスのきいた声には、有無をいわせずキアノスの口を封じる力がある。

 キアノスはそれに抗った。黙ってしまっては、ロスミーとギストのどちらが正しいのかわからないままで気持ちが悪いからだ。

「あなたが泥棒なら、魔術師以前に……人として信用できないので」

 言ってしまった、と思ったが、キアノスが胸の内にかいた冷や汗ほどは、ギストは気にしていなかった。

「ふん、お堅いこって」

「……え、だ、だって普通はそうでしょう!?」

「もし俺が今、ファラ・クロウントにあったものを持ってたら何だってんだ? あいつら……てめえの魔術ワザより権力カネの方が大事な奴らにゃ、無用の長物ばかりだぜ?」

 お世辞にも丁寧とは思えない言葉が続く。

 キアノスは、言葉を聞き漏らすまい、表情を見逃すまいとギストを注視した。

 ギストは、目をそらした。

「じゃあ教えてやろうか、そいつは古いモンだ……ヒトの一生なんて屁じゃねぇくらい、な。そういうモンが持ち主だのありかだのを変えるのは当然じゃねぇか? 今回はたまたま俺が動かしただけの話……おっと」

 ギストは突然、言葉を切った。

「おでましだ」


 ギストの背後の四角い光の中に、新たな人影が浮かんでいる。

 鎧のたてる金属音が、小屋に響いた。

「あ、ロスミーさ……」

 剣士の姿を認めたキアノスは、呼びかけようとして語尾が霞んだ。

 華美な旅用マントと軽甲の装飾を外し、柔らかい髪を革バンドでまとめ、襟と関節部分に紋章入りの革防具を取り付けたロスミーの格好は、まさしく《 賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)》が「獲物」を「狩る」時の装備だ。

「新人くん、今聞いたとおりだよ。やはりこいつは、天下の犯罪者だったな!」

「お前もしつけぇな。人の話に後から割り込んできてでかい面すんなよ」

「うるさい! 魔術師には魔術師をエサに……か。うまくかかってくれたじゃないか」

「引っかかったのはどっちだろうな」

 売り言葉に買い言葉、その間に不穏な企みが見え隠れする。

 キアノスは今更ながら、気になることに軽々しく首を突っ込んだ自分の愚挙を少し後悔し始めた。

「この新人君がお前に味方するバカものだったら、わたしとて、ちと厄介なことになっていたかもしれないが……」

 ロスミーは、言葉を継ぎながら隙のない動きで小屋の入り口をふさぐ位置に立ち、すらりと剣を抜いた。

「……幸いレントラックの卒業生は人を見る目があるとみえる。新人君、手出しは無用! 一騎打ちで決着をつけてやる!」

「俺が怖くて様子見してた、って正直に言えよ。そうすりゃ、金輪際テメェのニヤけた面を見なくて済みそうだ!」

 応えて、ギストはロスミーとキアノスの間から素早く飛び退いた。


 キアノスを険しい視線で牽制しつつ壁際まで退いたギストは、そのまま壁沿いに走ってロスミーとの間合いを一気に詰めた。いつの間にか、小振りのナイフが逆手で握られている。

 右手を体の左肩上に振り上げて反動をつけたギストは、低い姿勢から床を蹴ってロスミーの脇腹を襲った。

 ロスミーは中段に構えていた剣の刃を返し、絶妙のタイミングでナイフを弾く。

 ギン、という耳障りな音が響いた次の瞬間、ギストの姿がロスミーの視界から消えた。

 数日前、キアノスが初めてギストと遭った時と同じような跳躍。

 異常な身の軽さでロスミーの頭上を越えたギストは、真っ直ぐ小屋の入り口を駆け抜け外へ出た。

 その間、キアノスは瞬きすらできない。

 ロスミーは大きく剣で弧を描き、ギストが飛び込んでくるのを防ぎながらぱっと振り向いた。

 そのまま一足飛びに小屋の入り口から飛び出すと、草を踏みしめて足場を確かめる。


 間合いを計りあう二人の張り詰めた空気に吸い寄せられるように、キアノスは小屋の入り口へ近寄った。

 拳二つ分ほどの刃は煌めき、軽いうなりと共に空気を裂く。

 腕の長さほどのやや短めの剣は、死を招くナイフに的確に応じ、隙あらば巻き込み、叩き落とそうとする。

 素早い足さばきで堅く甲った靴が土をえぐり、柔らかく黒い長靴は音もなく風のように草を揺らす。

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