(あの時……リリィカを探して走っていた時感じてた背筋の焼けるような痛み……あれは炎熱のせいだけじゃなかったんだ。あれは……大気に満ちた魔力カウェルのもたらす慄きだったんだ!)

 人智を超えた不自然なる力を手に入れると称される、魔術の道。

(……だとすると。僕の魔術師としての覚悟は、まだ足りなかったらしいや)

 キアノスは自嘲気味につぶやくと、顔を上げた。

(――こんな「事故」の巻き添えになってたまるか!)

 火の粉が滝のように降ってきて、先刻の争いで傷んだ髪が再び薄煙をあげた。

 右腕だけでなく足も感覚がない。

(――“赤い翼の天使”という言葉の……真意を掴むまでは!)

 微かに動く左手で、キアノスは膝のすぐ先のカラカラな地面に紋様を描き始めた。全ての気力と記憶の限りを注ぎ、術を編んでいく。残る僅かなカウェルを鋭角に配し、この強大な嵐の勢いをいなそうというのだ。

 地面に記した紋様が黒い光を弾けさせ、キアノスの前方に船の舳先のような立体の壁が出現する。

 異変に気づいたのは、その瞬間だった。

(術が……力がまとまらない!?)

 見れば、完全に編み上げたはずの黒い《共有魔術》がサラサラと崩れていく。まるで砂漠に描いた絵が風にさらわれていくようだ。異変がこれだけであったなら、キアノスはこれも自分の力不足と諦めただろう。しかし、炎を押さえ込んでいるはずの森の境界を見て、キアノスは目を疑った。

 森の外に何者も出すまいと立ちはだかっていたはずの学院の守りの力が、目に見えて一方向に引っ張られている。しかもそれは門の外に向かっているのだ。

 キアノスのはるか後方から新たな竜巻が現れ、炎の混ざった空間の歪みごと吸い込んで、門を包み込む魔力を引き剥がしていく。

 はらわたが持っていかれるような“圧”の変化を感じ、キアノスは無力感と強烈な吐き気で自我を失いそうになった。

 その得体のしれない引力が、扉が閉じることすら僅かに遅らせ、その僅かな隙間に向けてディナの珍妙なローブ姿が思いっ切り跳んだ。


 キアノスは、暗度を増す視界に浮かぶ光景をスローモーションのように見ていた。

 使命を果たすべく圧倒的な質量で迫り来る左右の扉——圧縮されて眩さを増す炎——その真っ只中から真っ赤な羽毛をまとったように飛び出してくるディナ——。

 その不敵な笑顔は驚くほど美しい、純度の高い魔術を見た時のようだ……と、薄れゆく意識の中でキアノスは思った。それは、許容量を遥かに超える力にさらされた魔術師が見るという、幻覚だったのだろうか。


 腹の底にズシッと響くような音とともに扉がピタリと閉じ、炎は一瞬大きく膨らむと即座に跡形もなく消えた。

 そこには焦げた木、一枚岩を掘り抜いた壁と化した門、気を失った青ローブの魔術師、そして喜びを爆発させる赤ローブの魔術師が残った。



────────



 森は静穏を取り戻し、何事もなかったようにゆるゆると空が明るさを増していく。

 魔力による秩序の支配下に置かれていた学院の森とは異なり、辺りには虫の鳴き声と星明かりが生き生きと満ちている。

 暑くもなく寒くもない心地よい風が、僅かな焦げ臭さを乗せて草木をざわめかせる。

 真夜中のように真っ暗に閉ざされていたキアノスの意識に、小石のような声が落ちてきたのは、朝日が地平線から顔を出した頃だった。

「…………っと! ……ってば!」

 モノクロームの靄をかき分けて、思考が徐々に色を取り戻してくる。仰向けになっているはずだが、肺が潰されたように空気が吸えず、胸が苦しい。

(……ああ、頭も割れそうだ、きっと僕は瓦礫に埋もれたんだ。いや、丸焼きにされたんだっけ……とにかくしばらくほっといて……痛たっ)

「ちょっと! 何だっけ、名前忘れた、おいっ!」

 ぺちぺちと頬を叩く緊張感のない音。

 やがて、キアノスの目が非情にも無理矢理こじ開けられた。朝の柔らかな陽光も、今のキアノスには網膜を突く刺激にしか感じない。

「おいっ! えーっと、いい加減にしっかりしなよ! ホラ!」

 目の前にはぼんやりとした人影が、赤く長い髪を垂らして覗き込んでいる。しかし、まばたきができないキアノスの目は焦点を合わせることができなかった。

「眩し……と、とりあえず、手を離して……しかも『おい』って……」

「よかった、生きてた! ねぇ、何だっけ、アンタの名前」

 文句を言いかけたキアノスの言葉尻が、弾むような抑揚のある声にかき消される。

 一体誰のせいでこんな目に遭ったと思ってるんだ、と言いかけて、キアノスは咳き込んだ。

 やっと解放された瞼を忙しなくまばたかせて、乾燥した目を潤す。次いで、ゆっくりと左腕を動かしてみる。力は入りそうだ。両足の膝を立てて、また伸ばしてみる。これも何とか無事そうだ。

 意識がはっきりするにしたがって痛覚も戻ってきたので、右腕は動かさなくてもわかる。

「なにそれ、体操? 痙攣?」

「……痙攣って」

「ホント大丈夫? 自分の名前、ちゃんと覚えてる?」

「君に言われたく……ないっ!」

 朝焼けに染まった空を背に真上からキアノスの顔を見下ろしているのは、先ほどまで豪炎をまとっていたとは思えない少女だった。

 半ば強制的とはいえ、キアノスは初めてディナを至近で見ることになった。

 毛先にクセのある長い髪、小ぶりな顔。ちょっと吊った目元は生命力に溢れ、表情は無邪気にくるくると変わる。

 キアノスがディナを見ていると、ディナもキアノスをまじまじと見返してくる。

 やがて眉がくっと吊り、目がぎゅっと細められるのを見て、キアノスは慌てて目をそらした。動揺をごまかすために、顔を左右に動かしてみる。そうしてようやく、自分の置かれた状況を掴めたのだった。

 息苦しい肺から空気を絞り出して、言葉をつなぐ。

「ごめん、自己紹介して、なかった……僕は、キアノス・コルバットといいます。君、2組のディナさん、だよね?」

「あれっ、一度会っただけでよく覚えてるね! そう、真紅の美少女、ディナ=ラージェスタ・セラルーテとはあたしのこと!」

「そりゃ……人生決まる瞬間、あんな乱入されりゃ、イヤでも覚」

「やっぱあたしの『ふぁーすと・いんぷれっしょん』がスゴイのかなぁ」

「……二度、会ってるんだけどね」

 キアノスは、小さなため息で薄めたつぶやきをボソボソと漏らした。そして、浅い息を数度繰り返してから、ようやくディナに告げたのだった。

「えーっと、あのさ……僕の胸から、その膝を、おろしてくれると……起き上がれると、思うんだ」

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