試練の森

 赤い……視界全てが赤い。

 自分の庭のように見知った風景は面影すら無く、吐き気をもよおすような悍ましい色が見渡す限りを覆って揺らめいていた。

 崩壊の轟音と爆発音が鼓膜を襲い、熱と煙がねっとりと鼻と口を塞ぐ。吸い込んだ空気は猛烈な硫黄臭で鼻の奥を刺し、涙が止まらない。

 とても人間の意思で正気を保てる状況ではなかった。

 本能的に耳を塞ぎ目を瞑った、僅かな……意識の断絶——


 ——ほんの一瞬に感じたそれがあまりにも高価な時間だったことに気づいた時には、既に遅かった。

 灰塵の滲む目の前には、信じ難い光景が広がっていた。


 色という色が消えた世界。


 炭と化した大地から灰色の煙が幾筋も立ち昇り、轟々と渦を巻いてどす黒い雲へと吸い込まれていく。

「リリィカ! リリィカーッ!!」

 自らの叫び声に弾かれたように立ち上がる。腫れた喉を通る息が炎のようだ。

「リリィカ、どこだーっ!」

 微かな光が、ちらと闇の中に明滅したように見える。あれは村の集会場……いや、小さな学校があった所か。

 煤けた足を踏み出した瞬間、目指す建物が煙を舞いあげて崩れ落ち、世界がぐらりと暗転した。


 再び目が感覚を取り戻した時、無我夢中で瓦礫を掘り起こしていた腕にはいつの間にか鉤裂きの傷が幾条も走り、血を噴いていた。指先の感覚などとうに無い。ずたずたになったズボンで灰の降り積もった瓦礫に膝をついており、その膝の上には……

 柔らかい髪に縁取られた、愛しい、小さな顔が。

「リリィカ……しっかりしろ! 一体何があったんだ……!?」

 自分のものではないように震える手で、できる限りそっと顔に張りついた髪を払ってやると、指先の煤とも血ともつかない黒いものが白い顔に筋をひいた。

 微かに動く唇。思わず抱え上げて顔を近づけると、冷たい息が耳朶にかかって慄然とする。

「……天使が……いたの……」

「何だ? どうした?」

「……赤い翼、の……天使を、探して……」

 真っ黒な世界の中で、リリィカだけに淡い光があたっている。

 その柔らかかった頬を、優しい笑みを絶やさなかった唇を、深く澄んでいた瞳を覆い閉ざす瞼を、黒い水滴が点々と汚していく。


 ——そうだ。僕がレインバスト魔術学院の門を叩いたのは、その直後。十七の時——



────────



「とっとと歩けよ、邪魔くさいな」

 至近から浴びせられた罵声に、キアノスははっとした。

 無意識に動いていた足を止め、軽く頭を振って辺りを見回すと、炎と炭で塗り潰された悪夢は眼前の爽やかな朝の光景へと色を変えた。

 暗闇に沈んでいた森には朝日がさし、レインバストの学舎を出発してから経過した時間を推測させる。

 もうだいぶ森の奥に踏み込んだようで、元から細かった道はもはや獣道のようだ。振り向けば、木々を超えてそびえていた学院の時計塔も既に見えない。

「お前、まさかまだ“森の幻”に囚われてたのか?」

 小馬鹿にしたような声の方を見ると、低い陽光を正面に受けて、ツヤのある黒いロングコートに身を包んだ小柄な青年が立っている。

「す、すみません……ちょっとぼうっとしていて……」

「ふん、自分の《カウェル》も見つけられない《はぐれ》には、学院の森の力は強すぎるとみえる」

 口の端に浮かぶ冷笑と、言葉一つ一つに滲む侮蔑の響き。

 キアノスは、特に人の顔と名前を覚えることが得意という訳ではなかったが、その尊大な青年には覚えがあった。

「君、2組の……シウル・ノシュキィ?」

 シウルと呼ばれた黒コートの青年はついと顎を上げ、キアノスを下目で見やった。

 額に巻いた幅広のヘッドバンドの端に、目玉を象った真新しいエンブレムが光っている。

「自分の学年の総代くらいは覚えてるってわけか。オレはお前のことなど知りたくもなかったってのにな」

「……何のことかな、僕も君のことをよく知らないけど」

 とげとげしいシウルの声と戸惑ったキアノスの声が、森に吸い込まれていく。

 キアノスから視線を外さぬまま、シウルは腕を抜いていたロングコートを無言で肩に跳ねた。コートの真っ白な裏地が露わになったのを見て、キアノスはシウルが“白”と“黒”の二色ローブを与えられた魔術師であることを知った。

 シウルは、肩から斜めにかけた鞄から真新しい書類挟みを取り出した。胸の高さに掲げた黒い表紙に、木の葉から漏れる陽光がチラチラと斑模様を描いている。

「オレは、今年の卒業生名簿をレントラック中央都市の魔術師協会本部に届ける任を負ってるんだよ……学年の主席卒業者としてな」

「そ、それは大役だね」

 キアノスは、シウルの真意を掴み損ねた。

 確かにその名簿には、キアノスの名も、クラスメートたちの名も、もちろんシウルの名も、昨日会ったあのディナという少女の名も記されているはずだ。しかしキアノスはそれを見たことがなかったし、そもそもこの世の魔術師の大半は一生見る機会も見る必要もないものである。

 何かを促すような目つきでシウルは名簿をひらひらと動かし、寄りかかっていた木から体を起こしてゆっくりとキアノスに歩み寄った。

「何か、オレに言うことがあるんじゃないか?」

 数瞬の沈黙が、キアノスの喉を塞いだ。

 何を言えばいいのか皆目見当もつかないが、シウルの瞳の奥に凶暴な何かが待ち構えているのがぴりぴりと感じられる。

「ぼ、僕が? 中央には行く予定がないし……ええと」

「わからないか。じゃあ、はっきり言ってやる。お前は、オレの!」

 シウルは、キアノスの目の前までつかつかと歩み寄り、名簿をキアノスの眉間にピタリと突きつけた。

「面汚しなんだよ!」

 シウルの噛みつくような大声に、キアノスは身の危険を感じた。

「つ、面汚し!? 僕が君に何したっていうんだ……?」

 クラスが違うといっても、学院では組が違えば生活する寮も別だ。受講人数の少ない特殊な応用授業でも取らない限り、まず生徒同士の接点はない。事実、キアノスは記憶にある限りシウルと会話をしたことはない。心当たりのあろうはずもなかった。

「呆れたぜ、自覚もないのかよ! オレがこれを学長から預かった時、どれだけ忌々しい思いをしたか……お前は卒業できて暢気に浮かれて、考えもしなかったんだろうな!」

 ほとんど怒鳴り声と言ってもいいシウルの声が樹間に響き、不自然な風が唸りをあげてキアノスの髪を逆立てた。

「よく聞け! オレの代から《はぐれ魔術師》が出た、お前のことだ! お前は門出からオレの経歴に泥を塗ったわけだ、わかるか!!」

 キアノスの項に悪寒が走った。

 自分の魔力に“色”を纏うまでには至らなくても、ハイ・クラスを卒業したキアノスには他人の《カウェル》を感じ取るくらいの力はある。

 反射的に“防御の印”を描こうと左手を上げかけて、何を考えているんだと自分をたしなめる。

 その僅かな動作を認めたシウルの両眼がクッと細くなり、顎に力が入って声が低まった。

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