3
嵐のようなひと時が過ぎ、リーンの研究室は再び静けさを取り戻した。
ランプの火が芯を焦がす音さえ聞こえる気がする。
「さてキアノス、すまなかったな。お前の時間を無駄に費やしてしまった。何か私に聞きたいことがあるんだったね?」
「はい、先生……その、子供騙しの戯れ言めいて聞こえるとは思いますが……」
リーンに問われたキアノスの頭は、大分混乱してはいたが、尋ねなければならない何より大事なことを忘れてはいなかった。
学院で学んできたどの呪文を口にするよりも激しい緊張と動揺が、キアノスを震わせる。
「“赤い翼の天使”——について、先生は何かご存知でしょうか……何か、思い当たることなら何でも、是非……」
言葉を発しながら、キアノスはリーンの顔を凝視する。表情の一欠片も見逃さないように。
しかし、リーンはゆっくりと目を閉じ、再び開けてはっきりと答えた。
「残念だが、聞いたことがない」
「そうですか……」
「君はその言葉を追って、ここを旅立つのだね?」
「はい。僕にとって、どうしても突き止めなければならないものなのです」
「それは、お前の……あの、娘……リリィカの言葉……だったのか?」
リーンの薄茶の瞳が陰を帯び、珍しく口を濁す。
キアノスは頷いた。理性には迷いがあったが、心は決まっていた。
「そうか……魔術師の勘は計り知れないものだ、お前を導くものに間違いなかろう。お前は賢い。だから心配はしていないが、くれぐれも道を過ってくれるなよ」
「その点はご心配なきよう。何たって、懲罰士のラクタス先生は怖いですから」
「言うなぁ、お前!」
冗談めかして廊下を見やり肩を竦めて見せたキアノスにリーンは安堵し、いたずらっ子のような仕草でキアノスをつついた。二人は笑いだした。
「そう言えば先生。先生も、僕がまだ受け取らなければならない物があるって仰ってましたね」
「ああ、そうそう。これだ、ほら」
リーンは箱の山から、掌に乗るくらいの小さな木箱をキアノスの両手の上に置いた。時代物めいたその箱に、キアノスは心当たりがない。
「……これは?」
「いいから開けろよ、私からの餞別だ」
リーンは紅い唇を吊り上げ、意地悪くキアノスを見つめた。
キアノスは眉根を寄せ、小箱の紋様を指でなぞる。単純には開けられない、魔術による仕掛け錠が施されているのだ。
難しい顔のままキアノスはひと呼吸躊躇うと、箱の側面に人差し指で適切な紋を描いた。小声で短い“呪”を囁いてパチリと指を鳴らすと、箱の金具を固めていた《カウェル》が解け、勢いよく蓋が開く。
リーンは素直に感嘆した。
「そいつが開けられなかったら中身ごと没収だったところだが、杞憂だったな」
師の前でいいところを見せられた嬉しさと安堵の表情。キアノスの顔に浮かんだそれは、しかし、一瞬にして凍りついた。
「せ、先生! これは……どういうことですか!?」
箱の中には、高価なサファイアが嵌め込まれた、鍵を象ったブローチが輝いていた。
「さっき言ったろ? 餞別だ、センベツ。それから……我々試験官はお前の行く手に、全てを押し包む深い闇を見た。しかしそれは、人を悪に染めるものではない。優しく心地よい、安らぎを感じさせる闇だ。これからは、一人前の魔術師として“
「し、しかし、僕の“力”はまだ“色”を纏うに至っていません! 魔術師としての名を名乗れるだけでも無二のご厚情なのに……“
「確かにお前は自分の“色”を見つけてはいない。だから、今しばらくはそれを隠しておくのがよいだろう。だが、いつかお前の力が“色”を纏う時がきたなら、その時堂々とその紋章を身につけなさい。その存在を予見……いや、確信していた私たちに感謝して、な!」
リーンは朗らかに笑った。
「さ、今度こそこれで最後だ。行きなさい。次の生徒が待っているのでね。——元気でな、“夜闇”のキアノス」
余りに凄まじい衝撃に、キアノスはリーンと別れの挨拶をしたことも定かに覚えていなかった。
(今日だけは最後まで落ち着いて、立派な魔術師として先生と別れたかったのに……まだまだだなぁ、僕は)
リーンの声を耳の中に残したまま、キアノスはローブの箱とエンブレムの入った木箱を抱えて、明るい陽光の差す廊下を足早に自室へと戻り始めた。
旅立ちまで、そう猶予はない。
────────
担当の生徒たちにローブと名を与えて次々と送り出し、リーンは自室から茜空の逆光に沈む時計塔を見上げていた。
一年で最も憂鬱な夕闇が、呆れるほどのろのろと辺りを覆っていく。
卒業生の出立は、卒業日の真夜中と決められているのだ。
魔術師。
それは、この世を構築する
学院を出る新米たちは、各々何かを求めて生きていくのだろう。キアノス・コルバットが謎めいた「赤い翼の天使」を追って旅に出るように。
リアス・ルー暦765年、《光明の月》28日。
レインバスト魔術学院は、17名の卒業生を輩出した。
<卒業> 終
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