フィーリング=ブルー

黒渦ネスト

〈序章 卒業前日〉

最終試験

 轟音が、レインバスト魔術学院の実技棟を震わせた。

 窓がビリビリと音を立て、廊下は心なしか煙り、教官たちが慌ただしく走っていくのが見える。

「キアノス! キアノス、大丈夫か!?」

 若い女の張り詰めた声が、キアノスと呼ばれた青年の注意を室内に引き戻した。声の出所は、小さな試験室備え付けの伝管だ。

「リーン先生! 僕は何ともありませんが、外で凄い音が……!」

「よし、無事ならいい。面倒くさいことになるから、騒ぎが片付くまでそこから出るなよ! ……っと、試験の結果は明日言い渡す。腹を括って私の研究室に来なさい、いいね」

 早口でまくし立てる声は一方的に途切れた。カラリ、と伝管の蓋が擦れる音を聞き、キアノスは慌てて通話口に飛び付いた。

「先生、先生! ……参ったな、試験はもう終わりってことなのかなぁ」

 金属管の先に、既に気配はない。

 キアノスは小さく溜め息をつき、明るい水色の癖っ毛を掻きまわすと、つい先刻まで卒業試験が行われていた部屋を見回した。


 見回した……と言っても、さほど長身でもないキアノスが大股十数歩で一周できる部屋だ。備品も高がしれている。

 木とも石ともつかぬ飾り気のない床に壁、丈夫なだけが取り柄の簡素な書台と椅子、天井から下がったランプ。それと、教官の部屋とつながっている先程の原始的な伝管。これで全部だ。

 今の時期は個別に行われる卒業試験期間中であり、当然のことながら書物などは持ち込み禁止である。ランプには明るい火が揺らめいているが、それに照らされた書台には何も乗っていない。

 せめて研究書の一冊でもあれば、と思ったのだが、ここは教室や研究室と違って暇つぶしになりそうなものは何もない。


 キアノスは、扉に嵌った窓に顔を張りつけて外の様子を窺った。しかし、視界に入るのは廊下の向かい側にある同じような扉だけである。扉に耳をつけてもみたが、先程の轟音以来、どんな音も聞こえない。

 それもそのはずである。ここは試験だけでなく、未熟な学院生たちの実技練習や指導、教官たちによる危険な実験などが行われる部屋だ。万が一のために外界と切り離しておくのは、部屋の「外」にいる者を守るためには当然の処置なのである。

「試験室の“遮断”の魔術を突き破るほどの爆発音だろ? 何事もないわけないじゃないか! ……よし、要は部屋から出なけりゃいいんだ」

 普段なら厄介ごとには関わりたくない生真面目なキアノスではあるが、空っぽの部屋に足止めを食らった上、静寂と秩序が絶対のルールである学院内で爆発騒ぎとなれば話は別だ。

「大体この部屋の中からじゃ、騒ぎが収まったかどうかわからないんだし」

 独り言で自分を納得させると、学生用ローブの幅広の七分袖を捲り上げ、分厚い扉のノブをそっと回した。

 重い扉を指一本分、もう一本分、と押していく。年代物の蝶番は音もなく滑り、清潔な学院にはあるまじき埃っぽい空気が入ってくる。

 キアノスは中腰になり、頭半分だけを外に出して廊下を見回した。これなら部屋から一歩も出ていないと言えるだろうという、屁理屈である。

 試験室の外には、同じ造りの部屋が整然と並んでいる。騒ぎはどうやら右の突き当たりの部屋で起きているようだ。

 キアノスは、入り混じる数人の声に耳を澄ました。

(あのキンキン声はレドゥ先生だな。一緒に怒鳴ってるのは実技棟管理人のおっちゃんで、あ、あの後ろ姿はラクタス先生……げっ、リーン先生もレミドラ先生もこっちに来てるのか!)

 見たところ、駆けつけたのはハイ・クラスの指導者ばかりだ。

(割と大事件なんじゃないのか⁉︎ 実験の失敗だろうか、それとも……学院生の反乱、とか……?)

 数十歩先の騒ぎの中心には、キアノスが押し開けているのと同じデザインの重厚な扉がある。いや、あったはずだ。しかし相当乱暴な力によって、下半分が引きちぎられたように無くなっている。

 そして、その奥からすべての混乱を引き裂いて聞こえてきたのは——


「いぃぃやぁぁぁぁッ!」


(悲鳴!? ……お、女の子!?)

「やぁぁぁッ! 止めないでーッ! あたしの卒業かかってんのよ!? 最後くらい思いッッきりやらせてよおぉぉッ!! ええぇぇぇいッ‼︎」

 甲高い叫び声と共に、突然、自然の物ではない真っ赤な閃光が幾条も辺りを突き刺した。

 キアノスは一瞬目を伏せ、次いで目を見張る。

(試験室は全て“解呪”されているはず! 何で室内で魔術が発動してるんだ!?)

 その不自然な事実について、じっくりと考えている暇はなかった。

 真っ白な光球が現れ目を灼かれたと思うと、次の瞬間には爆風が廊下を駆け抜け、キアノスが縋っていた扉を大きく押し開いたのだ。

 上半身が、扉につられて部屋の外によろめき出、髪が乱雑に顔を叩いて、ゆったりとした服が風をはらみ体を振り回す。

 上着の袖を翳して頭を守ろうとしたキアノスは、その時突如として閃光や爆風以上の異常な“圧”を感じて戦慄した。


 息が苦しい。

 体が重い。

 腕が上がらない。


(な、何だ、この感じ……!?)

 ねじ伏せられたように視線が低くなり、廊下の床に片膝をついた瞬間、細い視界の端から大きな破片が吹き飛んでくるのが見えた。

(しまった!!)

 硬直するキアノスの前に、何の前触れもなく暗幕のようなものがふわりと割り込む。キアノスの全視界が黒く塞がれ、飛来物の行方がわからなくなる。

「ラ、ラクタス先生‼︎」

 キアノスの眼前に着地した長身の上級教官ラクタスは、墨黒のクロークを翻し無言のまま背を向けた。膝をついて見上げるキアノスの視線を、切れ長の両眼がちらりと横切った。

 ラクタスはカチリと両の踵を揃え、指を開いた両手を前方に突き出した。

 半瞬の差。

 蝶番から自由になって弾け飛んできた扉の上半分が、ラクタスの両掌寸前、見えない障壁に激突して落下した。

 止まっていた時間が動き出したように、割れたランプの笠、砕けた椅子の足、窓ガラスの破片が次々と飛んできては叩き落とされる。ラクタスのクロークの裾と腰下まである長い黒髪が衝撃で激しく靡き、中腰のキアノスの頬を痛いほど叩く。

「馬鹿野郎。卒業を前に頭を吹っ飛ばされたかったか」

 冷ややかな低声バスをキアノスの耳が受け止めた頃には、ラクタスは既に扉の消し飛んだ部屋の前に戻っていた。


 何度目かの轟音が一気に収束していく。

 白煙がもうもうと噴き出している部屋は、扉が無いというのに中の様子が窺えない。

 妙に静まり返った廊下を、煙塵だけが流れていく。

(収まった……のか?)

 キアノスはよろめきつつ、廊下の中央へ歩み出た。リーンが何か怒鳴っているのが聞こえる。塵の入った目をこすり何度か瞬きすると、暴れ回る小さい生き物を捕まえでもしているような騒ぎが見えた。

(一体何なんだ? それに、さっきの声……)

「どーいーてーーッ! どきなさぁぁぁいッ!!」

 キアノスの耳にフェイド・インしてくる大声。キアノスが目を凝らしていた、まさしくその煙の渦中から、ガラスの破片や塵を蹴立ててすさまじい形相で爆走してくる——


 真紅の少女。


 後頭部で一括りにまとめられた赤い髪、両の上腕にひらめく赤いリボン、赤いズボンの上に身につけた深いスリット入りのワンピース型学院生服、それらが全て滅茶苦茶な疾走で飛び跳ねる。

 行く手を塞ぐかたちでつっ立っているキアノスを睨むのは、怒りと焦りで真っ赤に燃え盛る、人間離れした強い瞳。

 キアノスは咄嗟に半歩後ずさった。

 彼方で、スレンダーなリーンと恰幅の良いレドゥが仁王立ちになり、揃って腰に両手を当てて大声を上げている。少女のすぐ後ろからは、風のように身を翻したラクタスが早足で追ってくる。

 これはどう考えても、騒ぎの元凶が逃げ出したようにしか見えない。

 ラクタスの無言の直視は、明らかにキアノスに少女を止めるよう命令している。

「え、僕!?」

 こんなことなら言いつけられたとおり試験室で目も耳も塞いで鼻唄でも歌っていればよかったと後悔するも、この状況に至ってしまっては教官たちの不興をかうのが怖い。

 キアノスは今日二度目の溜め息をつき、眼前に迫ってきた少女の真正面から逃れるように身を引いた。

 走り抜けていく少女と、至近距離で一瞬だけ目が合う。キアノスは心の中で謝りつつ、惨事から顔を背け……


 さり気なく左足を突き出した。

 足首に、鈍い衝撃。

 少女が宙を舞い、盛大に転倒した。






〈序章〉 終

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