第一章
1話:いつもの朝
結城アストの朝は早い。
同年代たちはまだ眠っているであろう六時に目覚ましで起き、着替えはせずに洗面所で顔を洗う。肩にかかるくらいの髪をブラシで梳いてゴムでまとめるとそのままキッチンへ。
コーヒーメーカーのスイッチを入れてから、今日の豆を選ぶ。だが今日はマシンの隣に既に置かれていた。銘柄をみるとそろそろ使い切りたいと思っていた豆だ。使い切れということだろう。異論はないのでそのまま使い切ることにする。
フィルターに豆を移すとマシンで淹れるには中途半端な量になった。少し悩んでマシンのスイッチを切ってやかんに水を入れて沸かしだす。その間にサーバーとドリッパーを用意して、コーヒーの用意はいったん終了。
「みゃーーーーー!!!!」
突如響いた悲鳴に驚くことなく時計を見ると、六時半を少し過ぎたところ。続いてばたばたと慌てて走った音がキッチンに向かってくる。
「間に合ったか!?」
「ざーんねん。今日も俺の勝ちー」
「くそーー!!」
着替えもせずに慌ただしく飛び込んできた姉へ向かって、アストは勝ち誇った笑みでブイサインをしてみせた。
コーヒーの匂いがしなかったからもしやと思ったのに……。とぶつぶつ悔しそうに呟く姉――ミクをとりあえず洗面所へ押し込み、朝食の用意を始める。
何を作ろうか。冷蔵庫を覗き込むとハムと卵がまとめて箱の中に入っていた。使い切ってほしいものを入れておく箱は母からの考案で、滅多に料理をしないからどれを使っていいかわからない、とのことで導入を始めた。やってみると意外と上手く回るもので、おかげで冷蔵庫内の賞味期限切れがぐっと減った。なくなったと言えないのは、そもそも入れ忘れただとか、嫌いで使わなかっただとかだ。
今日の朝食の材料は決まった。調理法はハムエッグ一択。朝は手軽にすますのが一番だ。
「アストー。コーヒーはー?」
「あー、姉ちゃんドリップしてー」
「えー? マシン壊れたのー?」
「豆が中途半端だったー」
「まじかー。お湯沸かしてるー?」
「沸かしてるー」
「了解ー」
会話をしつつもフランパンを温め、くっつかないように気をつけながらハムを二枚並べてその上に卵を落とす。
片方にはあら挽きこしょうと塩を振り、片方は塩だけ。ハムが焼ける匂いがしたら少量の水を入れて蓋をする。
ちょうどお湯が沸いたのでポットを温めるため少量入れておいた。あとは戻ってきたミクの領域だ。料理は得意でない姉だが、コーヒーや紅茶を入れることに関しては家族の中で一番なのだ。
準備してあることにありがと。とミクは弟に感謝して、豆の香りを嗅ぐ。
「今日はー。香りからして澤田さんブレンド3!」
いつものことながら、姉の嗅覚にアストは驚きの表情を隠せない。その表情で合ってることを確信したミクは誇らしげに笑い、ポットのお湯を入れ替えた。
「3はねー、ほんの少しフルーティな酸っぱい香りと香ばしい香りがするのー。だからブラックがいいんだけど、私はカフェオレなのだー」
とりゃっ! と掛け声こそ勢いがあるが、お湯自体は静かに優しく注がれる。最初は雨の降り始めのようにぽとぽとと全体に。そして蒸らすこと数十秒。ゆっくりと立つ香りにミクは嬉しそうに目を細める。ほどなくして今度はポットの半量を一か所から細く注ぎこんだ。
その間にアストは食パンをトースターにセットして、食卓にマーガリンとバターナイフを用意していく。
姉の手元を見ていたいのだが、朝はとにかく時間がない。
続けて弁当箱を取り出そうとして、昨日、父親から伝言があったのを思い出した。
「姉ちゃん、今日は学食な」
冷蔵庫の中には弁当のおかずになりそうなものが何もなかった。
弁当のおかずは父――ロクロが作り置きしてすぐに詰められるようにしてくれているのだが、昨日の晩御飯で使い切ったと謝られていたのを思いだしたのだ。
その言葉にミクは顔を青ざめさせた。
「うそ!? お金ないんですけど!?」
「また新しいの買ったのかよ……」
「弾の補充だもん! 必要経費だもん!」
「考えて使えよ」
先月末に小遣いをもらい、姉は依頼の報酬も支払われたはず。そしてまだ月が始まって二週間も経っていない。それで金欠とはどういうことなのか。呆れてため息が漏れるのも仕方がないことだろう。
姉の無駄遣いも困ったものだが、流石に昼飯抜きは可哀想だ。何かと引き換えに昼飯をおごってやるかとミクの方を見ると、期待した笑顔が待ち構えていた。
思考はすぐさま却下。ニヤニヤした姉の額にデコピンをお見舞いしてやった。
「いったーい! 酷い!」
「酷いのはどっちだ。俺の良心、利用しようとしたくせに」
「あ、それこそ酷い! 利用はしてませんー。アストならちょっと助けてくれるかなって思っただけですぅ」
「それが利用してんだよ」
口は動かしながら、焼けたハムエッグを皿に乗せて食卓へ運ぶ。ミクも額をさすりながらコーヒーに最後のお湯を注ぎ、ポットを片づけてカップに牛乳を注いでレンジへ。アストの分のカップも用意しながらトーストを運んでいる弟を振り返った。
「アストはどうする?」
「あー……今日は砂糖一杯だけでいいや」
「そこはブラックにしようゼ!」
「カフェオレにする奴に言われたくない」
「にゃー! 聞こえにゃーい!」
コーヒーが落ち切ったのを確認して、ドリップは流しに。サーバーから立つ香りを楽しみつつ、二人のカップへコーヒーを注いだ。
既に席に着いているアストの前へカップを置けば、マーガリンを塗ったトーストが返される。
二人とも揃ったところで手を合わせて。
「「いただきます」」
これが結城アストとミクの日常。
父親と母親はいるが、ミクが小学生のころから仕事に忙しく、朝ご飯を一緒に取ることは少ない。母の職業のシフトが不定期的なのも要因だ。父は単に朝に弱くて子供たちの時間に起きられない。幼い頃は両親とも頑張ってくれていたが、ミクとアストが料理を覚えるようになってからは頼りきり。
だからといって、両親の愛がないとは二人とも思っていない。幼い頃は母があまり家にいないことに泣いたりもしたが、父がたくさんの愛情を注いでくれたし、大きくなればあれは必要なことだったのだと理解できた。
父も朝が弱い代わりに家事をこなして、二人のために弁当の仕込みもする。今日の豆を置いたのも父だろう。
だから、朝の時間は姉弟の時間でいいのだ。
「……朝の食器洗いで昼飯」
「やらせていただきます!!」
食事を終え、食器を流しにおいたらアストは自室に戻る。
彼の通う高校には制服がない。一応あるのだが、私服での登校も認められているので大半の生徒は私服で通っている。アストはその日の授業によって制服と私服を使い分けていた。
今日の時間割を確認して、運動系の物がないので制服を手に取る。細かいことだが、運動着に着替える際にワイシャツのボタンが面倒なのだ。姉にも細かい男と言われるが、気になるのだから仕方ない。
まだ真新しい制服は全体的に少し大きく、袖が若干邪魔ではあるが、周りも似たようなものなのであまり気にしないようにしている。平均身長はあるので、これから先もきっと平均的に伸びるとアストは信じている。父親も180cm超えの長身だし。母親の身長も四捨五入すれば160cmだし。
見た目よりも機能重視の丈夫な黒いリュックサックを手に持ち、リビングに戻った。
「あれ、今日は訓練ないの?」
「今日は座学だけ」
「そうなんだー」
下りていくアストと入れ違いでミクが上がっていく。
先に学校に行ってもいいが、そうすると盛大に拗ねられるのでそれはせず、リビングでニュースを見ながら待つ。
ミクは女性にしては身支度が早く、化粧もしないので十分もしないで戻ってきた。手には機能よりも見た目重視の可愛らしいショルダーバッグ。財布と薄手のノートぐらいしか入らなそうな鞄に、アストは今日も眉を寄せた。
「何度見ても使いにくそうだな……」
「うっさい! あんたのは武骨で可愛くない!」
「高校生のリュックなんてこんなもんだろ」
使いにくいのは本当のようで必要以上にかみついてくる姉を軽くいなしながら、リビングの一角に視線を向ける。
そこには家族の写真が飾られていた。その中でも一枚、よく見えるように飾られた写真を二人は見る。
アストとミクによく似た、黒髪の少年が笑っていた。長い髪を赤い組紐で纏めた、活発そうな碧の瞳の少年。
「行ってきます。兄貴」
「行ってくるわねー。お留守番よろしく、ヒミト!」
約二年前に突如消えた彼に、姉と弟は今日も話しかけて学校へと向かっていく。
これもまた日常。
朝は、姉と弟と、弟の時間。
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